ずっと、好きだった。

 それは、言葉にすればするほど薄っぺらい感情になってしまう気がして、金造は軽く笑って三味線の弦を緩めた。
 縁側に吹く風は、冷たさを増していた。
 てぃんと弦をはじく。どこかやわらかな音だった。

「金造、それくらいにしい。髪も乾かさんと何しとんの。風邪引くえ」
「へいへい。煩い姉様やな」
「金造!」

 がらりと障子が開く。そこにいたのは紛れもなく彼の義姉だった。


まさか素面じゃ言いにくい


「蝮、お前今週の土曜空いとる?」
「は?空いとるけど?」

 夫の問いに、蝮はこてんと首を傾げる。土曜―何かあっただろうか?

「じゃ、これ」
「なにこれ…?て、金造のライブかいな」

 柔造が差し出したのは義弟のライブのチケットで、蝮は呆れたように息をついて、バッグから財布を取り出す。

「いくら?」

 大方、チケットを売りさばかないと会場を使えないから、とかそんなものだろうと思って彼女は言った。結成当初はそういうことも往々にしてあったが、最近ではかなり客入りもいいらしいから、珍しいなと思いながら言ったら、柔造はちょっとだけ笑った。

「『これはそういうんとちゃうわ!』だそうで」
「はあ?」

 なるほど、義姉と同じ発想を、実の兄にもされたらしい。

「ご招待ってとこやな。ちなみについでやからって俺の分と二枚な」

 それに蝮は腑に落ちないような気分でやっぱり首を傾げる。

「そんなん、招待してくれるんやったら金造様が持ってきたらええやないの」

 だけれど笑いながら、からかうように言ったら、柔造はやわらかに笑う。
 その笑顔に、彼女はやっぱり首を傾げるのだ。

「せやんなあ」

 そう言って、夫はもう一度そのチケットを差し出す。差し出されたそれは、今度は裏側だった。

『二階席・招待客貸切』

「は?どういうこと?」

 ばっちり押された判に蝮は驚いて柔造を振り返る。

「いや、俺もよく分からんのやけど…。なんか、二階の席はお前の分と、俺の分の席で貸し切り、みたいな?」
「はあ?」

 柔造は適当に言葉を濁した。蝮はそれをねめつける。結婚から一年と少し。付き合いはほぼ人生すべてに渡る夫が何か隠しているのは明白だった。

「さっき、金造に中入るように言うたんやけど、なんも言うてへんかったわ」

 鎌をかけるように言ったが、夫は素知らぬ顔で言う。

「さあな。俺はこのチケット渡すように言われただけやから」
「それに土曜て、あの子、誕生日やないの」

 律義に覚えている彼女に、柔造は笑ってしまう。今度は、含みのある笑いでも何でもなく、心底笑ってしまう。

「柔造!」

 怒るよう言ったが、彼はまだ笑っていた。そうして、言う。

「ええやん、誕生日。プレゼント代わりと思えば安いもんやろ」
「プレゼント渡すのはこっちや」

 蝮がそう言うから、柔造はやっぱり笑ってしまう。やっぱり、彼女は分かっていないのだ、と思いながら―






「ほんまに…」

 ライブハウスの二階席で、蝮は半ば呆然とその席を眺める。
 ライブハウスの一階はフロアタイプになっていて、二階席には座席が用意されているのだが、二階席に入ったら、「蝮 ついでに柔兄」とだけ張り紙がしてあって、人はおらず、本当に二階席は貸し切りらしいのだ。
 一階のフロアにはたくさん人がいたから、二階といえどもまさか本当に貸し切りのはずない、と思って階段を上がったら、本当の本当に貸し切りだったので蝮は驚いてしまう。

「やるなあ」

 柔造が呟いたのも聞こえていないようで、ぼんやりしている彼女の肩を夫は叩いた。

「始まるから座れ。ほんまに貸し切りやんなあ」

 促されて座ったその席からは、ステージが何だかくっきり見えた。




「金造の声、好きなんよ」

 状況は腑に落ちないままだったかが、結局義弟はいつも通りオールバックでステージに立ち、叫ぶように歌っている。それで蝮は、まあいいか、というような気分になって、隣に座る夫に囁いた。別に、ステージに近い訳ではないし、ライブなのだし、それに二階席だ。大きな声を出したっていいのに、と柔造は思うが、蝮は金造のライブで大声を出したことがない。昔、『ノリ悪いんや!』と嫌味を言ったら、今の言葉と同じセリフが返ってきた。『金造の声、好きなんよ』と。だから自分の声ですら邪魔したくない、と。
 そんなこと言ったって、と柔造は思う。作り声じゃないか。普段の声とは全然違う。だが、彼女にとってそれは勘案される事項ではないらしかった。普段の声も、ライブの叫ぶような声も、彼の声は彼女の好きな音だった。
 それを知っているから、柔造は笑って言う。

「はあーっ、妬ける。夫の前で他の男が好きとかよう言わはるわ」
「阿呆」

 こつん、と額を小突いたら、柔造はやっぱりちょっと笑う。
 ライブは、終盤に差し掛かっていた。






 最後の曲まで終わって、ステージからメンバーがはけ、客もぞろぞろと出口に向かう。それで蝮も立ち上がろうとしたら、柔造からぐいっと手を引かれて、座席に戻された。

「何よ?楽屋行くだけや。金造に」
「まあええから。少し待っとれ」

 それで蝮は、ライブが始まる前から感じていた『腑に落ちない』感覚が再来するのを感じた。楽屋に行って、金造に会って、「貸し切りなんて阿呆な真似すな」と言って、誕生日のプレゼントを渡す。ライブの後はそんな計画だったのに、腑に落ちない感覚がじりじりと迫ってきた。腑に落ちない感覚は、焦燥のようでもあり、何か鼓動が早まる。

「ねえ、なに?あて、何かした?」

 それで困って夫を振り返ったら、柔造は、やわらかく微笑んだ。

「何も。そこにおるだけでええ」

 わずかに噛み合わない会話に、蝮が反駁しようとしたその時だった。一度灯りの落ちたステージが明るくなり、代わりに一階のフロアから灯りが消えた。二人の座る二階席には、相変わらず仄明るい照明が落ちていたから、このライブハウスの中で見えるのは、多分ステージから見る二階席と、二階席から見るステージだけなのだ、と蝮はぼんやり考えた。

「…!金造?」

 そんなことを考えていたら、そのステージの真ん中に、三味線を持った志摩金造がやってきた。それで蝮は思わず立ち上がる。
 その弟に、柔造は軽く手を振る。そうしたら彼は、二階席の二人が座る方を見上げるようにして、笑った。それから、マイクも付けずに、いつもの声で言う。

「聞いとけ、蛇女」

 義弟の声に射抜かれたように、蝮は立ったままで彼を凝視した。

 てぃん、と弦が鳴った。それは、今までのライブとは全く違う音だった。それから彼の、艶やかな声が落ちた。


『この酒を 止めちゃ嫌だよ 酔わせておくれ』


 都都逸だ、と蝮は思う。それは都都逸の小唄。


『まさか素面じゃ 言いにくい』


 訳が分からなくて、だけれど多分それは己に向けられた唄で、ステージの彼から目を離すことはできなくて、隣の夫はきっと笑っていて―

 都都逸はそこで終わりだった。それから、即興だろう三味線の音がして、そうして彼はもう一度言う。


『まさか素面じゃ 言いにくい』


 そこで一瞬唄が途切れる。てぃんと弦が鳴った。




『ずっとお前が好きだった』




 そう唄って、それから唄うたいは二階席を見上げる。その顔が、どうしようもなく情けなかったから、彼女は初めてそのライブハウスで大声を上げた。

「ド阿呆!あては今でもあんたが好きや!」

 意味が違う。『好き』の意味が。分かっている。だけれど、言わなければ、と蝮は思った。そうしたら、金造は一瞬驚いたような顔をして、それから少しだけ意地の悪い笑みを見せる。

「俺も」

 その感情が、親愛から恋慕に変わり、恋慕から親愛に変わっても、なお、彼女が好きだった。
 好きの温度はどんどん変わる。烈火のごとく恋い慕ったこともあった。だけれど今は。それでも今は。
 それでも今は、彼の人の隣にいて、己の姉となった彼女が何より愛しい。


 そんなこと、まさか素面じゃ言いにくい、なんて、思いながら―




=========
柔蝮金!兄弟サンドイッチ!三角地帯!金造くん誕生日おめでとう。

2012/11/17