胡蝶


 あの日々がまやかしだったとしたら、だったら俺はどうすればいい、そう思い、柔造は唇を噛んだ。
 噛んだ。
 引き結ぶなどということではない。ガリっと犬歯が彼の下唇を裂いた。唇からの出血なんて大したことはない。少々鉄のにおいがしただけで、血が滴るようなことはなく、その意識したともしないとも言えぬままに噛んだ唇を軽くなぞり、それから彼は今度こそ唇を引き結んだ。案の定、指に血はつかなかった。
 痛いとも思わなかった。
 痛みなど疾うに忘れている。
 彼は唇を引き結ぶ。
 まやかしであるはずなど、ない。

「そんなことがあるはずない」

 ぼそりと吐き捨てる。引き結んだ口の端が僅か持ち上がるのを感じながら。
 虎屋の廊下を歩く三姉妹を、いや、その中のたった一人、蝮だけにその視線を差し向けながら、彼は緩くその唇を持ち上げた。

「俺が、蝮を取り落とすことなんぞ、ありえん」





「はよ京都帰りたいなあ」

 ノートではたはたと顔をあおぎながら言った柔造を、蝮はちょっと振り返る。冬休みは終わってしまったようなものだ。いや、正確にはまだ冬休みの途中なのだけれど、二人はまだ半分も残っているうちに、もう京都への帰省を終えて学園に戻っていた。
 京都に帰ったって、あいさつをして墓参りをしたらあとは学園であったこと、学んだこと、そうして二人に課せられた最も重要ともいえる、聖十字騎士團という組織内部のわずかな動きなどを仔細に報告せねばならなかったから、それは幾分気鬱な帰省だった。

「ほうやな」

 蝮はそのようなことを思い返しながら短く答える。学園の図書館には暖房が入っていたけれど、学生の少ない長期休みの間は空調も適当なのかもしれない。冬服を着込んでいては暑さを感じる。勉強するでもなくノートをばたつかせる幼馴染の気持ちも分からないでもなかった。
 暑い。
 蝮はそう思うことで必死に自分の置かれた状況から目を逸らそうとしていた。
 とにかく暑い。冬なのに暑いのだ、と。

 聖十字騎士團によって運営される祓魔師養成塾に通うように命じられた時、二人の中にあったのは反発でしかなかった。柔造は純粋に、地元に残りたいとか、高校くらい自分で選ばせろというものであったし、蝮は入塾前の時点で蛇が使えていた。一度に二匹の召喚という大技もできた。そういう点では柔造もそうだろう。地元に残っていたって周りには仏教系の祓魔師がいるわけで、塾に通わずとも十二分に祓魔師認定試験には通っただろう。
 その反発を見て取ったように、八百造と蟒によって言われたことに、だから二人はまず言葉を失った。


『誰も立派な祓魔師になれなんぞと言っとらん』
『は!?どういうことやねん!』
『柔造さん、それに蝮。二人には騎士團の教育や方針がどういうものであるのか探ってもらいたい』
『……!やはり騎士團は明陀を信用できんと!?達磨様が本尊までお渡しになったのに!?』
『そういう訳やない。ただ我々には明陀に伝えられた祓魔しかない。今、祓魔というもんがどうなってるか、全体を俯瞰できる立場が欲しいんや』

 気色ばんだ蝮を押し留めて言った八百造のその言葉に、二人は息をのんだ。
 息をのんでそれから、柔造は鼻白んだ。
 全体を俯瞰できる立場?と柔造は思う。そんなものじゃないだろう、と。
 ただ騎士團に叛意はないと、本尊は譲ったと明らかに示すために、ちょうどいい年齢だったのが俺と蝮なんだろう、と。
 息をのんでそれから、蝮は小さく嘆息した。
 これではまるで人身御供だ、と蝮は思う。情報なんて本当はいらないのだ、と。
 ただ達磨のしたこと、騎士團への所属の正当性を補強するために、明陀の内部の不満さえ、筆頭の僧正二家が子供を差し出せば収まるだろう、と。


『使われたな』

 二人の父が去って残されたそこでささやくように言われて、蝮はこくりとうなずいた。

『けど、それが座主をお守りする我らの宿命』

 その言葉は空言などではなかった。そうだというのに、その言葉に柔造はひどく居心地の悪いものを感じた。蝮と自分の考えは一致しているのだ。騎士團への恭順と、内部への見せしめ、どちらも体よく押し付けられたのが自分たちなのに、そのことすら宿命と言って、忠実に従おうとする幼馴染がひどく嫌だった。

『お前さ』
『なんや』
『どこにも行くなよ?』
『はあ?』

 その言葉が今は遠い。


「いつか」
「うん?」

 過去の感傷から立ち戻って、蝮は正面に座る男に声を掛けた。この冬が過ぎれば、彼は郷里に、それこそ先ほど彼が言ったその「京都」に帰ることができる。

「どこにも行くなて、あんた言うたね」

 正面に座る柔造を見ているのに、それはどこか遠くを見るように凪いだ目だった。その静かな目を柔造は見返すともなく見た。彼女が遠くを見つめるようになったのはいつだったろうと考えることもあったが、そんなことはどうでもいいことのようにも思われた。

「言うたかもなあ」

 バサッとノートを投げ出して、柔造は応じた。言外にもう勉強は終わりだと示して。言ったかもしれない、言わなかったかもしれない。蝮は遠くを見ているかもしれない、見ていないかもしれない。そんなこと、でもどうだっていいと思うから。

 どこにも行くな、だって?
 蝮がどこに行けると言うのだ。
 明陀という足かせを付けられて、遠くに行けるはずがない。


 自分を通り越して遠くを見ている、だって?
 そんなはずがない。
 柔造という存在は毒のようにしみ込んでいたはずだ。


 明陀という足かせは、僧正を、座主を、血を守ることを彼女に専心させ、ついに彼女の腱を断ったと柔造は思っていた。
 自分という毒は、その明陀への不平不満を受け止めるという形で以って顕在し、その狭い箱庭の中で頼りにできる人間が志摩柔造だけになったと思っていた。

 柔造は父親たちに感謝さえしていたのだ。

 もちろん、明陀のために利用されたのはいけ好かない。今だって腹が立つ。だが、二年、明陀の誰の目も届かない所で蝮と過ごせば、明陀の中への不満も、不安も、何もかも共有できたと彼は思っていた。だから、自分がここを離れても、蝮が明陀に戻ってきても、互いを一番に理解できるのは互いしかいないし、彼女は必ず自分のもとへ帰ってくる、そう思っていた。
 入学してからずっとそう仕向けてきたのだ。
 だから「誰かほかの人間が介入していない限り」柔造はどんな状態でも蝮を取りこぼすことなんてないはずだった。

「なー、どっか行かん?駅前とか」

 蝮の言葉をまるきり放り投げて、柔造はありきたりな提案をした。
 不安なんてない。少なくとも彼には。

「なあ、明陀はこれでええんかな」
「そんなん俺らの決めることと違うし」

 ありきたりな提案を無視して話を続けようとした蝮に、だけれど柔造はやっぱりありきたりな答えを返した。

「それもそうやな。駅前のコーヒーショップやったらここよりマシな空調やろ」

 その答えを引き継ぐように、蝮は一つ前の提案を受け入れた。そのちぐはぐな会話は、だけれどこの頃はあまりにいつものことだった。平然と、淡々と、かみ合わなくてもかみ合うように話が続いてしまう。


 柔造はそれが良いことだと喜んでいた。
 言葉を多く交わさずとも、互いに理解ができるのだと。
 蝮はそれが悪いことだと焦っていた。
 言葉を交わすことさえも、もう彼は惜しんでしまうのだと。


 その二人の違いに、二人はついぞ気づかぬままに、柔造はここを去ることになる。


 そのすれ違いが始まったのはいつだろうと、荷造りをしながら蝮はぼんやりと考えた。柔造はもうここにはいない。
 箱庭から箱庭へ。そんな気分だ。明陀という箱庭から出て、新しい箱庭に入った。そこでもすべてのことは大人たちの良いように進んでいる。そうして彼女もまた、元の箱庭へと帰っていく。
 その、ほころび。
 その一欠けらのほころび。
 守るべき座主が、本尊が、教えが、狂っているのではないかという一欠けらのほころびを、彼に訴えたのはいつのことだったかもう思い出せない。時間が止まってしまったようだと彼女は思う。
 ……いや、最初から時間などという概念がなかったのかもしれない。
 そうだ。明陀に全てを捧げていたころ、京都にいた頃に時間なんてなかった。その始祖が行ったすべてを守るためだけに、その始祖がその目を封じたその時から、明陀の時は止まっていた。

「その時を、動かす」

 口に出してしまってから、蝮はその浅薄さを思った。


「ほんとうは―――」


 もしも本当のことを言ってもいいのなら、その動かなくなってしまった時を終わらせたかった。裏切りたいわけではないのだと言い訳する。


「だって、そうやろう?」


 だって、あなただって。


(だって、志摩だって、明陀に飽いていたはずだもの)


 これから京都に戻っても、きっと今までのように全てを捧げることはできない。
 きっといつかの日、自分は裏切ってしまう。

「裏切ってしまう…か」

 自分のその想念の可笑しさに、蝮は一人微笑んだ。
 これから明陀に戻り、達磨のしてきたことを調べれば、あるいはすべてが自分の考え過ぎで済むかもしれないのに。
 あるいはすべてが自分の勘違いで終わるかもしれないのに。
 むしろ、今まで調べてきたこともこれから調べることも徒労に終われば何よりも安全なのに。

「あては、動かすことを望んでしまった」

 あの夏の日、柔造がこの不安のすべてを上書きした日だろうか。その背で絶望した日だろうか。
 あの日、柔造が何でもないことのように信じるというそれだけですべての懸念を誤魔化した日だろうか。
 それとも、あの時に彼に言われたどこにも行くなという言葉だろうか。

「あては明陀を救う…目を、覚まさせる」

 救った明陀に、例え自分の居場所がなくても、そう思ってしまってから、彼女は小さく肩を震わせた。

「ない方が、いい」

 すべてはその箱庭の中だけで進んでいた。
 その箱庭を壊してみせる。

「壊したら、志摩は…志摩も、出てこられる?」

 小さく聞いた。そこに彼はいないのに。
 答えは否だと知っていたのに。


 答えは否だと互いに了解していた。
 蝮はその箱庭を壊すことを選んだ。
 柔造はその箱庭に留まることを選んだ。
 互いにその思いが噛み合わぬことを知っていた。





 だから、藤堂三郎太のことが伝えられた時に柔造はすぐに蝮が裏切り者だと気が付くことができた。


「俺以外、俺以外が蝮に関わって蝮を変えようとした!」

 蝮を見下ろした、詮議の場の後の廊下で、柔造はぼそりと吐き捨てた。

「そんなこと、無理に決まっとる」

 忘れるはずない、覚えているにきまっている、忘れたというなら、覚えていないというなら、何度だって取り戻す。
 宝生蝮は志摩柔造のもとに帰ってこなければならない。
 そうただ一つ違うのは、柔造は蝮が壊そうとした箱庭が壊れないのを知っていた。

「たとえ、引導渡したって、それが俺やったらそれでええんやろ、蝮?」

 そこが地獄の底だとしても、彼女は彼のもとに帰ってこなければならない。
 たったそれだけのことで、その箱庭は壊れない。





「愚かだと思うか」
「愚かや、あてもあんたも」

 手が伸ばされる。布団に横たわる彼女の細い手が伸ばされて柔造の頬に触れた。


 果たして彼の宿願は叶った。
 帰ってきたとも。蝮はその手の内に、その箱庭の内に帰ってきたとも。
 果たして彼の願いは叶ったのだ。
 愚かなるその願いは、彼女をずたずたにしてしまったけれど!


「分かっているつもりやった」
「ああ、ほうやな」
「お前は、俺のもとに帰ってくると…俺以外の誰もお前を変えられはしないと」
「ほうや、なあ」

 ひび割れた笑顔に、柔造は笑いかけた。上手く笑えていることを、互いに願いながら、互いの顔を見た。

「つもり、やない。分かってたんや、全部」
「そうやね」
「俺たちは、互いのもとに帰るしかなくて、互いのことしか頼れなかった」
「そうや……ああ、こう言っていいのか…悪いのやろうな…悪いのやろけども、あては藤堂に縋れば明陀が救われると…思うた…信じてなぞおらんかった…ただ思うた」
「ああ」
「そやけど違った。あては、あてらは、明陀の中でしか生きられへん…あんたはそれをもっと早く知っとっただけの話なんやなあ」


 諦めたように、彼女の手が、指が柔造の頬を撫でる。まるでいとおしいものを撫でるように、まるで今にも壊れそうなものを撫でるように。

「人の心は移ろう」
「でも、移ろうても移ろうても、ここに戻るしかなかった」
「俺はお前が戻ってくることだけを願ってしまった」


 それ以外の彼女の願いをすべて黙殺して。
 最後に突き落としたのはきっと自分だったと彼は気付いている。
 最後に突き落としたのはきっと彼だったと彼女は気付いている。


「明陀が、壊れればいいと思うた」
「うん」
「藤堂なんてどうでもいい、達磨様が嫌いなわけやない、明陀は家族やった…だけど」
「だけど明陀は俺たちをずっと縛って、ずっと捕まえていた」

 彼が継いだ言葉にああと彼女は思う。本心から裏切りたかったわけではないのだ。
 本心から道を正したかったのだ。
 本心から裏切りたかったのだ。
 だけれど本心から裏切りたかったわけではないのだ。

「あてはただ、ただもう」

 静かに涙した蝮の頬を、柔造は撫でた。
 二人の世界は、明陀の中にしかなかった。


「ただもう、ここから逃れたかった。だけれど、そんなことは、無理やった」
「俺たちは、ここでしか生きられないから」
「ほうや、あてらは…ここにしか生きられないから」

 ああ、と柔造は思う。もしかしたら藤堂さえこのことを知りはしないだろう。
 いや、知っていたからこの裏切りは成ったのかもしれない。だけれど、明陀、という組織の中に、あるいは柔造と蝮、蝮と柔造の間の中に、余人の入る余地などは微塵もなかったのだ。

「生まれた時から、矛兄様がのうなってしまった時から、あてはもう明陀の中で、明陀のためだけに生きていこうと思うた。裏切りたいわけやなかった。裏切りのつもりなんてなかった。許されるはずがないと思いながら、きっとあてが正しいのやと、みんな目ぇを覚ますと思っていた」
「その明陀の目が覚めてないと思ったのはあの日やな」
「……ほうや」

 静かに蝮は応じた。あの日、あの夏の川岸で、志摩柔造という最も自分の心を理解し、互いしか縋る者のない中で明陀を生きてきた彼に、その背で信じればいいと言われた。あの時の絶望、寂寞。それを蝮は忘れることができなかった。突き落とされたとさえ思った。千尋の谷という谷底がある。その時に落ちたのはそこだったと蝮は思った。もう届かない、もう帰れない。幸せだったあの頃にも、幸せを失ってもこの幼馴染が隣にいてくれた日々にも。
 千尋の高さから突き落としたのは志摩柔造だった。だけれど彼女の中で噛み合わなくなる彼との言葉の中に、心の中に、一つの心が浮かんだ。必ず這い上がってみせる、と。いや、違う。谷底に落ちたのは柔造の方なのだ、と。必ず引き上げて見せる、と。
 そこに余人の入る隙などなかった。だから藤堂に頼れば明陀が、柔造が助かると思っただけだった。信じていないといえば嘘になるかもしれないが、信じてはいなかった。信じていたのは誰よりも自分自身の愚だった。その愚を愚と思わず、正しいと信じていた。
 そうだとも、彼以外の誰も、その苦しみを、その箱庭を、その谷底を共有してきたただ一人の彼以外が己を変えることなど出来はしなかったのだ。それは彼だって同じだった。

 そうして、彼女は変わった。変貌した。
 そうして、彼は変わった。変遷した。

「夢を見ていたみたい」

 ふと微笑んで蝮は言った。右目の包帯はいまだ痛々しく、それだというのに、体を横たえたままに彼の頬を撫でる蝮は、ふわりと微笑んだ。

「胡蝶の、夢。あてがあんたなのか、あんたがあてなのか、分からない夢を」

 微笑んで言った彼女の体を、その手を引いて起き上がらせると、彼はしっかりと抱きしめた。

「俺も、夢を見とった。俺がお前で、お前が俺の夢。互いに違う存在のはずなのに、俺たちはあまりにも多くのことを同じく見てきた」
「その夢が壊れたから、こうなってしもうたんやろうなあ」

 彼の腕の中で、頑是ない子どものように彼女はその胸板に額を押し付けた。

「壊れてなんぞ、いない。俺はお前で、お前は俺で、俺たちはいつも互いを支えにしか生きられなかった、これからも生きられない」
「ほうやろうなあ」
「お前の夢を壊したのは俺やった。俺の夢を壊したのもお前やった。やけど、やり直せる。千尋の谷からさえ、這い上がれる」

 そう言って、彼女をこの世に引き留めるように言った彼に、蝮はやっとあたたかなものが心中に戻るのを感じた。
 心はずっと冷たくこごっていた。あの日、あの時、彼の背で感じた絶望の日から。
 だから夢に見た。自分と彼は一緒なのだと、誰にも、藤堂にも、達磨にも、蟒にも、八百造にも、誰にもそれは侵せないのだと。
 だけれどそれが夢だとも知っていた。だから夢は壊れてしまったのだとも知っていた。
 夢の中でずっとその時が止まればいいと思っていた。明陀の時を動かしたかったなんて嘘だ。時が止まればいいと思っていた。
 だけれど、たくさんの秘密は、行いは、脅威は動き出し、そうしてその夢の中にはもういられなかった。

「志摩……じゅ、ぞ」

 その腕の中ですすり泣きながら蝮は言った。言ってしまっていいのだと、思えた。

「もう一度、夢を見せて。あてと柔造しかいない、夢を」

 そう言った彼女を彼は抱きすくめる。
 箱庭も、与え続けた毒も、何もかも、もういらない。
 明陀は二人の生きる箱庭だった。だから蝮は帰ってきた。だけれど夢の中でなら、二人だけの居場所がある。それが夢でなくたって。それを作ろうと柔造は思う。

「箱庭やったら、僧正家同士でも一緒にいられると思うてた」
「うん」
「一緒になれんでも、結婚なんてできんでも、それでええと思うてた」
「…う、ん」
「そやけど俺は強欲なんや。明陀になんて飽いてる。僧正血統になんて飽いてる。ただお前が欲しかった。その理由のために、明陀から、俺から離れられんようにする呪いと毒を与え続けてきた」
「柔造、違う」

 彼の彼自身を抉る残酷な告白に、顔を上げようとした蝮は、だけれど抱きすくめられてそれが叶わなかった。

「違わん。お前さえ手に入れば俺は他はどうなったって良かった。だからお前が裏切ったときにどうしようもない怒りに駆られた。俺から離れていくお前が許せんかった」

 抱きしめたまま言った彼に、彼女は額を胸板に預けて言った。

「あても一緒や」
「……え?」
「明陀に飽いていた、あんたが一等好きなのに、あんた以外いらんのに、明陀にいるために添い遂げられないそれに飽いていた。だから、明陀を正せば、何か変わるかもしれないとさえ思うた。浅ましい、明陀を救うと大義を掲げながら、考えとったのはあんたのことばかりやった。だから、あの日、あの夏の日にあんたがあての思いを聞かんかったとき、きっと、きっとこの男を手に入れる、正す、あてのもとに帰らせると思うた。おんなしや」

 その言葉に、柔造は思わず腕を緩める。涙で頬が濡れた蝮は笑って彼に口づけた。

「もう一度、夢をやり直してくれる?」


 互いに飽いていた、その血に。
 互いに飽いていた、その居場所に。


 互いに求めていた、その思いが叶うことを。
 互いに知っていた、その思いが叶わないことを。


 だからいつもそれは互いがどちらなのかも分からないほどに同化した夢だった。


 微笑み、唇を離した蝮に、柔造も微笑んだ。

「いいや、もう夢はやり直さん」

 もう、夢なんて見なくていい。だって互いがそこにいることを、もう二人は知っているから。

「夢やのうても、もう俺たちには俺と蝮の二人しかいないから」

 そう言って、彼は彼女に深く深く口づけた。
 呼吸を奪われて、その唾液を交換して、蝮はぼんやりしかけたそこで思った。



(もう夢も、谷も、幾千の孤独も、この男が埋めてくれるのなら)


 私はもう、どこにも行けない。
 私はもう、どこにも行かない―――




2017/04/20