明朗会計


 ぽたっと水が伝うのを感じて、俺は目を覚ます。覚ますと言っても、目は開かなかった。開いたら、そこにもう蝮がいないのではないか、とふと思ったからだった。
 ぽたりぽたりと、胸元に水が落ちる感覚がする。

「すまん……しま…」

 それから、掠れた声がした。間違いなく蝮の声だった。泣いているから掠れているのだろうか。それとも昨晩のせいだろうか。
 昨晩、と思って、自分の胸元に着物はなく、そこにぽたりぽたりと直接彼女の涙が落ちているのだと思い至った。早まったかな、と、思わないでもない。不浄王の一件の時はいいとして、今回は早まったかな、と、僅かばかり思う。彼女の心のうちは大体分かった。大体分かったから、早まったのか、それともそれで良かったのか、判断するのは野暮だった。
 だが、そんな思考より何よりも、蝮がまだそこにいる、という事実の方が、俺にとってはずっと大事だった。ああ、と思う。幸せだ、と。彼女に逃げ出されたら、それで終わりにしようと思っていたから。
 寝入った。そのために寝入った。うそやごまかしで彼女を捕える事が、とても浅ましく思えて、だから、うそやごまかしで布団に入ったくせに、事が過ぎたら、馬鹿みたいに深く寝入った。
 蝮が、脱いだ着物を着て、布団から出て、何食わぬ顔で余所にいる可能性が捨てきれなくて、もしそうなるのなら、それを受け容れるべきなのだと思ったから。それに十分な時間と感覚のために寝入った。捨てるなら、己の気付かぬうちに捨ててくれと思う気持ちがあった。分かっている。煩瑣な情など彼女はなかったことにしているのだと。
 俺が僧正血統の跡目で、彼女は僧正血統の裏切者。『利用価値』と床に入る前に彼女は間違いなく言った。『そういうことでええやろ』と。俺は、精々嫌味に聞こえるように『可愛くない女』と言った。まるで、置屋の若衆と遊女だ。手を出してはいけない男。誘いに乗ってはいけない女。茶屋で遊女とそれを取る客よりは近いけれど、遠い。そんな関係。それは恋仲になれなくとも互いに利用価値はある。訳知り顔の客なんぞより、相手のことを知っている。
 だけれど、そういう情を持ちこみながら、それすら勘定の道具でしかないと彼女が言うのなら、従おうと思った。彼女の心に従って、その関係をすべて清算しようと思った。それが欺瞞だとしても。

「すまん、すまん……」

 嗚咽に混じって小さな声がした。俺は目を開けようか開けまいかふと迷う。その間も、彼女が落とす滴はぽたりぽたりと落ちて、肌に吸い込まれることもなく胸元から胴を這って布団に落ちた。
 目を開けたら、蝮は逃げるだろうか。俺が寝ているから言える言葉なのだろうと思った。そう思ったら、どこか哀しかった。哀しかったから、俺はゆっくりと目を開ける。だけれど、涙で滲んだ彼女の隻眼は、俺の目が開いたことを捉えそこねたようだった。


 奇麗な、瞳。


 そう思う。
 俯けられた視線に朝日が射し込んで、その色をより一層美しく照らした。

 この光をどうにかして守りたかった。守るためなら、欺瞞でも、嘘でも、誤魔化しでも、何でもよかった。だけれど、蝮が何でも良くないなら、何でも良くはないのだろうという思いもあった。可笑しなほど、蝮のために出来ることをやろうと思っていた。

 彼女が望むなら、利用価値を見出した跡目の振りをしよう。
 彼女が望むなら、利用価値を失ったと彼女を捨てよう。
 彼女が望むなら、全てなかったことにしよう。

 清算は簡単な気もした。俺がなかったことにすればいい。彼女は、多分あっさりと、昨晩のことなどなかったことに出来るだろうから。強い女だ。だけれど、脆い女。そんな女を愛している自分は、じゃあ何なのだ、と思いながら、水をいっぱいに湛えて、その端から俺の胸元にその滴を落とす彼女の隻眼を、真っ直ぐに見つめた。

「なんで謝る」

 ゆっくり言ったら、蝮は驚いたようにその隻眼を見開いた。

「起きて……」

 起きていたのか、という問には、肯定も否定もしかねた。起きていた、と応えればいいのか、それとも、今の今まで寝ていたと言えばいいのか。彼女がどちらを望んでいるのか、今ひとつ分からなかった。

「お前は、謝るようなこと何もしてん」

 俺に触れるか触れないか、敷布団のぎりぎりのところについていた彼女の手を取って起き上がる。彼女の流した滴が、腹を這って腰に落ちた。白い手。白い手を伝って、俺は刺青の這う彼女の薄い体を抱いた。

「し…ま…」

 嗚咽の狭間で、彼女は俺の名を呼んだ。今度は滴が肩口に落ちた。生憎と、吸い込むものはやはりなくて、それは背中の方に落ちていった。彼女の涙を、先程からずっと受け止め切れていないような気がして少しだけ悔しかった。

「ごめん…ごめん…」

 彼女は何度も繰り返した。抱きしめる俺に抵抗しないことが、嬉しかった。

「なんで謝る」

 あやすように背中を撫でて言ったら、彼女の肩が震えた。触れた肌が温かいことが、俺の思考回路を鮮明にする。生きているのだ、という確信が、思考回路を鮮明にする。俺は間違いなく、ここにいて、腕のうちで呼吸する彼女を愛しているのだ、と。

「愛せなくて…こんなに好きなのに、愛せなくて…愛してるのに、愛せなくて」

 何もかも忘れたように、泣きながら蝮は言った。……十分だった。彼女の口からその言葉を聴けただけで、十分だった。

「有難う」

 ゆっくり撫でた背中に、彼女の拍動が伝わる。
 愛せないと言うのなら。
 彼女が、その責のために俺を愛せないと言うのなら。
 それでも好きだと、愛していると言ってくれるのなら。

「俺はどこまでもお前を愛する」

 俺が愛し続ければ良いだけの話だと、明朗な思考回路が言った。勘定も、会計も、全部止めだと、言った。




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損得明朗、会計勘定。

2013/08/29