ぽつぽつと降り始めた雨の音に、居間にいた蝮は顔をしかめた。

「洗濯物」

 洗濯物の存在に気が付いて弾かれたように彼女は立ち上がる。幸い干してあるのは屋根のあるベランダだが、雨脚が強まれば吹き込んでくるかもしれない、と思ったのだ。

「今年はまだ梅雨に入らんていうのに」

 バサバサと取り込んだ洗濯物を部屋に投げ込む。ちょっと雑だが雨脚はやはり強まっていて、急がなくては、と思うと仕方がなかった。
 志摩家に嫁いで、一度目の夏が来ようとしている。すべてが変わった夏から、一年が経とうとしている。夏の前に梅雨がある、とぼんやり蝮は思った。まだ梅雨入りしてはいないけれど、この通り雨は梅雨を連れてくるかもしれない。 そう思った次の瞬間に、ずきりと顔の空洞が痛んだ。

「っ…!」
「ただいまー。ひどい雨やー、降られたー」
「……ああ、お帰り…」
「って蝮、ちょ!何座り込んでんのや!?」

 帰宅して早々に、右目の在った場所をおさえて蹲る妻に、柔造は駆け寄った。





「やっぱし雨は駄目やね」
「ほうか」

 布団を敷いて、蝮を横にならせて、痛み止めを持ってきたところで彼女は呟くように言った。
 もう、あの不浄王の右目を体内に入れてから一年が過ぎるのに、その傷跡は何かの拍子に痛んだ。まるで彼女に罪を忘れさせないためとでも言うように。

「ごめんな、柔造」

 苦く笑って起き上がった彼女の背中を支えて白湯を差し出し、柔造は笑った。

「なんで謝るんや」
「苦労ばっかし、させるから」

(苦労、か)

 柔造は心の裡でその言葉の意味を反芻する。苦労をしているのは、どう考えたって蝮の方だ、と思ったからだった。明陀を裏切らされたのも、右目を失ったのも、全部全部、蝮だ、と。そうだというのに、彼女はそのことが自分に苦労をさせることになると言う。
 そこに付け込んで、そこに付け入って、好きだと言って、彼女を手に入れたのは自分なのに、とさえ思う。それがたとえそれ以外選べない道だとしても、こんな時に彼は自分自身が怖いほどに嫌になる。

「雨は嫌やなあ」
「そんなこと、言うなや」

 雨が嫌いなんてそんなこと。
 貴女が一番好きなのは、きっと雨だったのに。
 さらさら降り続く雨を貴女はなにより愛していたのに。

「なんで泣くの、柔造」

 やわらかな手が背にいる柔造の頬を撫でた。いつの間にか泣いていた自分が腹立たしいとさえ、彼は思う。雨を愛することを失ったのさえ、彼女なのに、どうして自分が泣いていいものか。

「お前が、泣かんから」

 言い訳じみた言葉に、彼女は小さく笑った。


「泣く資格なんてないもの」
「じゃあいくらでも俺が泣いたる」


 雨が降るように、泣けたらそれでよかったのに。
 泣くように、雨が降るならそれでよかったのに。


 何も考えずに、泣いて、喚いて、そうして自分の心を通そうとした子供の頃のほうが、自分たちはまるで自由だったと二人は思う。
 思うけれど、その時に帰ったとして、今を変えられるだろうか?
 そんな力が、どこにあっただろうか?
 ふと、そう過去に思いを馳せて柔造は一つ思い出したことを呟いた。

「お前の生まれた日はいっつも雨が降ってんな」
「なに、急に」
「今日かて、一日降らんで終わると思ったのに、結局降ってきた」

 そう言われて、蝮は初めて今日が自分の誕生日だと思い出した。

「きっと雨はお前を愛しとる」

 思い出した日々の中で、彼女と雨はいつも隣同士だった。
 自分もそうだったはずなのに、いつの間にか彼女の手を離してしまった。
 今もう一度隣に立てるのならと、思う。

「ほう、かな」
「そう。俺と一緒」

 たったそれだけのことなのに、その言葉はひどく彼女の心を軽くした。


 私は私の愛していた多くのものを自らの手で失いました。
 だけれど彼は私を愛すると言います。


(もう届かないと思っていた)

 何もかもが色をなくして、雨すらも失ったのに、彼だけは喪えなかった。
 彼が彼女だけは喪うことを自分自身に許さなかったように。

(もう…ええかな)

 月日は巡る。日々は二人を置き去りにする。

(もう、あても進んでええのかな)

「もう、ええかな?」

 もう進んでもいいだろうか?
 巡る月日と共に、進んでもいいのだろうか?
 一つきりになってしまった彼女の瞳から伝った雫を彼の指が掬った。
 ザアザアと、通り雨にしては長いこと降り続く雨の音がする。
 このまま梅雨が来るのかもしれないと彼女は彼の腕の中で思った。




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そんな誕生日。一日早いですが蝮さんおめでとうございます。

2016/6/3