夏明き
喉が渇く。
蝮は、ずっと続いている微熱にうかされるように、ぼんやりと枕元のペットボトルから水を飲んだ。ぬるい水だった。それで彼女は、今が朝方なのだと知る。ペットボトルの水は一晩のうちにぬるくなってしまったのだ、と。
だけれど、何時の朝方なのか、と蝮はふと考えた。考えて、そうして考えは散らばっていく。この微熱は何時から続いているのだろう、とか、ここは何処だろう、とか、そういう、ひどく初歩的な考えが、ぽつりぽつりと散らばった。
「どこ」
呟くように彼女は言った。
微熱は何時から続いているだろう。
(あの時から、ずっと―――)
彼女がこの熱を得たのは、不浄王の右目をその身に入れたからだった。だけれど、熱のために上手く働かない思考回路は、その熱に妙な結論を付けた。
あの時―――
魔障の病に侵されて、苦い薬を飲んだ時から、ずっと、今までこの熱が続いているのだ、と結論付けた。
だが、それも詮無いことではないのかもしれない。あの時の出来事から、明陀は正十字騎士團に所属し、そうして、‘疑い’というものを彼女は抱くようになったのだから。
「たすけて」
誰に対して願えばいいのか、もう分からない呟きを、彼女は小さく呟いた。
*
「負け犬っぽいなあ」
柔造は、書類をまとめてふと呟く。
宝生蝮に結婚を申し入れて、一月が経とうとしていた。彼女の返答は未だ否である。
否であるのに、話をするたびに向けられる視線は、強く、それでいて弱弱しくあらゆることを訴えようとしてくる。
それが怖かった。
背負えるか分からないのだ。全然分からない。
彼女が不浄王の右目を持ちだして、重傷を負い、その全ての元凶に向かって大事なものを滅茶苦茶にした、と言えた。言えたし、全てが終わったら結婚しようと思って、きっちりきっかり全てを回した。
そういうところは、自分でも賞賛に値する、などと思ってしまう訳だが、彼女の気持ちを、どうやったらいいのだろう、と思う自分が居ることも間違いなかった。
「拒否られるのは、とりあえず許容範囲」
ちゅーか、想定内?と彼は呟いた。
そうだ。結婚を拒否されるのは想定の範囲内のことだった。彼女のことだ、どんな既成事実を作っても、拒むだろうと思われた。
だけれど、その視線が怖かった。
「俺は―――」
ぼんやりと書類をまとめながら思う。
あの目は、助けてくれと叫ぶ目だった。
助けられる筈ないと思う自分がいる。ずっとずっと、彼女のその叫び声を黙殺してきたのは、間違いなく自分なのだから、と思う自分がいる。
(知ってた)
昏い思考が落ちた。彼女が明陀を疑うことを、そうしてそれでも守ろうとすることを、どこかで知っていた。どこかで?違う。見ていれば直ぐに分かった。分かったのに、大丈夫だ、とか、付いていけばいい、とか、そんな気休めみたいな言葉で彼女を繋ぎ止めようとした。
繋ぎ止められなくて、そうして吹き飛んだ彼女を抱き留めて「もう大丈夫や」と言っている自分が、たまらなく嫌だった。そんな優しさ、彼女は求めていないと知っている。
(知ってて、また逃げるんか)
それは自嘲だった。
「ごめんな」
小さく呟いた時だった。ばたばたと駆け込むように入ってくる者に、柔造を含めた一番隊の人間がデスクから顔を上げる。
「柔兄!」
駆け込んできたのは金造だった。
「お前、仕事はちゃんとせえってあれほ」
「うっさいわ!」
遮るように叫びたてた金造を、怒鳴りつけてやろうかと思ったが、それはその後に続く言葉に全て消えうせた。
「蝮がどこにもおらん!」
*
「ちょ、待てや、どういうこと、や?」
「虎屋からいなくなってん!」
今女将から蟒様に連絡来て、と、現場に居合わせたらしい金造はまくしたてる。
蝮は、まだ魔障のために臥せっていた。先の不浄王との一件でも特に重症で、未だ虎屋の一室で療養しているはずだった。
一時良くなったこともあったが(それこそ柔造と喧嘩が出来るほどに)、実際には快方に向かっている、というだけで、そのあとから熱を出し、もう一月あまりもその熱が続いていた。
「出られるわけないやろ!あいつ、昨日も熱で、飯も半分くらいしか食わんくて…」
「夕方まで戻らんかったら、捜索願出すて、」
「夕方まで待てるか!」
思わず柔造は叫んだが、それが蝮の父である蟒の限界だったのも分かっている。不浄王の一件以来、この出張所は麻痺した機能を含めて手など空かない。幹部である蟒など尚更だ。その上、蝮はその元凶と言っても過言ではなかった。だからそれが、蟒の出来る最大限だった。捜索願を出せば必然的に席を外すことになる。だとすれば、終業後の夕方にならねば、というのは道理だった。
分かりたくない、と柔造は思った。
分かりたくない。探さないという選択肢が、蝮を救うなんて、と。
彼女は分かっているはずだ。蟒が探せないことを。自らの罪のために探せないことを。
それでいいと、思っているのではないだろうかと思った。
分かりたくない。
あんなに「助けて」と叫んできた彼女の全てを黙殺して、ただ自分の欲だけを通そうとして、そうして、その叫びすら死のうとしている今を、分かりたくない。
「行くか」
金造の問は、ひどくシンプルで透徹していた。それは「行く」という返答以外を排斥した問だった。だけれど柔造は答えに窮する。
「行かんと後悔しますえ」
突然割って入るように聞こえたのは、熊谷の声だった。
「そういうもんですやろ。プロポーズまでしたんやから」
彼は笑っていた。まだ間に合うか、分からない。何一つ分からないけれど、行かなければ何も始まらないと言うように。
見回した一番隊の面々は、どこか優しかった。
「行ってください。振り回されるのは慣れっ子やから、こんど飯奢ってくれたらチャラですわ」
鳴海の言葉に、柔造は弾かれたように金造を見る。そうしてそれから振り返って彼らに頭を下げた。
「……悪い、行く…!」
数拍も持たぬうちに、彼は駆け出した。
*
錦と青は蟒に止められたらしく、捜索は柔造と金造の二人だけだった。
『柔兄今どこや!?』
携帯の向こうで少々電波状況が悪いと思われるノイズ含みの声がした。金造は街場を探していたが、もう時間は夕刻に差し掛かろうとしていた。電波状況が悪い、というのは、柔造が山に入っていたからだった。先程まで柔造も街場を探していたのだが、気が付いたら足は山に向かっていた。
山。
どこかで避けていた気がした。だけれど、彼女がいるとすればここだろうという気もしていた。
『蟒様、そろそろ仕事終わらはる!一旦引くえ!』
金造の叫び声を聞きながら、それに応えもせずに柔造は山を駆ける。
『柔兄!聞いてんか!!』
「おった」
『……は?』
金造の叫び声に、そこで初めて小さな返答がある。
「蝮おった」
そうだけ言って、柔造自身呆然としたふうに通話を切る。
*
蝮はそこにいた。
そこは、無残にも崩れ落ちた降魔堂の跡だった。
蝮はそこにいた。だけれど、柔造の気配に気が付いたのは横たわる彼女を支えるように這っていた白蛇だった。
一瞬牙を剥いたその蛇は、しかし柔造であることに気が付くとその牙を仕舞い、代わりにするするとその細い舌を伸ばして、地に臥す主の青白い頬に這わせた。
「ナーガ、ごめんな。もちょっとだけ」
酸素を求めて喘ぐように、掠れた声で意識を浮上させたらしい蝮に、柔造はやっと動くことが出来た。
「まむ…し」
声は掠れた。駆け寄ったら、蝮はその隻眼を見開いた。そうして、その瞬間に白蛇が姿を消して、柔造は支えを失った彼女の頭を抱きこんだ。
召喚は、もう限界だったのだろう。だが、ナーガは彼女を支えるために何とか留まってくれたのだ、と柔造はほっと胸を撫で下ろした。そうして同時に、全ての地位を失ってすら宝生蝮という女の中にはその宝生家の血が、間違いなく流れているのを感じた。
もう誰も彼女を祓魔師と呼ばなくても。
もう誰も彼女を明陀の僧正血統と認めなくても。
それはまるで枷のようでもあった。
「志摩…?」
声はぼんやりとしていた。抱えた彼女の熱は高い。
「何してん、お前。みんな心配しとる。勝手に出てったらあかん」
努めて平静を装って言った彼を見詰める蝮の視線が、恐怖に彩られた。
その恐怖の意味が分からない。
違う。
その恐怖の意味を分かりたくない。
「なんで…」
それは、自らを探す柔造、という存在への恐怖だった。
(ああ、これは)
自らの罪だと、彼には直ぐに分かった。
その瞳が訴える全てが分かった。
どうして今更手を伸ばすの?
いつかその手を振り払うのでしょう?
それなのにどうして?
訴える声なき言葉が、彼の胸に突き刺さるように響いた。
それは、今までずっと、黙殺されてきた言葉と感情が綯い交ぜになった恐怖だった。
「もう、大丈夫や」
何が大丈夫なものか、と蝮の目は言っていた。だから柔造は困ったように笑う。上手く笑えていることを祈りながら。
「もう、裏切らん」
「し…ま…?」
「もう、お前から目、逸らさん」
「あんた、何言うて…」
「裏切ったんは、俺が先やんな」
その言葉と共に、柔造は蝮を抱きしめる。
「お前の言葉も、心も、分かっとったくせに、それ無視して、裏切ってきたのは、ずっと俺やった」
今も、昔も。
彼女の叫びを知っていた。
知っていたけれど、目を逸らしてきた。
それは、蝮という存在を手に入れたくて、手に入れるためにはその疑念一つ一つが邪魔だったからだった。
ただ盲目的に、全て許されたところで彼女を手に入れたかった。
そのためだったら、明陀も、祓魔師の資格も、彼女の心すら、無視することが出来た自分は、本当にどうしようもないな、と彼は皮肉に思った。
「志摩は、何も裏切ってへん」
腕の中で、蝮は静かに言った。そんなことを言わないで欲しかった。言われれば言われるだけ、怖くなる。
「裏切った。お前の心を踏みにじった」
だけれど柔造ははっきり言った。それに、蝮はああと思う。
嗚呼。
いつも、どうしようもなく苦しい時に居るのは彼だ、と。
右目を失ったあの日すら、自分を背負う彼になら、きっと全てを任せられると思った。
結婚しようと言う彼になら、全てを任せられる気がした。
だけれど出来なかった。そのたった一言を躊躇ってきた。
「じゅうぞう」
昔のように、彼の名を呼ぶ。
裏切ったと言ってくれる彼の名を。
自らの心を見てくれる彼の名を。
「たすけて」
隻眼から一条の滴が流れた。
助けてほしいと、そのたった一言が誰にも言えなくて。
初めて口にしたその言葉に、柔造は深くうなずいた。
「ああ」
助けられるか助けられないかではない。
助けるか助けないかだった。
互いに、手を伸ばせばいつだってそこにいた。
それなのに、その手を伸ばすことを拒んできた。
「もう、離さん」
柔造はそう言って蝮を抱きしめる。
「助ける。絶対どこにもやらん」
「うん」
「お前は俺が助ける」
「柔造は、いっつもあてを助けてくれるなあ」
蝮は泣きながら、だけれど初めて笑った。その笑顔が、彼にはひどく嬉しかった。
「帰ろ」
ふと背中を見せたら、蝮も躊躇わずにその背に体重を預けた。それで柔造は、絶対に彼女の全てを落とさないように、しっかりと蝮を背負った。
「あん時も、せやったな」
「え?」
「分かってた。こうやってお前をおぶってた時も、お前の不安が分かってた」
遠い過去のような学園にいた頃、彼女をおぶって歩いた時も、不浄王の右目のために重症だった彼女をおぶって駆けた時も、彼女の不安が、恐怖が、分かっていた。分かっていたのに誤魔化してきた自分が、腹立たしくもある。
「分かってたんや」
「じゅう、ぞう?」
「今も分かる」
声は震えた。背中に愛しい彼女がいることが、彼をひどく安心させた。
ナーガに、もうちょっとだけと言っていた。この降魔堂に別れを告げて、彼女はどこに行くつもりだったのだろうと思う。もう手の届かないどこかに行くつもりだったのだろうと思う。
「分かってた。手、離したらもう追いつけんことになるって知ってた」
知っていたけれど、だけれど彼女はどこにも行かないという驕りのような感情があった。それは、いつだって彼女が隣にいたからだった。
「もう、失いとうない」
泣きながら言った彼の頬に、背負われた蝮の指が伸びた。
「阿呆やなあ、柔造」
「……」
「あても、阿呆やったなあ」
麓が見えた。弟が何か叫んでいるのが聞こえる。
父の姿が見えた。
そこに戻っていいのだと、その世界に引き戻した男の背中で、彼女は思った。
夏が終わる。
背にした山際の、夕刻の日差しが、二人を撫でるように沈んでいく。
長い長い夏が、終わろうとしていた。
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夏の終わりにあなたがいた
2014/2/18