書類をめくる小さな音がする。それ以外に、この部屋にあるのは、時計の秒針が忙しなく、だけれど着実に時を刻む音だけだった。


ユリイカ


 時刻は、退勤の定時をだいぶ超していて、出張所に詰めている戦闘部隊を除けば、事務方で残っているのは多分自分だけだろうな、と蝮は思った。この部署に残っているのも、実際彼女だけだった。
 別に、残業するほどの仕事は残っていない。だけれど、ここ最近、この部屋で馬鹿みたいに長い時間を過ごすことが多くなった。人がいなくなれば、各人のデスクに書類やらファイルやらが雑然と積まれているだけで、それはどう頑張ってもちっともこの部屋の空白を埋める要素たり得なくて、いつだって、彼女だけになればここはがらんとしていた。だけれど、その伽藍堂にいる方が、幾分ましだと、蝮は小さくため息をつく。ため息は、誰に聞き咎められることもなく、無機質な書類たちに吸われた。
 誰もいないそこが、心地好いとまではいかなくとも、少なくとも己の心を休め、そうして己の心を駆り立てる場所であることは間違いようがなかったから、彼女は息をつく。そうして、ぐるりとその部屋を見渡した。そこにはやっぱり誰もいなくて、蝮は安堵に似た、だけれど暗澹とした思考を脳裏に落として、それから仕事を終えて帰るべき場所を思う。
 ―――家族のいる場所へ帰るのが、少し億劫なのかもしれない、と思ったら、自嘲に似た笑みがこぼれるのが分かった。そうして、何でもない予定が書かれているように見える手帳に手をのせる。だけれど開きはしなかった。その手帳に、会議の時刻やその日の予定と全く遜色ないように、まるで予定を書き込むように書き込まれた内容は、半分以上が自分の所属する二つの組織の上層部についての書き込みだった。
 ―――明陀と正十字。だが、余人が見ても、それはただの予定にしか見えないだろうと思う。預かったり、探し出したりした書類を持っておくのは、職場にしろ自宅にしろ、周りに感付かれそうになる可能性があって、初めのうちはどうしたらいいか分からなかったが、二年、三年と過ぎるごとに、その暗号めいた書き込みは都合がよくなり、どんどん増えていった。
 だから、ここ数年の手帳を見ればだいたいのことが彼女には分かる。
 だから、手帳を見ると暗澹とした感情ばかりが落ちる。

「しゃんとせんと」

 口に出して言ったら、余計に重たくなった。真実この明陀を救えるのは己だけだという重責が、ひどく重かった。
 ぱらりと書類をめくる。明日の会議のものだった。それから彼女は何とはなしに立ち上がって、コーヒーメーカーに近づく。
 先に上がった同僚が「いつも残業してはるけど、夜のコーヒーはよくないですえ?眠れんくなりますわ」と言っていたのを思い出しながら、蝮はカップにその煮詰まったコーヒーを注ぐ。カフェインを摂取しようがしまいが、快適な眠りというものにずいぶん出会っていないように思えた。夜のコーヒーはよくない、と言いながら、その同僚はいつも残っている彼女の分のコーヒーを残していく。その優しさが、ひどく胸につかえた。
 だが、コーヒーはどうしても煮詰まってしまう。それは日中だってそうで、朝一番に作って飲まなければ、この部署のコーヒーはだいたい煮詰まっていた。そうはいっても、出張所はどこもそうではないだろうか、と彼女は思う。この職場にコーヒーを楽しむような余計な時間はなかなか生まれなくて、結局香りが飛んで煮詰まったコーヒーを飲む羽目になる、なんて思う。
 そんなことを考えながら飲んだコーヒーは、案の定香りがしなくて酸っぱくて、そうして、どうしようもなく苦かった。だけれど、彼女は砂糖を入れることも、ミルクを入れることもなかった。昔は入れていたかもしれない。苦いコーヒーなんて飲めなかった昔。でも、そんな昔のことが、思い出せない。本当に思い出せないのが半分、思い出したくないのが半分。そんな気がした。思い出してしまったら、もうここに立ってはいられないような気がした。

(こんなん、飲めん)

 心の中で小さく思った。だけれど、当然のことみたいに彼女はその真っ黒なコーヒーを飲んでしまう。

(こんなん、やめたい)

 心の中で小さく思った。だけれど、こうするしかない。

 父の顔を見るのが怖い。妹たちの無邪気な顔を見るのが怖い。幼馴染たちのあっけらかんとした笑顔が怖い。明陀のためにと離れていく子供たちの成長が怖い。

 それを、全部壊そうとしている、己が、何より怖い。

 そう思ったら、カップを持つ手が震えた。カップの中には、もう煮詰まったコーヒーは残っていなかった。カップの中にコーヒーが残っていないように、己の中に何一つ残っていないのか、それとも何かが残っているのか、彼女にはもう判りようもなかった。空になったチープなカップを彼女は投げ出すように机に置くと、手帳を手に取り、ゆっくりそれを開く。開かなければいいのに、と思いながら、追い詰められるとどうしてもその手帳を開いてしまう自分がいた。

「なに…?」

 そこで彼女は、開いてしまった手帳の日付に丸が付いているのを見つけた。来月の初めだった。今月はもう三、四日しか残っていない。来月、二月の初め。何か大事なことだったろうか、と思って、蝮はちょっとだけ眉をひそめる。

「あ…」

 声は、誰もいないその部屋に、悲鳴のように、嘆息のように落ちた。

「阿呆…あては、なんで…」

 なんで、この手帳に。
 なんで、なんで、なんで。

 書き込み全体のカモフラージュにするなら、その日付の印は十分な効果を発揮するだろう。だけれど、彼女にとって、その印はひどく重かった。

「なんで、あいつの誕生日なんか―」

 忘れたことなんてない。自分たち姉妹と、彼らの誕生日を、彼女は忘れたことがなかった。手帳には、きっちりと日付に丸をつけておく。ずっとそうだった。だけれど、それがこの手帳につけられた印だったのが、どうしようもなく耐えられなかった。


 裏切りの印の中に、幼馴染の誕生日の印が付いていたことが、どうしようもなく耐えられなかった。


 気が付いたら、泣き出しそうになった。そうやって、この組織のことを暴こうとしても、裏切ろうとしても、結果的に自分が正しかったとしても、その事実に気が付くのは辛すぎた。

(どうして―――)

 どうして
 どうして、上手くいかないの?
 どうして、あのままでいられなかったの?
 どうして、みんなが優しくて、みんなが仲良しで、苦いコーヒーなんて一口も飲めなかったあの頃のままで、私たちはいられなかったの?


 問い掛けが、冷たい刃となって彼女の胸を刺した。


「コーヒーなんて、嫌いや」


 嘆きを聴く者は、ない。


 私は、そのコーヒーが美味しくないことに気が付いた。
 私は、己の行いの愚かさに気が付かなかった。




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明陀プチアンソロジー寄稿

2014/3/9 再録