蝮は志摩の家で与えられた一室で、文机にもたれてうつらうつらとしていた。
障子を挟んだ縁側からは、てぃんてぃんと撥ではなく爪先で三味線をはじく嫋やかな音がした。
『坊主愛しけりゃ』
その弦の音に合わせるように、掠れた声がする。
蝮は、金造が歌う声が好きだ。ストレートに響く澄んだ声も、何度か連れていかれたライブで聴いた情熱的な声も。だけれど一番好きなのは、三味線を弾くときの掠れた低い声だった。
まだ本調子でない蝮は、彼の爪弾く三味線と掠れた声に耳を傾けながら、眠りの淵へと落ちていく。
『坊主愛しけりゃ』
その小唄を聴きながら、眠りかけた彼女は僅かに眉をひそめた。
『坊主愛しけりゃ 袈裟まで愛しい』
脳裏には、未だ戻らぬ愛しい男。
(袈裟なんぞ、愛しい思たかて―)
まどろみの中で彼女はその唄を反芻しては、考える。彼抜きの何かなんて、愛しいと思えるだろうか、と。
袈裟懸けの君
「あー!もう疲れたわ!」
「坊主」らしい仕事に駆り出された柔造は、一刻も早く彼女に会いたくて、ばたばたと大股で走るように歩く。衣が夏の風をはらんでふくらんだ。
「祓魔の方がずっと楽やっての!ちゅーかお父なんやねん!法要なんぞ、やり方分からんわ!」
ぐちぐち言いながら歩く柔造の手には錫丈の代わりに、折詰の入った紙袋。蒸し暑い盆過ぎでは、多分家に戻る頃には駄目になっているものもあるだろう。
今日、近くの寺で行われた法要に行くのを頼まれたのは、つい昨日のことだった。八百造には珍しく、前日まで忘れていたらしく、出張所の仕事を入れてしまったと言う。
その仕事、現場の責任者である所長が外れるのは難しく、蟒も手が離せず、結局法要への参加のお鉢が、柔造に回ってきた次第である。
「一夜漬けの俺を誰かほめろ!」
坊主にしてはひどい話だが、柔造はまともな法要など、ほとんど初めてであった。壇信徒が離れて、寺が潰れて、法要などめっきり減ったため、たまに頼まれる他所の寺からのそれは、ある意味大事な仕事で、若い柔造や金造に任されることはなかった。
だが、そうは言ってもいられない忙しさが、不浄王の一件から一月しか経っていない明陀には来襲していて、一夜漬けで覚えた作法を、ベテラン住職達に混じって披露してきたところである。
昨今、寺など少子高齢化の進む職場の代表だろう。法要に参加したうら若い柔造は、注目の的だった。
『明陀の?志摩さんの息子さんやて』
『お若いわあ。お幾つですやろ?』
『お菓子もありますえ。誰か甘いもん持ってきたって!』
『何言うてますの、お酒がええやろ。おば様、ビール開けたって!』
『次男さんやて!いやあ志摩さんもいい息子さん持ちはった』
案の定、集まった坊主の中で一番若かった柔造は、法要ののちの宴席で、馬鹿みたいにビールと日本酒をちゃんぽんさせられ、馬鹿みたいに折詰と菓子を持たされ、やっとのことで炎天下に逃げ出した。
寺から家まで、大した距離はない。たどり着いた玄関先でとりあえず声を上げる。
「帰ったえー」
へべれけに酔っ払って、手には折詰。典型的な一昔前の『酔っ払い』である。
「しけてんな。誰も出てきやせんし!」
ぶつぶつ文句を連ねて、柔造は草履を脱ぎ捨てる。
「まーむーしー!」
玄関から上がって最初に上げた声がこれだ。愛妻家と言うべきか、迷惑な酔っ払いと言うべきか。
だが呼ばわっても、苛立ちを隠さぬ返答さえ届かない。
「さすがにそろそろキレるえー、まむしちゃーん、何にもせんから出ておいでやー」
もう言っていることが無茶苦茶である。
足取りは、法要からの帰路よりもかなり不安定だ。外では人の目を気にする理性の箍も外れたらしい。
「まーむーしー」
そこまでわめき立てても、文句が出ない。父親はもちろん仕事だし、弟も午後から仕事。妹は確か登校日。母は夕飯の買い物にでも出ているのだろう。とすれば愛しの妻も買い物か。そこまで、回らない頭で考えて、柔造はがっくりと肩を落とした。
「アホか!新婚やぞ!?疲れて帰った俺からまむし奪うとかどんだけやねん!!」
ともすれば理不尽なそれは、しかし、酔っていようがいまいが、最近、彼の中の正論だった。
苛立ちと憔悴を併せ持って、柔造は自室の障子をがらりと開ける。
「って!ま…むし」
声は尻窄みに小さくなった。
部屋の端に置かれた文机の脇で、愛しの新妻は丸まってすーすー寝息を立てている。
蝮の与えられた一室というのは、柔造の自室だった。
文机の上には、弟のものと思しきメモ。
『蝮寝た。俺は仕事。あとシクヨロ』
「…あいつのボキャブラリーってどないなってんねんやろな…」
メモをつまんで、出てきた台詞は案外まともなツッコミだった。「ゴイスー」だの「シクヨロ」だの、古いんだか新しいんだか、もはやチョイスの基準が分からない。
それから、寝ている蝮に目をやるが、いくら出迎えてほしいと思っても、起こすのは忍びなくなる寝顔だ。ちょっと頭を撫でると、むずかるように身をよじる。それから、眉間にしわを寄せてしまうから、柔造は慌てて手を離す。
すると蝮は、丸まった身体をさらに丸めて、それから規則が乱れた寝息の間に何事かつぶやいた。
「……」
「?」
「じゅ…ぞ」
「…!」
「はよ…う…ん…う」
寝言にすら艶かしさを覚えるのは贔屓目か、それとも欲目か。
その姿と声に、柔造は彼女を抱きしめたい衝動に駆られたが、起こすかもしれないし、折詰の中身を整理して冷蔵庫に突っ込み、衣をシワにならないよう仕舞っておかないと、後が恐い。母からも蝮からもどやされること請け合いだ。
そう思って、柔造は立ち上がろうとする。ぐらりと来た。適当に薬も飲んでおいた方が明日のためだろう。
立ち上がって歩きだそうとしたら、何か引っ掛かる。
「ん…?」
「じゅぞ…はよう…」
かえってきて、との舌っ足らずな寝言と、衣の裾を引く弱い力の手に、柔造は微笑して、己の肩に手を掛ける。するりと落ちた木蘭色の布は―
ぱちくりと目を開くと、何やら視界が黄色く染まっていた。
寝起きのぼーっとした頭で、蝮はそれが何であるか考える。
それからは、酒の匂いと、慣れ親しんだ香の薫りと、それから―
「じゅうぞう…?」
木蘭色のそれが、今日の朝に見送った夫が身につけていた袈裟なのだと、彼女はそこで気がついた。
明陀は普段、普通の袈裟をつけることが滅多にないから、他所の寺の法要に行くという柔造がつけていた袈裟が、真新しく映ったものだ。
『一張羅なんやさかい、向こうで着替えさしてもらいよ』
蝮は顔をしかめて言ったが、返って来たのは『面倒臭い』の一言だった。袈裟は大事にするものだと父が言っていたのを覚えていた蝮は、ますます顔をしかめたが、とりあえず夫を送り出した朝。
もう昼過ぎだろうか。
夫の香りのする袈裟を抱きしめて、蝮はまたうつらうつらとしだす。
(柔造の…匂い…)
まるでそこに彼がいるように。
あの唄は半分正解だ。この袈裟すら愛おしい。
だけれど、だけれど―
(柔造がええなあ…)
本当の彼を求めてしまう己の貪欲さに苦笑して、それでもその袈裟を掻き抱いて、蝮はまた眠りの淵に落ちていく。
折詰を整理して、衣を畳んで、薬を飲んで、水をしこたま飲むと、ぐらぐらしていた頭も落ち着いた。代わりに眠気に襲われる。彼女も寝ていることだし、自分も一眠りしようと部屋に戻ると、かけてやった袈裟を抱きしめて眠る彼女の姿。
「蝮…」
(可愛ええっ!据え膳?据え膳なん!?)
己の脱ぎ捨てた袈裟を抱きしめて眠る新妻!と、思考は暴走しだす。だが、酒の回った頭は、睡眠の方がお好みらしい。
「あかん…眠い…」
ここまで飲まされなければ…と思いながら、柔造は、酒に呑まれて畳に沈んだ。
抱き寄せる腕の熱と、たまに聞こえるいびきに、蝮は再度ぱちくりと目を覚ます。
己が腕に抱いて眠るのは彼の袈裟。 己を腕に抱いて眠るのは袈裟の主。
「おかえり」
つぶやいて、彼の胸に縋る。瞬間、抱きしめる腕に力が篭って、彼女はちょっと微笑んだ。
坊主愛しけりゃ袈裟まで愛し
何より愛しいおまえさま
=========
書きながら思ったこと。袈裟と衣は大事にしてくださいね、割と真面目に。
2012/4/8
2012/7/31 pixivより移動