「そうそう、上手や」

 盾は、隣に立って煮しめを作っている蝮に言ってから、重箱に何か詰めていたのだろう、菜箸を持ったまま可笑しげに笑いながら相変わらず義妹となった蝮に何事か話しかけている。くすくすと笑いながら応じる蝮の声もした。

「姉様、これどないします」
「あー、おかんが南天買うてきてから詰めよか」

 男子厨房に入らず、の一言というか、単に邪魔だと言われて仕方なしにそれを台所と一間続きの居間から眺めていた柔造にも声がかかる。

「柔兄休まんでくれる!?まだ膳も法具も運び終わってへんねん!」
「悪い悪い」

 金造に叫ばれて、柔造は作務衣のままふらりと立ち上がった。
 十二月三十一日、年の瀬である。


らい



 蝮たちが御節を作り終えた夕刻から、年が改まるまで、明陀宗では実に十数年ぶりに座主の達磨を中心に祈祷が行われた。祓魔の関わらぬ祈祷というならば、十数年ぶりではきかないかもしれない。
 陀羅尼の響く堂の片隅で、蝮はそれを見守っていた。夫となった柔造が、義弟となった金造が、そうして二人の妹が唱える陀羅尼を、聴く側になってしまった自分を噛みしめても、だけれど今は寂寞こそあれ、悔恨こそあれ、悲しくはない。隣に座る盾が静かに彼女の頭を撫でた。

「今年もきっとええ年になるねえ」

 ‘今年も’いい年になる、と言ってくれる新しい家族に、彼女は小さく微笑んだ。

「ええ」





「やー、寝ずの祈祷疲れた疲れた!」
「めっちゃ寒いねん!何とかならんのか!」

 口々に言いながら家に戻って来た柔造と金造の頭を、八百造が一発ずつはたく。

「とりあえずおかんたちに年始の挨拶せんか!」

 祈祷から戻れば、すっかり初日の出も過ぎた新年、一月一日である。一足先に戻って御節やらなにやらの準備をしていた女衆が笑ってそれを迎えれば、すぐに酒席が始められそうだった。

「あけおめー」
「金造、軽い!」
「蝮は新年から相変わらず蛇女やな!!」
「訳分からんわ!」
「おめでとうやけど、剛造は?」
「友達と新年会やて」

 柔造の問いに答えて膳の準備に戻った蝮は、すっかり志摩家の嫁が板についている。夏に引き起こしてしまった全てを、柔造の思いを受け止めて、その片方だけになってしまった瞳が見詰めてきた冬までの日々は、だけれどそれまでの辛く暗い日々に比して、柔らかく彼女を受け容れてくれた。

「はよう座りなされ。今年の御節は蝮ちゃんも作ってくれたんやから」
「どれ!?盾姉どれ!?どれ蝮が作ったん!?俺それ以外食べん!」

 本気で叫んだ柔造に、もう一発父の鉄拳が飛んだ。それでやっと大人しく座った柔造で今日いる志摩の家の者は全員席に着いた。杯を上げて八百造が新年のあいさつを言えば、それからささやかな新年の酒宴が始まった。

「蝮、どれ」
「あてが作ったのは煮しめとか、簡単なやつ」

 隣に座る新妻にデレデレと寄りかかりながらどれを作ったのか催促する柔造と、それにまんざらでもなさそうに応じる新妻の蝮に、向かいの席の金造が顔をしかめる。

「新年一発目のいちゃつきいただきました、このリア充ども爆ぜろ!」
「めっちゃ美味いやん!さすが蝮!さすが俺の嫁!」
「姉様が作ったこれも、お母様が作ったこれも美味しいえ」
「あー、全然聞いてへんわ、マジこいつら爆破したいわ」

 煮しめ美味いけども、とぼそりと付け足した金造に笑いかけた兄の新妻に彼はばつが悪そうに酒杯をなめた。

「そういやあれ、挨拶回り?俺もすんの?」

 酒を飲み干してから金造が思い出したように八百造に問う。
 新年の祈祷をしてから檀信徒に挨拶に行くという話が出ていたのを思い出したのだった。
 明陀から檀信徒が離れて久しいが、全くいないという訳ではない。さらに言えば、夏の不浄王の一件は、檀信徒を戻す一つのきっかけになった。

「ああ、お前は俺と出張所で待機。その髪で回られても敵わんし、そうそうあっちも手薄にできんでな。イルミナティの件がある」
「ほーい。柔兄回んのか?」
「俺は明日から蟒様と。そういう坊主らしい作法知らんねん」

 金造に応じた柔造に、八百造は思わずため息をつく。よくよく考えたら物心ついたころから祓魔ばかりで、坊主らしい仕事をさせたことがなかった。不浄王が消えた今、ただの坊主にだってなれるだろうと思ったら、それは複雑な溜息だった。
 今もまだ、悪魔の脅威が去った訳ではない。祓魔師としての仕事がなくなった訳でもない。いや、ルシフェルの宣戦布告でその脅威は増していると言えるだろう。

(こんな、仮初やのうて)

 ふと彼の中に、自らの妻を、家族を思うそれが去来する。

(いつか平凡な―――)

 こんな、仮初の平穏ではなくて、いつか平凡な家庭があって、何も憂えることなくただ経をあげて、ただの平凡な坊主になれたら―――

「そんな日が、来るとええな」
「どうしはりました」
「なんでもあらへんよ。そうや、明日蟒と柔造回るさかい、蝮ちゃん宝生の家に行っとったらええ。柔造、回り終わったら宝生の家に挨拶行ってこい」
「よっしゃ!いっぺんやってみたかった!嫁が帰省中に嫁の実家訪問!」
「柔兄、宝生の家とかいつも行っとるやん…」

 いつにも増して残念な柔造に、金造は諦めたように刺身に箸をつける。それを見て、八百造は静かに杯を傾けた。





「戻ったえ」
「お邪魔しまーす」

 いつも通りのきっちりした蟒の帰宅の挨拶に比べ、いつにも増して軽すぎる義兄の挨拶が玄関先で響いて、錦と青はバタバタと玄関に走り寄る。

「おー、錦も青も今年も相変わらず別嬪やなー!蝮には敵わんけども!!」
「お申、べろんべろんやないか!」
「ていうか昨日の祈祷で会ったやろが!」

 口々に言って、軽すぎる、基、完全に酔いの回りきっている義兄である柔造を二人はべしべしと叩く。

「酔っぱらい!」
「姉様ー!お申があー!」

 べしべしと叩かれてもへらへら笑っている柔造は相当重症だ。騒ぎが大きくなってきたところで、奥の台所の方からパタパタとスリッパを鳴らして一足先に帰省していた蝮が出てきた。

「父様、お帰りなさいませ。どないしたの、二人とも。って、柔造倒れそうやないの!」

 へらへら笑いながらぽかすか叩く義妹二人を抱えるというか、なだれ掛かるようになっている柔造を二人からはがして、蟒が申し訳なさそうに言った。

「新年やさかい、挨拶回りに酒は付き物でな。私は慣れてるさかいええけれども、柔造さん、緊張していつもより回りが早くなってしもうたみたいや。蝮、客間に布団敷いて柔造さん少し寝かしてやりなさい」
「分かりました。柔造、歩けるか?」
「だいじょーぶーやー」

 全く大丈夫と思えない言葉だったが、草履を脱いでふらふらと勝手知ったる妻の実家に上がる柔造を引っ張るようにして、蝮は客間まで彼の隣を歩いた。





「んあ?」
「目ぇ覚めたか?」
「おー、蟒様と宝生の家に来たあたりから記憶ないねんけど…」

 ぱちりと目を開ければ、見慣れぬ天井。横を向けば見慣れた妻の顔、であったから、柔造はそこが宝生の家の一室なのだと覚った。酔いはかなり醒めているようだ。

「相当酔っぱらってたみたいやな。白湯と番茶どっちがええ?」
「んー、それより腹減った」
「ほんまに、あんたは…」

 とりあえず水分補給させようと言った彼女に対して、むくっと起き上がった彼は斜め上の回答だ。志摩家の息子たちはいつもそうだと昔から知っている蝮だったが、さすがに呆れるというものだ。呆れながらもこぽこぽと枕もとの電気ポットから彼女は大きめの湯飲みに湯を注ぐ。

「とりあえず白湯!頭痛いとかなら宿酔の薬あるけど飲むか?」
「悪い。頭痛とかは大丈夫や」
「まあ、父様もお酒ばっかしやった言うし、何かよそってくるわ。それヤケドせんように飲みよ」

 湯飲みを渡して立ち上がると、彼女は客間の襖を抜けて台所の方にパタパタと歩いていく。
 時計を見上げれば、もう夜の8時を回っている。挨拶回りが終わったのがもう5時過ぎだったが、それにしてもずいぶん寝ていたらしかった。蟒も相当飲んだのだ。明日は朝から出張所に詰めると言っていたから、多分夕食を済ませてもう休んでいるだろう。一応昨日今日と新年の挨拶をしたが、妻の実家への新年の挨拶という感じではなかったのが悔やまれた。せめて錦と青にはあとできちんと挨拶して、持参したお年玉を渡さねば、などと思っていたところで、お盆に椀をのせた蝮が客間に戻って来た。

「あんた、今日はもうこっち泊まっていき。志摩の家にはさっき電話したさかい。帰りの途中で転んだりしたら洒落にならんわ」
「悪いな。じゃあ遠慮なく泊まってくわ。あとで錦と青にお年玉あげんとなあ」
「あんまり子ども扱いするとあの子ら怒るえ」

 くすくす笑いながら蝮は引き寄せた文机に温かそうな椀を置く。

「お、雑煮か。いただきます」

 白味噌に丸餅の雑煮は湯気を上げていて、一日酒を入れ続けた胃にはひどく優しそうだった。
 それに一口箸を付けて、柔造は思わず笑ってしまう。

「これ、蝮が作ったやろ」
「え?うん」
「蝮の味って感じするわ」

 どういう意味か分かりかねて首を傾げた蝮に、もう一口、二口とその雑煮を食べてから、柔造はやっぱりやわらかに笑って言った。

「志摩のうちの味でもないし、宝生のうちの味でもないって言うかなあ。どっちの味も混ぜて、蝮の味って感じするこの味、俺めっちゃ好みやねん」
「……ほんまに恥ずかしい男」

 臆面もなくそんなことを言ってしまえる自分の夫に、蝮は思わずぷいとそっぽを向く。
 それが可笑しくて、柔造は余計に幸せな気持ちになった。

「来年は―――」

 柔造から視線を外したまま、蝮はぼんやりと宙を見上げて呟いた。

「うん?」

 訊き返した彼を彼女はゆっくり振り返る。

「来年は、廉造にも食べさせたいなあ」
「……そや、なあ」
「あの子が、もう危ない思いせんでようなって、竜士さまと子猫も一緒に、昔みたいに一緒に新しい年迎えて」
「うん」
「だあれも、傷つかへんように」

 今は遠くにいる、明陀のために全てを捧げさせてしまった大事な弟を慈しむように、目を伏せた彼女を柔造は抱き寄せた。

「大丈夫や」

 そんな日が、いつか必ず来るように。


 祈るように重なった二人の姿を見る者はない。


 誰かを連れて行ってしまう鬼を、どこか遠くに追い遣るように。
 その春を、待ちわびるように―――




2015/01/14