紅
たまの非番、蝮はフレアスカートにカットソーを着て、外に出た。高校、祓魔塾と、周りにはおしゃれな女子学生がいて、今まで公立ばかりだった彼女も、薄化粧やおしゃれに気を遣うようになった。だが、気を遣うようになったというものの、出張所のハードな仕事、仕事場での服装、雰囲気…そういうものたちが邪魔をして、未だに化粧にも、服装にも、今時のファッション雑誌に載っているような若向けの要素を取り入れられない自分に、少しだけ不満もある。だが、明陀の中で戦う者として、そんなたるんだ考えをするものではない!と自分に言い聞かせて、言い訳して、今日も、フレアスカートまでは頑張ったが、キャミソールは見送って、化粧も薄化粧。少なくなったピンクベージュの口紅を塗って家を出たところで、蝮は柔造に出くわした。
「なんや蝮、出掛けるんか?」
「そういうあんたこそ、仕事はどないしてん」
「今日は非番や、非番。そういやお前も非番やったな。どっか行くんか?」
そう問われて、特に隠す必要もないから、蝮はぶっきら棒に答える。
「薬局」
「薬局て!お前風邪でも引いたんか?それとも怪我か?怪我やったらすぐ出張所行きよ!湿布とかぎょうさんあるさかい!」
蝮の薬局との返答に、柔造はぎょっとしたように蝮の肩を掴んで揺らした。それに、彼女もびくりと肩を震わせたが、この男、何か勘違いをしているなと気がつくと、蝮は一つ息をつく。
「別に、風邪なん引いてへんし、怪我もしてへん」
「え、せやったらプロテインでも買いに行くん?」
「一緒にすな!この申が!」
全くもって見当違いすぎることを言って、きょとんと首を傾げた柔造を、いつもの調子で怒鳴りつける。急ぐ訳でもないが、彼女はイライラと地面を踏みならした。
「口紅!」
「は?」
「口紅、そろそろのうなるさかい、買いに行くだけや!」
その言葉に、柔造はぽかんと彼女を見返す。それから「口紅、口紅なあ」と、つぶやくように言った。
「なに?」
「お前、薬局で口紅買うてるんか?」
「せやけど?」
「色、見てもろたことは?」
「…はあ?」
「いやな、今時は薬局でも見てくれるやろけど、お前が行くのて外れのあそこやろ?化粧品とこ何人いるか知らんけど、ちゃんと肌の色からしてくれんのか?」
「何の…話や?」
目の前の男がすらすらとしゃべるそのことは、こちらもそれを理解していることを前提にしたようなしゃべり口で、一つ一つの言葉の区切りから、重要な部分が抜け落ちているように蝮には思えた。事実、「見てくれる」とか、「肌の色」とか、彼女にしてみれば、およそ口紅を買うのとは無縁と思える言葉が並んでいた。
「…あかん」
「え?」
「あかんよ蝮!」
彼は、一度離したはずの手を、また彼女の肩に掛けて揺さぶる。何のことを言われているのか分からない蝮の前で、柔造は「油断しとった」だの、「蝮は根が真面目やから」だのと一人で言っては息をつくことを繰り返していた。
その剣幕というか、行動というかに、思わず動きを止めてしまった蝮の顔を、彼はじっと見つめる。食い入るように見つめられて、彼女は顔を逸らそうにも逸らせなくなってしまった。
(なんね!この申が!う…で、も…こいつ、やっぱし…顔だけは、ええよ、な)
そんな彼女の心中を知ってか知らずか、彼の視線は蝮の顔を上下左右に見渡してから、唇辺りに向けられる。思案するように見つめること数秒。耐えかねた蝮はドンっと柔造の肩を押した。
「のわっ!」
「やめい、阿呆が!」
頬が上気するのを止められなかったのを感じて、少し俯くと、こんな男は無視してさっさと行こうと横を通り抜けようと足を進める。だが、ちょうど横をすり抜けようとした時に、ぐっと腕をつかまれた。
「やめい言うてるやろ!」
「一緒に行くで」
「は…?」
「せやから、一緒に口紅買いに行く言うてるんやろ」
彼は、にっこりと笑っていた。
「ちょお待て、志摩!ここ、薬局やない」
「当たり前やろ」
柔造が蝮の手を引いて連れてきたのは、彼女が目指していた薬局ではなくて、最近できたショッピングモールだった。されるがままについてきた自分も自分なのだが…と思いつつ、これから始まることを予測して、蝮は身を固くして立ち止まった。
「行かんからな」
「なんでや」
「だって…あれやろ?カウンターにお姉さんがおって、いろいろされるんやろ?」
「なんや、分かっとるやないか」
具体的に何をされるかは全く分からないのだが(分かっていたら多分、薬局に行こうとした時に彼が言ったことを理解できたのだと思う)、そういった化粧品のカウンターがあることは、彼女も知っていた。ただ、学生時代には敷居が高く、仕事を始めてからはそんな浮ついたこと…というのを言い訳にして、どうしても、誰かに化粧品を選んでもらうなんて、そんなこと自体が恥ずかしくて、行ったことのない場所だった。
「色選んでもらうだけや」
「せやけど…ちょっ」
な?と噛んで含めるように言って、彼はぐいぐいと手を引く。躓きそうになりながら、逆らいようもなくそれに従ったが、彼女の心中は、カウンターに連れて行かれるということ以上に波打っていた。
(なんで、あんたは…女しか行かんようなところのことを知ってんねんやろな)
あれよあれよと言う間に連れてこられた売り場は、思った以上に広いスペースで、薬局では雑多にまとめられているメーカーやブランドが、それぞれにカウンターと二人か三人の係を配置していて、蝮は先ほどの葛藤も忘れて、再び身を固くした。
「いつも薬局で買っとるのと違うとこがいいんやないか?あ、でもお前、肌薄いからなあ。口紅やいうても、あんまし刺激の少ないとこやないとあかんか」
柔造はというと、彼女のことなどお構いなしに、それでも繋いだ手は離さずに、うーんと首を傾げて、そのスペースを眺めていた。
「そうは言うても、化粧品のことは分からんな」
その台詞は、いっそ白々しくて、蝮はまた先ほどの波がぶり返すのを感じ、彼の顔を見上げる。
「分からんなんてこと、ないやろ」
来たことあるくせに、と言おうとして、彼女はそれを飲み込んだ。あると言われたり、誰と来たのか言われたりしたら、耐えられないような気がした。
「分からんよ」
彼は、そんな心中を見透かしたように笑って、結局、蝮もCMやら何やらで知っている、ごく普通のブランドのコーナーへと彼女の手を引いた。
「初めてですか?」
「あ…あの」
「そうなんすわ。口紅買う言うてるんですけどね、肌の色とかに合わせてもらえますか?」
「かしこまりました。それではちょっと失礼しますね」
「え?」
斜め後ろに立った柔造が、カウンターの女性にそう告げてしまって、蝮が何も言わないままに、彼女は椅子に座らされて、エプロンを掛けられる。何か含ませたコットンで軽く肌を撫でられる間中、蝮は恥ずかしさに目を閉じていたのだが、すぐに「あら!」と女性が声を上げる。
「いつも化粧品はどちらで買われます?」
「や…薬局で…」
薄っすらと目を開けて蝮が応えると、その女性はまた「あら」と困ったように言った。
「ちゃんと色味を見て買わないとダメですよ。こんなに素肌が白くていらっしゃるのに、ファンデーションの色があっていませんね。今から測定しますともっと詳しく分かりますから、今度買う時は参考になさってくださいね」
「はあ…」
「な。言うたやろ、ちゃんと色見なあかんて」
にこにこと言われて、返す言葉もなく彼女は頬を染める。カウンターの女性もにこにこと笑いながら「そうですよ」と応じて、何やら機械を顔に近づけた。
「失礼しますね」
ピタッと頬のあたりにそれを付けられて、蝮はまたきゅっと目を閉じたのだが、すぐにピピッと電子音がする。
「ああ、やっぱりかなり白いですね。口紅をお探しとのことでしたが、どうでしょう、うちの製品は薬局でも取り扱っているラインもありますので、全体のメイクもご提案させていただきたいのですが。お手持ちのものを使い切った時の参考にしていただきますと、いつも買われるお店でも揃えられるようにいたしますので」
微笑んでそう言われて、目を開けた先で蝮は思わずその女性に釘づけになった。それまでずっと緊張で目に入っていなかったが、その女性は、30代後半と思われるのだが、肌は綺麗だし、くっきりとした色の口紅も全く嫌味ではない。機械をしまう指先も、健康的で自然な色に染められていて、思わず息をのむ。メイクには隙がないのに、全体的に自然に仕上がっていて、とても似合っている。メイクについては雑誌で何度も読んだことがあるが、実例を目にすると、自分のやってきたものとこんなにも違うものか思ってしまう。それに、柔らかそうな手や肌は、化粧で隠すというよりも、化粧で引き立たせるという方が合っているようにも思えた。
「どうしました?」
「いっ、いえ!」
「いい機会やんか、蝮。お願いしますわ」
「それでは、とりあえず全部落としますね」
話はやはり、彼女を置いて進んでしまい、そのしなやかな指先がまた蝮の顔を撫でた。
メイクのポイントを、カウンターの女性はてきぱきと、だが分かりやすく教えてくれる。仕事柄、あまり濃い色より薄付きの方がいいという蝮の要望も取り入れて進むそれに、彼女は心底驚いていた。顔の造形が変わった訳ではない。だが、化粧はどれも綺麗に付いていて、鏡の中に映るのがまるで知らない人間のようだ。
「あとは口紅ですね。お仕事でお使いとのことでしたから…少々お待ちください。いくつか持ってきますので」
そう言って女性が売り場の方に行ったところで、蝮は我に帰ってパッと振り返る。
「志摩!こ…れ…」
見てほしいと思った。だが、その相手はそこにいない。あれと思って、ぐるりと辺りを見回すと、二つほど先の違うメーカーのスペースで、カウンターの女性と話しながら何かを受け取る柔造の姿が目に入った。
(なんや。やっぱし、来たことあるんやないか……それに)
「きっと喜びますよ!」
彼の声は聞こえないが、彼と話している女性の声は少し大きくて、耳に入る。
(喜ぶ…か。そら、化粧品なんもろたら、女やったら誰だって嬉しいわ)
「どうされました?」
ふうと一つ息をついた蝮に、戻ってきた口紅を何本か持ってきた係の女性が声を掛けた。
「何でも、ないですわ」
「そうですか?ああ、このあたりの色でいかがでしょう。あまり赤すぎないものを選びましたので…」
(なんやろなァ)
例えば、彼が今話しているカウンターの女性も、目の前の女性のように綺麗で、魅力的なのだろうか、と思う。
(あてより、綺麗な女の人は、あいつの周りにいくらでもおる)
唇が薄く色づく。仕事にもよさそうな色味のはずのそれは、鏡に映すと、どこか色あせて見えた。だが、蝮は、最初につけたその色を買うと言った。
「お、終わりましたか?」
そんな彼女の気も知らずに、サンプルをたくさん入れてくれるところに戻ってきた柔造は、相変わらずにこにこと笑っている。
「ええ。お待たせしました」
その手に、小さな袋があるのを見て、蝮はつい視線を逸らした。
「ありがとうございました。また、いつでもお寄りくださいね」
笑顔で言われて、蝮は立ち上がって口紅の入った袋を受け取る。振り返りはしなかった。
「どやった。ちょっとこっち向きよ蝮」
彼に顔が見えないように、蝮はすたすたと化粧品の売り場を横切る。
「蝮ー?蝮ちゃーん?」
(バカみたいや…少しは、いつもよりは、綺麗になった思たのに…見てほしいて、思た、のに…)
「なあ、どないしてん」
しびれを切らしたように、彼は肩をつかんだ。それを、蝮はパシッと払い落とす。
「うっさいわ」
「なっ!?」
「うっさいわ!どうせ、あて連れてきたんはついでなんやろ!」
「何言うてん、お前。どないしたんや」
一度振り払われた手を、もう一度肩に掛けて、柔造はぐっと力を込める。それに、蝮は振り返って、キッと彼を睨みあげた。
「どうせ!」
「綺麗やんか」
「え…」
「やっぱ連れてきて正解やったなあ。あ、今までがそうやなかったとか言いたいんとちゃうで。せやけど、やっぱり似合う色てあるやん。蝮は元が美人やから」
微笑んで言われて、蝮は言葉を失う。だが、すぐに沸々と怒りに似た感情が戻ってきた。
「言い慣れとるやないか、色男。そういうんを、散々言っとるんやろ。あんたが手に持ってるそれかて、女に渡すもんやろが」
吐き捨てるように言うが、視線の先で、彼は相変わらず微笑んでいた。
「ああ、これな。そうや。ずっと迷っててなあ。けど、ちょうどええから買ってもうた」
微笑む彼に、何か憎まれ口を叩こうとして、彼女はそれに失敗した。
(やっぱし……ついでか、あては)
微笑みを、見ていられなくて俯く。とても悔しいような、悲しいような、そんな気分だった。とにかく彼の顔だけは見たくなかった。
だが、俯いたままの頭の上にぽんっと何かが置かれる気配がして、蝮は目を見開く。
「やる」
「…は?」
顔を上げると、頭の上に上げたものを取り去って、彼はそれを蝮の眼前にひらつかせた。それは、間違いなく先ほどまで彼の手の中にあったもので、そうだとしたら、柔造が先ほど買ったものに違いなくて、蝮は混乱する。
「なん…で」
「んー?いらんか?」
相変わらず彼は微笑んでいる。だが、少しいたずらめいた笑みが含まれていることに、彼女は気がつかなかった。そんな蝮の前で、彼は袋のテープをはがし、中身を取り出す。
丁寧に箱を開けて、その細長く、小さな容器を彼女に差し出す。
「ほれ」
「ほれ…て…何、これ」
「なに、て、口紅やけど。どうせお前、またあんまり赤ないの買ったんやろ?そら、仕事に付けるんは仕方ないけど、非番の時くらい、ちょっと赤いの付け」
開けろと言われて、恐る恐るキャップを取ると、そこには、今まで想像もしたことがないような真紅の口紅が納まっていた。
それを見て、蝮は、その真っ赤な口紅と、彼を交互に見つめる。
「お前は、絶対そういう赤が似合うと思う。いやな、俺かて化粧品はさっぱりやから、分からんけど」
相変わらず笑顔でそう言った柔造に、彼女は頬が染まるのを感じた。それからもう一度、その口紅に視線を戻して、言う。
「ちょお、待っとき」
「蝮!?」
タッと踵を返して走り去った彼女に、柔造は声を掛けるが、彼女は買い物客たちの雑踏に紛れた。
「今どこや阿呆!勝手にどっか行きおって、歩いたことあらへん店なんやろ?迷ったらどないするつもりや!」
『待っときって言うたやろ、なんで同じ場所におらんのや!志摩の阿呆!』
「ほれ見ろ!迷いよった!最初に入った入り口や。分かるか?分からんかったら近くの売り場教え…」
場所を聞き出そうとして、柔造は携帯を取り落としそうになる。携帯に何事か叫びながらこちらに向かう彼女の、その言葉一つ一つを落とす、口許。
『おった!志摩の阿呆!全然違うところにおるやないか!』
彼女も彼に気がついたようだが、律義にまだ携帯に文句を吹き込んでいる。
「なあ」
『なんや!』
「似合うとるよ」
そうだけ言って、柔造は今度こそ携帯を離して電源を切った。こちらに向かってくるはずの彼女は、ぴたりと歩みを止めた。一歩を踏み出すと、たじろぐように彼女が半歩下がる。
その原因なんて、二人とも分かっている。
くちびるに紅をのせて、君は微笑む
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2012/1/27
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