目が眩む。
 太陽を見つめた時のように。
 目が暗む。

 何も見えなくなる。


目の眩むような


 コーヒーショップのコーヒーは、思うよりずっと薄かった。薄くて、そうして、苦くも酸っぱくもない。
 代わりに、そこに彼女を見咎める者はない。

「幸せ」

 口に出しても、それを聞く者もない。

 だから彼女は考える。

 幸せ。

 幸せ?

「しあわせ?」

 それから蝮は、幸せだった時のことを考える。
 それは例えば、コーヒーなんて飲めなかった頃のこと。

 彼女の記憶の中で、どこまでが幸せな日々だっただろうか。家族がいて、兄がいて、妹がいて、弟がいて、子供たちがいて。どんなことも出来て、どんなことも出来なかった日々。多分、その日々を彼女は幸せと呼んでいたのだ。

「なんも出来んかったら良かったのに」

 薄らと彼女の口の端が上がる。そうだ。幸せを捨てようと思ったのはあの時だったと思った。
 本当に、何でもない日だったのだ。いや、今となっては何でもないかは分からない。静かに入り込んだ毒はもう彼女から幸せを奪っていたかもしれない。だけれど、彼女にとって幸せを決定的に「捨てる」ことを決めさせたのは間違いなくその時だった。
 柔造も蝮も、高校生活というのを楽しいものだとか、普通の未来のためだとか思ったことはない。もちろんそういう楽しいこともあった。だけれど根本的に彼らにとってその高校生活は聖十字騎士團へ所属するための準備期間でしかなく、そもそも祓魔を生業にし、そのために瓦解しかけた明陀に生まれた彼らにとってそれは必定だった。
 その明陀という組織への懐疑を募らせていたその日に、それは起こった。
 夕暮れ、二人きり。高校に入ってからこうやって二人きりになることはなかった気がする。いつも間に誰かがいた。その誰かは「明陀」なんていう組織のことは知らなくて、よしんば知っていても祓魔だとか、高校生活だとか、そういうものにも、将来にも、多分明陀なんていう組織は無縁の生徒だった。だから、その毒のような懐疑を言えるとしたらその時しかなかった。
 負ぶわれたその視界は高い。柔造の背はいつからこんなに高くなったんだろうと思う。昔は自分と同じくらいだと思っていたのに、と彼女はぼんやり思った。その視界で、だけれど感じたのは苛立ちにすり替えた絶望だった。

『考えすぎや』

 その言葉に、絶望した。苛立った。多分、その苛立ちは焦燥だったような気がする。
 彼は、彼女の疑念を達磨を信じればいいだけのことだと断じた。
 彼の背中は、達磨の背中とは違っていた。その直前に、自分を助けてくれて、そのうえ歩けない彼女を負ぶって歩く彼は、まるで救世主みたいだった。お日様のような達磨の背中とは違ったけれど、ここなら安全なのではないかと思った。
 絶対的な訳ではないけれど、少なくともその時まで、彼女は彼を『信じて』いた。
 自分の疑念に、少しでも考えを巡らせてくれると信じていた。

(じゃああては誰を信じればいいの)

 その、自分よりも大きくなってしまった背中を、言葉もなく彼女は糾弾した。
 焼け付くような焦燥が、苛立ちが全身を駆け抜ける。
 柔造が信じるというその人を、己は信じられないのだ、というのは驚くほどの恐怖と、焦りと、苛立ちを彼女に与えた。それらが一緒に立ち現れることのできる感情なのだ、とその日まで知らなかったように。

「なんて狭い世界」

 コーヒーに映る自分の顔を見つめて、思い出したそのことに蝮は静かに呟いた。

「柔造が信じられないなら、あては」

 彼が肯定してくれないなら、世界にはもう味方がいなかった。
 なんて狭い世界、と彼女はもう一度呟いた。

「それでも、あてにとってはそれが世界や」

 それが言い訳だと知っている。知っているけれど。
 どんなに言い訳しても、それが、自分の救いたい世界なのだと思った。
 裏切りの刻限はすぐそこまで迫っていた。









 おぶされ、と言われたことは同じだったのに、その時に感じたのは全然違うことだった。
 もう自分自身に絶望するだけの気力も残っていなかったのかもしれない。不浄王を復活させたなんてそんなこと、信じたくなかった。だけれど、その時にもう蝮は自分自身ではなく達磨への信用を取り戻していた。
 焼けるように熱い右目に比して、彼の背中はじんわりとあたたかかった。
 山を駆け下りるその幼馴染の背中で思ったことは後悔、懺悔、そして絶望だった。
 だけれど、そのあたたかさに、彼女は安堵していた。

「大丈夫や」

 彼に負ぶわれて山を駆け下りる中で、話せることを話したら、荒い息の中で彼は言った。

「信じとれ」

 誰を、と今度の彼は言わなかった。
 もしかしたら、と絶望の中で蝮は思う。

 もしかしたら、彼を信じてもいいのだろうか。
 彼女が本当に信じたかったのは、多分志摩柔造という幼馴染だった。


 話を聞いてほしかった。
 信じてほしかった。
 信じたかった。


 兄を失って、それから。
 多分、ずっとたくさんのものを共有してきて、この世で自分の辛苦を理解できるのは互いだけだと、二人は思っていた。
 それは嘘ではないのに、いつから掛け違ってしまったのだろうと思う。
 その背中はあたたかかった。

(眠ってしまいそう)

 こんなにもたくさんの脅威が迫っているのに、と彼女は心の中で思った。
 こんなにも不安なことばかりなのに、不思議なほど、幸せだった。









「今更、って感じもしないでもないんやけど」

 虎屋の一室で文机に頬杖をついた柔造は、小さな箱をポーンと放り上げてそれから綺麗にキャッチする。
 箱の中身は、まだ魔障が完全には治まらずに横になっている蝮の指に綺麗に収まっている。

「お前、俺のこと昔っから大好きやったやろ?」
「阿呆なこと言いなや」
「俺は大好きやったんやけどね」

 その歯の浮くような科白に、隻眼の彼女は顔を真っ赤にした。起き上がって罵倒してやろうとしたら、その肩を軽く押される。

「横になっとれ」
「申!」
「はいはい」

 横にならせてから、彼はめくれてしまった布団を戻して、それから、一つきりになってしまった彼女の目を、大きな手で覆った。

「なに…?」

 暗くなった視界に、蝮が不安げな声を上げる。不安げなそれは、だけれど安全の中にある不安だった。
 あの裏切りが決してから、柔造は「結婚しよう」と言った。何度も謝る蝮に、彼が言ったのは、そんなことだった。もう一度家族になれるのだろうかと、もう一度戻ってこられるのだろうかと、泣きながら思った。


 彼が肯定してくれないなら、世界にはもう味方がいなかった。
 なんて狭い世界、と彼女は思った。


 彼が肯定してくれて、彼がいてくれれば、世界はそれで十分だった。

「あの日」
「?」
「俺は多分、一番酷いやり方でお前を裏切った」
「志摩…?」
「そうや。俺もずっと疑問に思ってた。疑念を抱いてた。やけど、それをお前の前では言っちゃならんと思ってた。言ってもうたら、お前がどこか遠くに行ってまうのをどこかで知ってた。やけど、肯定せんでもお前はどこぞに行ってまう気もしてた」

 ああ、と思う。あの日の夕暮のことを言っているのだ、と。
 二人が言葉を、心を、掛け違えてしまったのはあの日だった。
 あの日だったと、柔造も思ってくれている。
 それだけで、今は十分だった。

「ごめんな、蝮」

 彼の手が作り出す真っ暗な視界の中で、彼女は一つきりの瞳からはらはらと涙を流した。

「すまん、柔造、すまん」
「お前が謝ることやない」

 ごめんな、と彼はもう一度言った。
 二人の世界には、二人しかいなかった。
 失ったものも、得たものも、いつも一致していた二人が掛け違えてしまった感情は、綺麗に戻ってきた。失ったものが何もないなんて言えやしないのだけれど。


 目が眩む。
 太陽を見つめた時のように。
 目が暗む。


 彼の作り出すその太陽のような闇を振り払うように、彼女はその腕に触れた。
 ゆるりと彼の手が目許から離れる。そこにいたのは涙を流す蝮と、微笑む柔造だった。

「見えるんやね」

 蝮はぽつりと言った。
 目が眩んでも、まだそこに幼馴染を映すことが出来るその幸福に、彼女は静かに呟いた。
 絶望の果てで、彼女の中に、或いは彼の中に落ちたのは、確かな幸福だった。




2015/05/21