今年の京の梅雨入りは、最近にしては早かった。昨日だ。数年前にこのあたりだったこともあったが、最近はもう4,5日しないと梅雨入りしない年が多かった。
梅雨入りしたからか、どうなのかは分らないが、糸のように細い雨が音も立てずに落ちている。寺の裏手の縁側で柔造はその雨を眺めていた。
正十字騎士團に、明陀が参入することを決めた頃は、まだ寺は本堂を含めしっかりとしていたような気がしたし、今でも明陀の若衆は、暇が出れば本堂や伽藍の掃除に駆り出されていたから、寺の堂やら何やらはそれなりに整備されている。―――そうされず、本当に荒れ果てていたのは、座主以外の立ち入りを禁じられた不動堂であったが、それもまた、あの、不浄王の一件が片付いた今、崩れてしまいはしたが、大きな問題でもなかった。達磨はもうかまわぬと言うが、そのうち、八百造や蟒あたりが資金繰りを何とかして、建て直そうと言いだしても、少しもおかしくないように思われた。あの一件から一年近くが経とうとしている。八百造や蟒だけでなく、今まで座主である達磨に不信感を抱いていた者たちも、多分、堂の再建に賛成するだろう。そのくらいには明陀の中の様々なわだかまりといったことは、解決した。あるいは、進行形で解決に向かっている。
とはいえ、明陀の人間も出張所に掛かりきりになることが多いから、掃除は出来ても、庭の整理などはなかなか上手くいかない。だから、今、柔造が縁側から眺めている寺の裏庭も、草が伸び放題で、そのうち草刈り鎌で徹底的に刈り取ってやろうか、なんて情緒の欠片もないことを、彼はぼんやりと考えた。
「ええ空」
ぼんやりと考えたあとで、雨を静かに落とす空を見つめて彼は呟く。静かで、良い空だ、と思った。そう思ってから、ずいぶん感化されたものだ、と思って、彼は苦笑する。そうして、その細い雨の行き先へと視線を移したら、雑草の中でこんもりと紫陽花が茂っていた。誰が植えたのだろう。額紫陽花だ。花は、まだ咲きはじめで、ぽつぽつと薄青色の花が咲いていた。
それを眺めていたら、ふと睡魔に襲われた。雨は降っているが、なかなか心地好い気温だったからかもしれない。偶さかの休み。本当は家にいてもよかったのだが、今日は、少し遠慮した方がいい気もして、誘われるように寺に来た。寝たって、誰にも見咎められないだろう、と思って、彼は縁側と寺の内側を仕切る扉に背を預けて眠りに落ちた。
***
「ぞ…じゅ…ぞ…柔造!」
「……んあ!?」
肩を揺すぶられて、眠っていた柔造は飛び起きる。ガタガタともたれかかっていた障子戸が不穏な音を立てた。
「あんた、こないなところで何寝てるん」
怒ったような、だけれど心配している声色で問う相手は、彼の伴侶だったから、柔造は驚いたように振り返った。
「蝮かいな。おどかすなや」
「別におどかしてなん、おらんわ。こないなところで寝て、風邪引いたらどないするの」
そう言って、彼女は梅雨寒対策に羽織っていたらしいカーディガンをぱさりと彼に掛けた。
「悪い。って、お前、寒ないの?」
「別に。今日は割と気温高いんや。湿度もあるから、ちょお暑いと思っとったくらい」
「厄介払いかい」
「ちゃうわ。ここは雨も少しあたるし、冷えるやろ」
そう言ってから、彼女は彼の隣に座る。
「寝に来たん?」
「いや、庭でも見るかと思っとったんやけど、眠ってもうた」
「ふうん」
それに、柔造は呟くように「全部刈り取らんとなあ」と言った。そうしたら、蝮はきょとんと彼を見返す。
「刈り取る、て、裏庭んこと?」
「そやけど?雑草、伸び放題やん」
「ほうか?あては、こういうのも好きやけどな」
自然な感じがして、と続けられて、柔造は上手い返答を思いつけなかった。本当に、雨降りも、自然のまま伸びる草木も、彼女に感化されて好きになったようなものだったから。
パリッと晴れている日の方が、ずっといいと思っていた。
だけれど、彼女と眺めた雨はひどく優しい。
すっきりした庭の方がいいと思っていた。
だけれど、少しくらい自然のままでも風情があると思う。
「不思議なもんやな……」
蝮を口説き落として、まだ1年は経たないが、あともう一月二月経てば、あの、恐ろしい一件から1年が経つ。
(―――恐ろしい?)
だが彼は疑問を投げかける。真に恐ろしかったのは、不浄王などではなかった、と、今なら、否、あの時からずっと、確信を持って言える。
真に恐ろしかったのは、今、横にいる彼女を失うかもしれない可能性だった。
恐ろしかった、というよりも、今でも恐ろしい、と彼は思う。
明陀という組織のうちに生まれ、その為に兄を失い、同時に戦うことを宿命付けられた。
だが、実感がなかったのかもしれない。隣に悪魔がいて、隣に死があると、頭のどこかには刻まれていたはずだ。兄を失ったあの日から。だけれどそれは、どこか遠くの出来事だったのかもしれない。
末弟とはまた違った方向性で、彼はそのことを遠ざけていた。そんなことあり得ない。大丈夫だ。和尚を、あるいは大人たちを、信じてさえいればいい。ただ、戦えと言われれば戦う。祓魔師になれと言われればなる。書類を書けと言われれば書く。そうしているうちに、彼もまた、その大人たちの末席に座ることになった。
そういう様々なことを、実感としてより深く感じ、遠くの出来事ではなく、組織の、あるいは己の身に降り注ぐこととして認識していたのは、蝮だった。そうして彼女もまた、その大人たちの席上に立たされた。――彼とは全く……全くというよりも、真逆の思考で以て。
互いの中にある決定的な違いを、二人は知らなかった。知っていたとしても、それは表層的な部分だけで曖昧な食い違いにしか成り得なかった。それが、あの日の決定的な出来事を引き起こしてしまうなどとは、思いもしなかった。
一方は、その全ての勘定に、己を入れていなかった。
他方は、その全ての勘定を、己で行おうとした。
結果から言えば、それはどちらも足りなかった。‘大人’に成り切れなかった、と言うには大袈裟かもしれないが、何れにせよ、その足りない部分が、両方に、死の恐怖を与えた。
信じていればいい。
誰を信じればいい?
何も変わらない。
兄が死んだのに?
―――彼女が、死にかけたのに?
「あんた、どないしたの?」
疲れとるん?と続けられて、柔造ははっとする。ぼんやりと眺める先にあったのは、薄青色の花を咲かせる紫陽花だった。
「すまん」
「別に、謝ることと違うけど…」
困ったように言った彼女の隻眼に、彼はひどく狼狽した。その目を、毎日見ているのに、美しいそれが一つきりしかないことに、彼はひどく狼狽えた。
「すまん」
「じゅう…ぞう?」
だから彼は、すまん、と繰り返して、彼女の細い体を抱きしめた。
「どないしたの?」
その「済まない」という一言を、泣きそうな声で繰り返して、自分を抱きしめる彼が、何を考えているのか、彼女には大体分かった。大体分かったから「どうしたのか」と訊くしかなかった。訊いて、だけれど答えなんて要らなくて、ただただ、為されるがままにされているしかないのだと、知っていた。
知っている。
「何も悪くない」とか「謝らなくていい」と言われることが、どれだけ相手を救い、そうして同時に、どれだけ相手を傷つけるのか。
そう、知っている。
そう思ったら、ひどく哀しくなった。
同時に、彼の肩越しに見える夏草の茂りだした寺の裏庭に、彼女は少しだけ可笑しな気持ちになる。
寺の裏庭は、二人の逃げ場所だった。
大人ではなくて、だけれど大人と同じ扱いを受けて、戦うことになって、家を守ることを決められた、二人の逃げ場所。
ここなら、誰にも見つからなかった。
大人たちからも見つからなかった。
子供たちからも見つからなかった。
今日も、きっと二人して逃げてきてしまったのだな、と思ったら、哀しいのに、可笑しな気持ちになってしまって、縋る彼の肩口で、彼女はふふと笑う。小さく笑った彼女の声に、彼はふと顔を上げた。
「なあ、あの紫陽花知っとる?」
「紫陽花?」
疑問を呈するように彼は言ったが、この荒れた庭に、紫陽花なんて一つっきりしかない。だから、彼女を抱きしめる腕を緩めて振り返った先の紫陽花は、その一つだった。
「額紫陽花なんよ」
珍しやろ、と彼女は唄うように続ける。
「あての十と五つになる年に、弘法市で買うてくれた方がおるん」
「……東寺さんか?」
「そうや。うっとこも寺なのに、『弘法さんにようけお参りして買うたから、誕生日に植えたるな』、って言うた方がおるのよ」
十五歳―――あと一年も待たずに、正十字学園に行かなければならない年に、そうやって他所の寺で植木を買って、そうして、この逃げ場所である寺の裏庭に植えてくれる人など、一人きりしかいなかった。
彼が、意味を知らずに信じて
彼女が、無碍に裏切った
そうして、明陀を、二人を守った、唯一人の坊主だった。
その紫陽花は、今から丁度十年前の今日、この庭に植えられた。
「……十年え。長いわ…永い…」
その次の年には、彼女はもう学園にいて、そうして蝮は、そこで見聞きしたことに因って、この庭を顧みる日などなかったように、思う。
たった十年で、目まぐるしいまでに様々なことが変わってしまった。
良きにつけ悪しきにつけ、多くのことが変わった。
だけれど、その紫陽花は枯れなかった。
大人になるよう言われた。言われ続けて、二人は道を違った。どちらのやり方も、結局上手くいったのか、いかなかったのか、分からなかった。
だが、大人になることを押しつけなかったのは、今も昔も、その一人だけだった。 今度は。
今度こそは。
その手の優しさを、裏切らないように、と彼女は思う。だから、小さく微笑った。
「あん紫陽花の花言葉、知っとる?」
そうして、今、この手を握る男の優しさを、今度こそ離さないように。
家に戻れば、多分、彼が気を遣っただろうことが起こるだろう。
妹たちがいて、義弟がいて、優しい大人たちがいて、そうして、それを植えた坊主も、いる。彼女の一年を問い直すように言祝ぐそれが、ある。
どんなことがあったって、誰だって、その日は、言祝がれつつも、全てを問い直し、振り返る日であるように思われた。
だからこそ、彼は、何となく今日の彼女に寄り難かった。言祝ぎたいけれど、問い直したくはない。彼女の一年を、あるいは、十年を、間違っていた、なんて、言いたくない。言わなくてもいいのかもしれない。だけれど、少し臆してしまうから、今日はにぎやかな他の連中に祝ってもらえ、なんて思っていた。
それを見透かしたように、妻はふふふと笑う。
「額紫陽花のはな、紫陽花とは違てるの」
彼の答えを聞く前に、彼女は言った。
「『一家団欒』え。十五のあての、十年後の今日にぴったりやろ?」
十五の彼女の、十年後の今日。それは、まさしく今日のことだった。
ぴったりやろ、ともう一度確かめるように言って、彼女はその‘家族’に寄り掛る。彼は、その体を抱き留めて、微かに笑った。
糸のように細い雨は、まだ降り続いていて、静かにその花を、あるいはその庭に茂った、目の覚めるような緑を、静かに濡らしていた。
この庭に茂る緑を刈り取るのは、やっぱり止そうと彼は思った。
腕の中の、細くやわらかな存在が、ひどく愛おしかった。
佳日
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蝮さん誕生日おめでとうございます!
2013/6/4