扉をノックすると、病室からは、入室の許可の代わりに「ちょっと待ったってください」という、震える声が聞こえた。それに俺は、ゆっくりと扉を開ける。
開いた扉に、びっくりしたように、蝮は目許を擦る。
「し…ま…かいな…待ってくれて言うたやろ」
彼女はすぐに、表情も、声音も、硬くして、それからちょっと微笑んだ。多分、泣いていたのだと思う。そう思ったら、上手い言葉が見つからなくて、俺はベッドの脇のパイプ椅子に腰を下ろした。
「どないしてん?言うとくけど、私は失恋の痛手を慰めてやるほどやさしゅうないからな」
先制で思い切り殴られた気分だ。だが、その話は後回しだろう。
「矛兄んとこ、行ったんやてな」
「……行ってきた」
僅かの間の後に、肯定して、彼女は視線を窓の外に投げる。
「兄様は強いなあ」
彼女は、視線を外に投げたままでそう言った。短くなった日は、もう傾いて、街灯がぽつぽつと行き交う人の足元を照らす。
彼女の薄い肩が、かたかたと震えた。
「どないしたらええか、私なんか分からん。どないしたら、みんなを守れるか考えても、考えても、分からん」
「……守っとったやないか。ずっと」
そう言うと、彼女は驚いたように視線をこちらに戻した。
「少なくとも俺はそう思う。青も、錦も、金造も、廉造も、それに、俺も。ずうっとお前が守ってきたもんと違うんか」
何か言いたげに、彼女の口が動くが、言葉は出ない。
「お前は、深刻に考えすぎなんや。明陀も、兄妹も、全部全部、自分一人で守ろうとなんするから悪いんや」
そう言ってから俺は、ずっと考えていたことを言ってしまおうと思った。そう言って、引き留めなければならないと、分かっていた。分かっていたのに、それを口にすることを、心のどこかでためらっていた。それは、少しばかりの恐怖に似ているのかもしれない。
「これからは、お前のことも、俺がきっちり背負ったるから、せやから、独りでどっか行こうとすな。何かあったら言え。そんで、少しは俺を手伝え」
「は…?」
未来に対する恐怖。恐怖というよりも、畏怖というべきか。彼女の、貴いこれからを、己に背負えるのだろうかと、ずいぶん思った。ずいぶん思った結果が、4人だと言われたら、返す言葉もないのだが。
だが、彼女が背負おうとしたように、今度は俺が背負おうと思う。彼女が抱えてきた様々なことを、丸ごと背負おうと思う。
「俺はお前を背負ったる。お前も、家族も、明陀も、背負う。せやから、お前も、全部棄てようとなん、すな。少うしくらい、病身のお前に背負わせても、怒られへんやろ?ええか、勘違いすんなよ。罪を背負えなんぞというのとは違うからな。罪なんぞ、背負う必要ない。そやのうて、ちょっとだけ、ここに見舞いに来るやつらのこと、考えたらええねん。考えて、元気か聞いて、お前も早く元気になる。それで仕舞いや」
「阿呆、ちゃうの…?私に、そんな権利なんぞあらへん…!私は、みんなを裏切ったんや!もう、もう、明陀の中に、私がいる場所なんて、ないんや!」
「そんなことある訳ないやろ。ないんやったら俺が作ったる。そんくらい、簡単なことや。なんせ俺は、お前のこと背負うて言うたんやからな」
例えば。
とても不毛なのだが、兄ならここで、もっと上手い言葉を思いついただろうか、なんて思う。だが、俺は俺なりに、彼女の世界を救えればいいと思った。例えそれが、兄に敵うことのないことだとしても。
「あほう…志摩の、あほう」
かたかたと、肩を震わせて、蝮はそう呟いた。思い立って、その頭を撫でる。ぴくりと彼女はその手から逃れようとするが、構わずにそのなめらかな髪に指を通すと、たまりかねたように、彼女は俯いた。
泣け、と言おうかとも思った。矛兄の前でさえ、彼女は泣けなくなってしまった。唯一泣くことのできたそこに、俺たちは立たされた。たった一人の兄の欠落を、俺たちは必死に二人で埋めようとしてきた。明陀を守る。それは思った以上に難しいことで、結局何が正解だったのか、今もって分からない。
だが―
だが、蝮が、兄のように、明陀を守るために命を捨てなくてよかったと思う。
「頑張ったな」
またしても、思考を経由しない言葉が落ちた。そのまま、彼女の頭を引き寄せる。
「今度は俺が守ったるさかい、お前はちょっと休み」
「志摩…し…ま…じゅう…ぞ…」
彼女の声は、少しずつ小さくなって、幼い時のように呼んだ俺の名前は、ぽたりと隻眼から落ちた滴と共に俺の胸に落ちた。
「すまん…ほんまに、あてが、守らなあかんかったのに、駄目やった。いっぱい考えたのに、こないになってしもた。ごめん…ごめんなさい」
「謝らんくてええ。俺かて、お前のことちゃんと守らなあかんかったのに、こないにしてもうたんやから、お相子や」
今度は頭だけではなく、身体ごと引き寄せる。バランスを崩した彼女は、逡巡した後に俺の胸辺りに縋りつく。嗚咽を殺して、彼女は泣いた。
「柔造、ごめん、守れなくて、ごめん」
「お前はちゃんと守っとった。今度は俺が守るから。大丈夫や」
「…頼んでええ…の、かな…こないな、ふうになってもうて、兄様怒らへんかな」
「怒るわけ、ないやろ」
縋りつく彼女の髪を何度も撫でる。死んだ兄の目を気にして、と、弟は言った。だが、弟が知らないくらいに、俺の中にも、彼女の中にも、彼の存在が深く根ざしていたのだと思う。
棄ててしまえ、とは言えない。俺だって、未だに彼の言葉や、行動を思い描いては今の己に繋げようとするのだから。だけれど、彼女の中で唯一だったそこに、今度は俺が成ろうと思う。泣ける場所、笑える場所。そういうものを、彼女に渡したい。
「矛兄には、敵わんけども」
苦笑して呟くと、彼女は驚いたように顔を上げた。かち合った視線に、俺はやはり苦笑したままで言う。
「矛兄には敵わんけども、ちゃんと守る」
すると、何故か蝮は怒ったように目を吊り上げた。それから、本当に怒っているのだろう、どんどんと俺の胸板を叩き始めた。
「阿呆申!そないなこと言いなや!」
「…蝮…?」
「あんたは!そないなこと気にせんでええのや!ほんまに阿呆と違うか!」
「何…言うてるんや…?」
当然のことを言ったつもりだった。矛兄には敵わない―そう言えば、彼女は「そうやな」と言って、思い出に浸って笑う、そんなふうに思っていた。
「兄様になんか、敵わんくてもええ!」
叫ぶように言った声が、病室に響いた。
「私が、みんなを守ろうとしてきたみたいに、あんたもずっと、みんなを守ってた。絶対そうや。兄様と比べようなんて、そんなこと誰も思わへん!そないなこと、私が許さん!柔造は…!」
そこで彼女は一瞬言葉をためらった。どん、と、もう一度、小さな拳が俺の胸を叩く。
「柔造は、あての、特別なんや」
「は…?」
「誰がなんて言うたかて、あんたは私の特別なんや。兄様やって敵うはずないの。どんなに頑張ったかて、兄様かて、あんたには敵わんの」
どくり、と心臓が脈打った。こんなことが、ずっと昔にもあった気がする。ずっと昔にもあったし、ここに来る直前にもあった。そんな気がする。
「いい、よく聞きよ」
『いい、よく聞きよ』
幼い日の声が重なって聞こえた。耳朶を打つこの声は、時を経ても彼女のものに違いなかった。
「初恋は、一つっきりなんよ。死ぬまでずっと、死んでもずっと、あての初恋は、あんた一人きりなんよ」
言葉を失った。なんと返答すべきか、分からなかった。
「あんたはな、そら、好きに恋もできるし、いくらだって女の子がいるやろうけど、あんたの初恋なんて知らんけど、私の初恋は、どこまで行っても一つっきりなんや」
そんな俺に構わずに、蝮は決然とそう言った。
「ウソ…やろ…?」
辛うじて口からこぼれたそんな言葉に、蝮は眉を寄せる。
「ウソな訳ないやろ。あんたの兄様のお墨付きや」
「は…?」
「兄様に言われてん。初恋は一つっきりやて。死んでも一つっきりやから、大事に抱えておかんといかんて」
そう言われて、俺は初めて納得した。だから彼女は、思うよりずっと『初恋』というものに拘るのだ。一人きりの兄が、大事にしろと言ったから。
それは、少しだけ悔しかった。だが、今となっては、その悔しさなど瑣末なことなのだろう。
ずっと、彼女の初恋は、兄だと思っていた。死ぬまで一つ、死んでも一つの初恋は、己の兄だと思っていた。だから、永遠に、どこまで行っても俺は兄に敵わなくて、それくらいだったら初めから、蝮のことなど好きではないというように振る舞えばいいと思っていた。
だが、今彼女の言葉を聞いて、弟の言葉の意味がやっと脳裏で繋がった。
『初恋の女なんやろ。あんたの一番は蝮なんやろ。泣かして楽しいか』
もし彼女が、今でもその『初恋』というものを想っているのだとしたら、傷つかない訳がない。たくさんの恋を、踏みにじる俺が、初恋の相手なのだ。死ぬまで一つの、初恋の相手なのだ。もし俺なら、と考える。そんなことになったら、傷つかずにはいられないと思った。初恋の相手である、彼女が、そんなふうにしていたら。俺の一つきりの初恋の蝮が、そんなふうにしていたら。
全くもって、俺たちは逆だった。蝮は、特別の『初恋』をひどく大事にしていて、俺は彼女に言われて気がついた『特別』の初恋をずいぶん遠ざけた。
ゆっくりと、彼女に手を伸ばす。目を吊り上げているのに、眦からは涙がこぼれそうで、俺はこつんと額を合わせた。
「ごめん」
至近距離で謝罪の言葉を口にする。
「別に、謝ることと違うわ」
つんけんと、いつもの調子で彼女は言った。だが俺は指通りの良い髪に手を掛けて、それから、そのやわらかな唇に、一つ口付けを落とす。
「謝らな、あかんやろ」
啄ばむような口付けの後、呆然としている彼女に、俺は笑い掛ける。
「俺の、死ぬまで一つの恋は、お前なんやから」
恋といふもの
初めての、恋といふもの
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椿屋四重奏「恋わずらい」 がテーマソング
2012/3/6
2012/7/31 pixivより移動