「蝮ぃ、入るえ」

 精々気だるく聞こえるように言って、襖を開ける。志摩家の離れ。そこにいたのは宝生蝮やった。


花腐し


「志摩様、私に関わらん方がよろしいやろ」

 蝮は、俺のことも柔兄のことも、お父のことも、それ以外の志摩家みんなのことを「志摩様」と呼ぶようになった。

「そうは言うてもな、俺はお前の配膳係なん!」

 タンッと文机に朝飯を置く。それに蝮は申し訳なさそうに目を伏せた。
 万が一を考えて配されたのが俺やった。
 ―万が一
 蝮は不浄王を復活させた裏切り者で、先の戦いで多くの犠牲が出た。蝮を恨む者は明陀の中にはいくらでもいる。いくら和尚が赦しても、そうはいかなくて、結局蝮は祓魔師の資格を剥奪され、蛇も封印された。僧正血統のよしみ(と言うべきなのか分からないが)で、蝮は志摩家で保護…保護とは名ばかりの監理対象として、離れに閉じ込められている。
 そうは言っても、タントラの詠唱が出来なくなった訳ではなくて、危険は伴うし、それに、蝮は多くの恨みを買っている。食事一つとっても毒を盛られることもあるかもしれないということで、俺が毒味役になった。いくら蝮を恨んどっても、志摩家で作る飯やから、俺が毒味言うたら、滅多のことは起きへん―それが俺が配膳係に抜擢された主な理由やった。

「はよ食べて、身体治し」

 ぶっきら棒に言って、入り口近くに腰を下ろす。俺が一口ずつ食べるさかい、飯はいつも、蝮が食べる頃にはすっかり冷めきっていた。

「悪いなあ」

 初夏。梅雨入りを目の前にした季節の知らせを、彼女は知っているだろうか。窓も無い離れから出ることのない蝮にとって、時の流れはどのように映るだろう。不浄王との戦いは、去年の夏で、それからもうすぐ一年が経とうとしている。
 不浄王の右目を身体に入れた蝮の魔障は、思いのほか酷く、一年を待ってもまだ彼女を苦しめる。それから、彼女の右目はもう戻らない。どうしようもないことやった。

「美味しかったと、お伝えくりゃ」

 半分も食べないで、彼女は箸を置いた。せやけど、これだってまだええ方や。うちに来た当初は、まったく食べないことが続いたし、ようやく食べられるようになったと思っていたのに、彼女は全て吐き出していた。そのことに柔兄が気がついて、飯を下げるまで俺が彼女に付き合うことになった。

「気にせんでええって言うてるやろ。おかんの飯がそないに美味いワケないやん」
「そんなことあらしませんよ。美味しいわ」
「せやったら、もっと食べ」

 そう言うと、彼女は困ったように笑って、それから床の間に目をやる。

「バラか?」
「違いますわ。浜梨やろ」

 適当に言うたが、言われても花の名前なん分からん。だが、彼女の部屋には、毎朝毎朝違う花が活けられとった。いつから、誰が活けとるかなんて知らん。だけれど、気が付いたら、物のない部屋には、花が活けられとった。
 それは、道端や庭で摘んだようなものの日もあれば、花屋で買って来たのが一目で判るような物の日もあった。
 彼女はいつも、それを愛しげに見つめる。その度に、俺の心はしくしくと痛む。理由を探すのはもうやめた。

「昼にまた来るさかい」
「すんません」
「気にすんな」

 盆を持って部屋から出る。部屋から出て数歩で、俺は歩みを止める。

 部屋からは、彼女がすすり泣く声が聞こえた。

『堪忍なあ』

 嗚咽に混じって声がする。毎日のことだった。毎日毎日、俺がそれを聞いているなんて、彼女は思いもしないだろうが、俺はいつも、廊下の真ん中で、彼女の懺悔を聞き続ける。
 罪を勧めたんは、俺やない。明陀の誰でもない。だけれど、蝮の罪は、明陀の罪や。少なくとも、俺はそう思う。

(明陀ん罪やったら、それは―)

 それは、俺の罪やと思う。そして、彼女が心を閉ざすのも、俺の罪やと俺は思う。






「雨か」

 縁側に出ると、糸のような細い雨が落ちていた。柔らかな雨。梅雨入りにはまだ時間があるが、そろそろ初夏の陽気も終わりを告げるのだろう。
 くっと伸びをすると、その庭の端の方に、黒の髪が見えた。

「柔兄?何してん!?」
「金造。なんや、起きたんかい」
「早う目え覚めただけやけど…」

 雨の中で振り返って笑うのは柔兄やった。それから俺はそのおかしさに気がつく。

「つーか、アホちゃうか!?雨やん、雨!はよ中入りよ!」
「ちょお待てや。今終わるさかい」
「はあ?」

 それから程無くして、花鋏と小枝を持った柔兄が、草履を脱ぎ捨てて縁側に上がった。

「なんね、それ」
「卯の花や」
「うのはな…」
「五月も終わりやなあ…こないな雨が降ったら、花も散ってまう」

 そう言って柔兄はぱさぱさとその花の枝を振る。滴が庭に落ちたが、その枝は、水を吸った白い花を重たそうに支えていた。

「お、そやった。おかんには秘密やからな。庭の花切っとったなん知れたら、何言われるか分からんしな」

 にやりと柔兄は笑う。

「もう陽ぃが昇るな。そんなら、金造、今日もきっちり働きや」

 柔兄は、軽く俺の肩を叩くと、雨に濡れたままで家の中に入っていった。






「蝮、飯持ってきたえ」

 いつも通りの時刻に、いつも通り彼女の部屋に入る。
 だが、俺は抱えた盆を取り落としそうになった。

「そん花…」
「ああ。外はもう五月が終わるんねえ。雨に濡れたまんま持ってくるさかい、風邪なんひかんとよろしいけれど」

 それは驚きに似ていた。だが、驚きではないのだ。心のどこかで分かっていた。―「五月が終わる」と二人は言った。

「卯の花」

 ぽつりと呟くと、彼女は目を見開いた。

「分かるん?」
「……俺かて、一つくらい花の名前分かるわ」
「初めてやないですか」

 彼女は、さも可笑しげに、くすくすと笑った。それに今度は俺が目を見開く番やった。
 苦笑する以外に、自嘲する以外に、彼女が笑うのなど、もう久しく見ていなかったから。張り付けられた能面のような表情以外を、俺は彼女がこの家に来てから初めて見た気がする。

(ああ、ほうか―)

 ずっと、ずっと。

  彼女は心を閉ざしていて。
  俺はそれを開こうとして。

  だけれど、上手くはいかなくて。

(なんで、俺やのうて、あんたなんやろな)

「外はまだ雨ですやろか?」

 聞かれて俺は返答に窮する。
 少しだけ、あと少しだけ。
 それでも俺は、応えるのだろう。

「雨やないか。花も散ってまうな」


花腐し
卯の花は秘密の花、秘密の花
卯の花腐し

雨が、君を溶かす―




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BGM:椿屋四重奏「紫陽花」
卯の花の花言葉は「秘密」

2012/1/27

2012/7/31 pixivより移動