プールの匂いが、嫌いだった。
 鼻を衝く匂い。それだけではない。プールサイドに照りつける日差しは容赦なく肌を焼く。皮膚の白い私の身体は、いつも真っ赤に焼けてしまって、休憩の後にプールに浸かるのが、本当に嫌だった。ちくちくと刺すように、しくしくと肌が痛む。
 夏が、嫌いだったのかもしれない。夏の、あの―


次亜塩素酸カルシウム


 目が覚めたら、ひどくのどが渇いていた。嫌な渇き方だ。ぺたりと張り付くような感覚は、不快、の一言に尽きる。窓の外からは蝉の声がした。

 夏。

 まだ盆が明けていくらも経たない。だが、多くのことが過ぎ去った夏だった。私にとって、夏というのは、いつからか止まっていた。夏だけではない。季節というもの、それ自体が止まっていた。最後の夏を必死に思い出そうとしたら、それはプールサイドの日差しの中にいる男の顔で止まっていた。
 家から近いプールも、やっぱり消毒には塩素を使っていて、私はそれが嫌だと思った。だけれど、妹と、彼の弟たちを遊ばせておかなくてはならず、腕を引かれて浸かった水からは、当然ながら塩素の匂いがした。先に、子供たちに遊ばれつくして疲れ切ったらしい男を見上げたら、彼はひらひらと手を振った。逆光で、その表情を読むことはできない。

 それは、彼が東京に行った年の初めての夏休みだった。その次の夏には、私も東京にいた勘定になる。だけれど、その夏で、私の中の夏は止まっていた。

(水…)

 そろそろと寝床から這い出す。まるで、白蛇のように。寝巻代わりの浴衣のままで、部屋を出て、階下へと下りる。父さまも、妹たちも、まだ起き出してはいなかった。台所の窓からは、もう日差しが差し込んでいたが、多分、かなり早い時間なのだろう。
 食器棚に手を伸ばす。そこでふと、私は硝子に映った私の姿を見遣る。

 眼帯に覆われた右目が戻ることはもうない。

 純粋に、醜いと思った。


 なんて、醜い。


 そう思ったら、何故だか口角がつり上がって、私の顔は余計に歪になった。笑っているのだろうか。それとも、泣き出したいとでも言うのだろうか。そのどちらも、多分正解ではなくて、私は食器棚を開ける。硝子に映る醜い姿は、一瞬で消えた。




 蛇口から流れる水をコップに一掬い取る。
 透明な水を一口飲んで、私は思わず顔をしかめた。

「プール…」

 呟きに応じる者はいない。渇ききったのどを通った水は、まるで、間違えて呑みこんだプールの水だった。それから私は、それがカルキなのだと思い至る。―沸騰させなかったからだ。確か、カルキは消石灰に塩素を含ませたもので、プールなんかにぽんと入れてあるそれと変わらないのだ。
 だけれど今まで、水道水を飲んで、塩素の匂いに悩まされたことなどなかった。多分、身体や舌が過敏になっているのだろう。
 のどの渇きと、塩素の匂いのする水を秤にかけて、私は水を捨てる。お湯を沸かそう、そう思ったところで、玄関の方に人の気配を感じた。


 出た方がいいのだろうか。今の時間は早朝の5時、そんなもののはずだ。新聞の配達かもしれない。だが、声を掛けるくらいはした方がいいのかもしれない。そう思って私は玄関に向かう。

「早くから、えらいすんません」

 そう声を掛けると、玄関のわきに備え付けられたポストがちょっと開く。やはり、新聞配達のようだ。

「え…?」

 だが、ポストから入ってきたのは新聞ではなかった。

 それは、薄紫の桔梗の花―

「待って!」

 口は自然とそう動き、つっかけに足を入れると、私は玄関の鍵を開ける。


 ―ここ一月ほど、毎日ではないが、早朝に、家に花が届くことがあった。花にはいつも、『宝生蝮様』と書かれた紙切れが結い付けてあって、それが私宛ての花なのだと知れた。

「誰やろね?」
「心当たりあらへんの?」

 錦と青に訊かれても、首を振るよりほかない。そんなふうに私に花を贈るような相手が、思い浮かばない。ここ一月。それは私が出張所から除籍されて一ヶ月と言うこともできて、この界隈に、わざわざ私に花を贈るそんな者の姿を想像することは、余計に難しかった。

 だから私は、その相手の顔を確認しなくては、というそれでいっぱいだった。

 玄関の扉を開けて、私はもう一度「待って」と声を上げる。だが、声を上げたその後で、私は言葉を失った。

「おはようさん」

 振り返って、その男は笑う。陽を背負うように立つ彼に、私は目眩を覚えた。






「志…摩…」

 からからののどから、絞り出すように彼を呼ぶが、彼は、やっぱり微笑んでいた。

「おはよう」

 もう一度、彼はそう言う。「おはよう」なんて、白々しいにも程がある、そう詰ろうとしたが、私は、もし彼が花を持ってきていたのだとしたら、どうしてそんな言葉を言えるだろうと思って口を噤んだ。


 一ヶ月前、私は明陀を裏切り、そうして彼は、私を嫁にするといった。
 一ヶ月前、私は彼のその言葉を断り、それから家で療養に専念すると言って彼の目を逃れた。
 一ヶ月前、私宛てに届いた朝顔は、昼前にしおれた。


 もし、あの花が全て、志摩柔造の贈った花だとしたら。私の足は途端に竦む。それは純粋な恐怖だった。もし、彼がまだ、私を望むと言うのなら、それは恐怖以外の何物でもなかった。彼に対する恐怖ではない。己に対する恐怖だ。己の何が、彼を繋ぎ止めることなどできるだろうという、恐怖。

 玄関から飛び出した私は、じりっと半歩下がる。そうすると、彼は困ったように半歩踏み出した。私は怖くなってもう半歩下がる。彼は半歩踏み出す。たった一歩なのに、私たちの一歩は違いすぎた。彼の大きな一歩のせいで、私たちの身体はひどく近づく。それから、彼の手がこちらに伸びて、私は思わず声を上げる。

「やめて!」

 叫ぶように言った私に、一瞬ためらいを見せるように止まった手は、だけれどそのままポストに伸びた。一度入れた花を抜き取って、彼は恭しくそれを私に向ける。

「おはようさん」

 三度、彼はそう白々しく言って、桔梗の花を私の顔の目の前に持ってきた。結い付けてある紙には、きっと『宝生蝮様』と書かれているのだ。そう思ったら、泣き出したい気持ちでいっぱいになった。

「どうして……」
「どうして?お前、やっぱりひどい女やな」

 彼の言葉は、やっぱり白々しくて、それが却って私を惨めな気持ちにさせた。

「振られてん。この宛名の女に」
「やめて…お願い、やめて…!」

 続きを聞きたくなかった。続きを聞いたら、何かが変わってしまう気がした。

「やけど、俺、案外女々しいんすわあ」

 彼は、言葉に反してニカッと笑う。

「女々しいさかい、宛名の女がうなずくまで、花でも贈ったろ、思いましてん」

 うなずくまで、なんて、そんなの。うなずくまで、だなんて。ぽたり、と隻眼から滴が落ちる。右目があった空洞が、ひどく熱い。

 終に私は泣きだした。泣かずにはいられなかった。

「……阿呆やないの」

 声は、みっともなく掠れて、震えた。俯いて泣く私の頭を、桔梗を持ったままの彼の腕が引き寄せる。

「泣いたな」

 彼は、今度こそ白々しさなどかけらもない、静かな声で言って、私の身体を抱き寄せた。私は思わず、彼の胸板をドンと叩く。力は次第に弱くなって、志摩の胸に預けた手は、とくん、と彼が生きていることを告げる拍動を感じ取った。

「…なあ……。贈り主が俺やと分かったところで、もういっぺん言うえ。嫁に来んか?言うとくけど、俺は退かんぞ」

 それは真剣な声音だった。だが、彼の声が真剣であればあるほど、私はそれを拒まざるを得ない。

「あかん。私は、明陀の裏切り者や。明陀の名を汚して、宝生の名を汚して、その上、志摩の名まで汚すことなん、許されん。それに、明陀の中におるみんなが、そないなこと赦すはずがない。私は私の罪を償わんといけん」
「明陀を…抜けるつもりか」

 それは、ずっと考えていたことで、私は特段の呵責もなく、それに応える。

「…魔障が、落ち着くまでは家に厄介になるつもりや。やけど、魔障が落ち着いたら、明陀を抜けるつもりでおる。迷惑かからんように、適当な場所で働くわ」

 すると、彼は、抱き寄せた手を一度離し、私の肩を掴んだ。

「それは俺が許さん」

 射抜くような瞳。私は、彼のその眼差しが嫌いではなかった。いや、好きだと言うべきだろう。何の迷いもない真っ直ぐな瞳。私は、明陀を守ると言う己の中に迷いや揺らぎなどないと信じ切っていた。だが、それは所詮虚構だった。
 彼の瞳は、眩しくて、私には耐え切れない。

「なあ、蝮。お前は、ずっと独りで気張ってきた。そら、お前のこと恨んでるやつかていっぱいおるってのも分かる。やけど、それが全てやないんよ」

 もう一度私を抱きしめて、噛んで含めるように彼は言った。そうしたら、また涙がぽつりぽつりと零れた。

「俺は、お前のことがずっとずっと好きやった。守りたいて思てた。やけど、全然上手くいかんくて、結局お前をこんなんにしてもうた。勘違いすな、同情で結婚しようなんぞ、思っとらんからな。ただ単に、お前のことが愛しゅうてたまらんのや。守りとうてたまらんのや」

 そう言って、彼は私の右目に口付ける。

「あ……やめ、て。お願い、やから」

 醜いと、彼もきっと思うだろう。だけれど私は、醜いこともまた、私に科せられた罰なのだと知っている。だから余計に、辛かった。

「綺麗や」
「え…?」

 だが彼は、予想だにしない言葉を口にした。

「お前が、明陀を守るために負った傷は、ほんまに綺麗や。真っ直ぐで、芯が通ってて、ほんまに綺麗や」

 そう言って彼は、何度も何度も、空洞の右目に口付ける。この右目から、涙が出るのではないだろうかと思うほど熱かった。涙なんて、もう一生出ることはないのだけれど。

「綺麗なわけ、ない。醜い。ほんまに醜い。それが罰や」

 私は嗚咽を噛み殺しながらそう言う。罪の証。私はこれを、生涯ずっと背負っていかなければならない。それが辛いと言う権利は、私にはない。
 だから、彼が私のことを好いていると言ってくれても、愛しいと言ってくれても、私もそう思っているとしても、受け容れる訳にはいけない。
 そう、告げようとした時だった。彼の唇が、私の唇に重なる。

「!?」

 瞬く間に彼の舌が口中を蹂躙して、酸素が足りなくなる。だけれど、そこで思ったのは、先ほどまで感じていたカルキの匂いが、彼の息遣いや唾液と混じり合って、融けて無くなる、そんな、可笑しなことだった。

「一緒に歩こう」

 唇を離して、彼は真正面から私を見つめると、そう言った。

「名を汚すとお前は言われ続ける。裏切り者とお前は言われ続ける。それは仕方のないことや。罰やと思うかもしれんけど、俺にしたら『仕方ない』ことや。やから俺は、それを少しずつ撥ね退けたる。だからもう独りで気張らんでええ」

 それから彼は、もう一度、啄ばむような口付けを落とした。

 カルキみたいだ。彼は私の中に渦巻く暗澹とした澱を漂白していく。


 私は、明陀を壊そうとした。
 彼は、私の狭い世界を壊そうとしてくれる。

 まるで、英雄みたいに。


「……花な、嬉しかってん」


 薄々気がついていた。多分、この花を届けているのは志摩なのだろうと。だけれど、認めてしまったら、私はきっと、彼に縋ってしまう。それが怖かった。罰を受ける身を受け容れるというそのことが。だがこれは逃げだ。彼に縋っても、縋らなくても、私は多くのことから逃げている。―罰だと知っている。この目だけではない。多くの人の、言葉が、行いが、少しずつ私を苛むのだろう。罰だと知っている。だけれど私は、知っていながらなお、心のどこかで、その一つ一つを避ける方法を考える。考えるたびに、私の頭の中には己の姿が映る。私が醜いと思った姿が、彼が綺麗だと言った姿が。
 縋ってしまったら、私は私を失いそうだった。いや、私という存在を支えていたものは、ずいぶん前にガラガラと音を立てて崩れ落ちていた。だけれど、そのまま倒れたその先にいたのは、彼だった。
 暗くて、冷たくて、薬品の匂いのする水に沈んだ私に、手を伸ばす彼。世界が壊れる。一度壊された世界を歩くのは、辛いかもしれない。かもしれない、ではなくて、辛いのだろう。だから私は、一度彼を拒んだ。もっと簡単な道を望んだ。だけれど、今なら。壊れた先の世界に、彼がいると言うなら―

 彼はもう一度私の身体を抱きしめる。それから言った。

「ほんで、こん花、受け取ってくれるんか?」

 躊躇いが、全くなかった訳ではない。受け取ってしまえば、多くの事が変わるだろうということを、私も彼も知っていた。だけれど私は、その花を受け取って、それから少し微笑んだ。




 プールの匂いが嫌いだった。夏が、嫌いだった。だけれど、私の中の夏の思い出にいるのは、いつも彼だった。


カルキ―破壊する者、そして、永遠




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カルキとカルキは掛け言葉。大変分かりにくいですすみません。

2012/4/12

2012/7/31 pixivより移動