「蝮、猫耳や!」

 訳のわからないことをほざく(言うという表現は不適切だと判断した)義弟の金色の脳天に、蝮はとりあえずキレイな手刀を決めた。


Panic!


「ったあ!何すんのや!」
「煩い申やこと。とりあえず手に持ったそのカチューシャはなんや」

 隠そうともせずに金造の手に握りしめらた、ふわふわの猫耳付きカチューシャを、蝮は侮蔑を込めた視線で見遣る。だが、金造がその程度の視線で怯むはずもなかった。

「しっぽもあんで!」

 笑顔で言われたので、蝮はとりあえずもう一発手刀を喰らわせた。


***


「事情くらいなら聞いてやらんこともない」

 結局、膝詰めで説教される形となり、カチューシャと安全ピンで留めるらしい尻尾は蝮によって没収された。蝮にコスプレの趣味はない。ついでに言うと、義弟がすこぶる阿呆なのは知っていたが、理由もない行動を取ることがないのも知っている(その理由がどんなに阿呆なことだとしても)。だから、蝮は事情、と言った。例えば、何か催し物があるから手伝ってほしいとか、そういう些細なことかもしれない、と思ったからだ。
 不浄王の一件以来、蝮は晴れて柔造と結婚し、志摩家の嫁となった。そして、不浄王の一件以来、失われた檀家や、周りの寺、地域との交流は徐々に取り戻されており、だから、地域の催事でそういった企画でもあるのだろうか、と思ったのだった。
 というようなことを言ってみたら、「アホちゃうか」と言われた。阿呆にアホと言われた。腹立たしいことこの上ない。

「そない高校生の欲望丸出しみたいな企画、誰がするかい」
「お の れ は !」

 じゃあ、お前の言うその‘高校生の欲望丸出しみたいな’小道具はなんだ!と蝮は叫び出したかった。

「そやのうて、柔兄」
「は…?」

 突然出てきた夫の名に、蝮は動きを止める。そんな夫と金造の非番はずれていて、金造は今日明日が非番、柔造は明日が非番だったから、今日はこの家に金造しかいない。

「最近忙しやん?」
「まあ、な」

 ここ一月ほど、柔造が忙しいのは蝮も承知済みだ。飲み会でも何でもなく、残業で午前様、なんて日もある。出張所はいつだって忙しかったが、最近は事務方の処理がかさんでいるらしく、どの部署も忙しいらしい。決算、ではないが、月末はどこもそんな感じだった。加えて、先週祓魔の仕事で遠征していた柔造は、その間も容赦なく溜まった書類に忙殺されていた。

『今日で……マジラスト、や…』

 死にそうな声で、今朝の出勤前に玄関先で蝮を抱きしめたのは誰あろう柔造だった。『活力としての蝮分の補給』などというふざけた名目のハグも、ここまで来ると信じがたいかが信憑性を帯びてきて、蝮も渡すべき弁当を片手にされるがままになっていた。
 溜まっていた残務処理も、本当の本当に、やっとこさ今日で終わりそうらしい。明日の非番はやっとゆっくりできる1ヶ月ぶりの休み。

『気張りや』

 と、愛妻弁当を持たせて送り出したのが朝のことだった。

 といったことを思い出していたら、神妙な面持ちの義弟が目の前にいた。

「忙しやんか、柔兄」
「……せやね」
「そこで、その疲れを吹き飛ばすにゃんにゃん蝮にゃんが……ったあ!」

 言い掛けた言葉を継がせず、もう一発手刀を喰らわせる。何を言っているのだ此奴は…と思った。口にしないだけ自分は優しいとも思った。

「蝮は分かっとらんのや!その耳としっぽを付けて、新妻蝮にゃんが『お帰りにゃん』って言えばどれだけ柔兄が救われるか!」
「あんたさっき自分で‘高校生の欲望丸出し’言うたやろ!」
「男なんぞそんなもんや」
「あんたは自分の兄様を何だと思っとんのや!」
「え、高校生並みの申」

 お前もな!という声を呑み込んで、蝮はわなわなと震える。そうしたら、金造は首を傾げて言った。

「そういうもんやと思うけどなあ」
「あんたの基準は高校で止まっとるんか」
「いや、柔兄はそういう男や」

 ほぼ押し問答のそれに、蝮は大きく息をつく。だが、けろっとした顔の義弟は、「ま、あとは蝮次第や」などとふざけたことを言って、ひらひらと部屋から出ていった。

「あ、ちょ、あんた!これ!」

 残されたのはふわふわの猫耳カチューシャとふわふわの猫しっぽ。まとめて可燃物の袋に叩きこんでやろう、と思ってから、蝮は少しだけ、本当に少しだけ『救われる』とまで義弟に言わしめたこの猫耳猫しっぽについて、考えてみた。


***


「ただいま」

 残務処理は今日で終わり、と言っていたが、本当に今日で終わりだったのか疑問の残る時間に、柔造は帰宅した。とは言え終わったことに違いはない。多少昨日から今日にずれ込んだとしても、今日というか明日というかは晴れての休みである。

「あ…れ…?」

 だが、どんなに遅くとも、遅すぎて夕飯は出張所でコンビニ弁当でも、いつもなら蝮が出迎えてくれるのに、今晩に限ってそれがない。訝る、というよりは、残念すぎて脱力して、柔造はとりあえず玄関に内からカギを掛け、電気を点ける。この分だと全員寝ているのだろうと思われた。そのことに彼はさらに脱力する。明日は休みだ。そうだとも、1ヶ月ぶりにもぎ取った休み。だけれど、新妻にすげなくされてはそれも心の裡でくすぶるだけだった。

「蝮の阿呆…」

 呟くように言いながら、でもこんな時間まで起きていろ、と言う方も理不尽だと分かっているから、柔造はため息をついて部屋に戻る。

「ん?」

 ……戻ろうとしたら、部屋から灯りが漏れていた。深夜。まだ電気が点いているということは、点けっぱなしで寝てしまったのか。それとも点けておかねば帰ってきた己の足許が覚束なくなる故の配慮か、などと思いながら、部屋の扉を開けたその時だった。




「ま…ま…まむし…そ、れ…!?」
「み、みみみ、見るな!去ねっ!」

 わなわなと震えるのは、理由は違えど二人とも一緒である。
 当然だろう。何せ蝮は、パジャマに、昼過ぎに阿呆の弟から渡された猫耳としっぽを付けて、鏡台の前にいたのだから―――


***


 咄嗟にカチューシャを取ろうとした手は、すごい速度で距離を詰めた柔造によってパシッと掴まれた。しっぽの方は安全ピンで留めているので外しにくいのが難点だった。
 そんなふうに、蝮が混乱の極みにいる中、こちらも混乱か何か知らないが、柔造は「ここが楽園か」とか「エデンの果て」とか意味不明な(ついでに言うと異教の地についての)言葉をいくつも呟いていた。
 蝮は己の失策に心中舌打ちした。これは、ちょっとした興味、というか、出来心、というか、それにも満たない感覚だったのだ。自分が、こんな子供じみた猫の耳としっぽを着けたくらいで、連勤深夜帰り上等の夫が救われるなんて、思えなかったから。だから、試しに着けてみて、ちょっと姿見を見てみたのが先程のこと。柔造の帰りが遅いので、玄関の電気は消していた。出張所の彼から一本メールが来れば、電気を点けに行き、そこで出迎えるのが常だったが、姿見の前で「ありえへん」と絶望的な気持ち(主に猫耳としっぽを着けた自分に対して可愛さを見出せなかったための絶望だ)になっていたため、彼女は着信に気がつかなかった。
 そうして、帰ってきた夫と鉢合わせて今に至る。

「な、なあ?可愛くあらへんやろ?放してや」

 外すから、と、夫のあまりの剣幕に引きつった顔で蝮が言ったが、拘束する手は全く緩まない。

「そんなことあらへん。可愛ええ。むっちゃ可愛ええ。今ならここに楽園増設できるレベルで可愛ええ」

 楽園の増設という意味不明な言葉と、真剣な眼差しに、蝮は出来るなら逃げ出したかった。良い予感が唯の一つもしない。

「にゃんって言ってや」
「断る!」
「即答キタコレ!」

 渾身の力で彼の手を振り払い、大声で言ったら、柔造は笑った。そりゃあもう、びっくりするほど爽やかな笑顔で。

「じゃあ、言わせるわ」
「……は…?」

 その笑顔に、蝮の顔からサアッと血の気が引く。猫耳としっぽが彼女に連動していたら、警戒のために毛を逆撫でているところだろう。警戒、というか、あまりの恐怖に。現に、作り物の耳としっぽ以外の毛は総毛立っている。自分の夫が怖い、と、蝮はその瞬間だけ自分の心に正直に、正直に生きた。

「いやあ、明日…や、もう今日か、休みでほんまうれしいわ」

 死刑宣告の後、押し倒された布団と身体の間に、もふっとしたしっぽを感じ取って、もうどうにでもなれ、と蝮は思った。


***


「金造!好きなもん奢ってやるえ!」

 朝、というか昼前。起きてきた兄にすこぶる爽やかな笑顔で言われて、金造は引いた。蝮にあれを渡した手前あれだが、ここまで喜ぶと思わなかったからだ。

「……とりあえず、蝮に黙って撮った写メ全部削除したらそれでええわ」
「……ナンノコトデスカ」

 志摩家の若夫婦の日常は、今日も平和である。




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久々にギャグというかそういう柔蝮を書いて、非常に楽しかったです。

2013/9/7