細く開けた雨戸の向こう側の濡れ縁に、彼女はいた。
Rain drop
雨は静かに降っていた。屋根から少しはずれた彼女の足先を濡らす、静かな滴を、俺は何となく呆然とした気持で眺めていた。
雨の気配の向こうに、彼女が行ってしまうのではないか―なんて思った。ひどく不毛だった。
「蝮」
小さく名前を読んで、雨戸を大きく開ける。振り返った隻眼の彼女に、俺は少しだけ笑って見せた。
「風邪引くやろ」
「大丈夫や」 風邪を引く、と言って手を伸ばしたら、彼女も少しだけ笑って大丈夫だ、と言った。その手を拒絶されたような気がして、俺は少しだけ降り頻る雨を憎んだ。
「雨」
彼女はそう言って、俺の手を拒んだ代わりに、手で自分の隣を示した。座れ、ということだろう。俺が座ると、蝮は閉まったままの雨戸に寄り掛かる。そうして、億劫そうに外に投げ出した足を引っこめようとするから、俺はちょっとだけ焦って懐の手ぬぐいを取り出す。
「濡れるやろ」
「もう濡れとるもの」
そう言った彼女の白い足を取る。ひんやりと濡れた足の向こうには、確かに熱があった。手ぬぐいでその足を拭いたら、蝮はくすぐったそうに肩を揺らす。
「自分でするわ」
「そんなん言うても適当にやって風邪引くのがオチやと思うから却下」
そういうことを言うのは、普通彼女の役目だ。俺や弟が、汗だくになっても、井戸水をかぶっても適当にしておくのに、手ぬぐいだのタオルだのを投げつけて「風邪引くわ!」と怒るのは、大抵彼女の方だった。だけれど、今も昔も、彼女は、雨が降ると、大概の事がどうでも良くなるらしかった。
―それは、右目を失ってから余計顕著になった気がする。そう思うと、ほんのり温かくなってきた両脚の白さが、少しだけ怖かった。この両脚が、また駆け出して、彼女を遠くに連れて行ってしまうのではないのか、と。
「志摩?」
彼女の足に掛けた手が、僅かに震えた。どうやったら、彼女の歩みを止められるだろうという思考は、どうしようもないものだった。どうやったって、彼女の歩みを止められなかった己に、これから先もそんな機会は来ない気がした。
付き合ったら。
口付けたら。
束縛したら。
彼女は止まってくれるのか。
その足を折ったら。
酸素を奪ったら。
逃げ場もないほど追いつめたら。
彼女を手に出来るのか。
全部全部間違いだと知っているのに、それ以外の方法が思いつかなかった。だから、結婚するなんて突拍子もないことを言ってしまった。
本当に好きだ。好きで、愛おしくて、彼女以外の女となんか共に歩めるはずがないのは当然だった。だけれど。だけれど、それが手段になっていた瞬間があったことを否定することは出来ない。
結婚すれば。結婚しようと言えば、外堀を固めれば、逃げ場をなくせば、彼女が止まってくれて、もう怖い思いをせずに済んで、彼女が手に入るのだと思ったことは、嘘じゃない。
風が少しだけ吹いて、やわらかな水滴が首筋に当たった。
「志摩、濡れる」
蝮は、今度こそいつもの通りに、姉のような声音で言った。そうして身を折るように彼女の足の辺りにいた俺の首筋に手を伸ばした。
「風邪引くえ」
心配そうに言った彼女の顔を見るのが怖くて、やっぱり俺はその白い足先に視線を落としていた。今俺は、本当に無様な顔をしているだろうと思った。
「お前こそ、こないなところにおったら風邪引くわ」
そう言ったら、蝮は困ったように、だけれどどこか甘えるように俺の髪に指を通す。
「雨降るとな」
静かに彼女は言った。まるで自分自身に言い聞かせるかのように。
「雨降ると、右目があったとこが痛むんよ」
そう言った途端に、手をのせた彼女の両脚が僅かに震えるのを感じた。かたかたと、寒さに凍えるように、何かを恐れるように、彼女の足が震えた。
「痛んで、それで―それで、私は自分の罪を突き付けられた気がする」
俺ははっとして顔を上げた。小さく震える足、そして見上げたその先の視線は、今にも泣きだしそうだった。
どんな気持ちだろう、と思う。自分の大好きな雨にさえ、罪を論われるような思いを抱いてしまうほどに追い詰められた彼女が痛ましかった。
そうして、それから、その彼女を引き留めることなど、やっぱり自分にはできないのだろうと思った。そう思ったら、ひどく悲しかった。
「誰も攻めやせん」とか、「大丈夫や」とか、いろいろ言えることはあったはずだった。だけれど、そのどれも、気休めでしかないのだ。―彼女にとっても、己にとっても。
それで俺はもう一度考える。彼女を引き留める手立ては、まだ残っているのだろうか、と。
「ごめん」
そうやって考えていたら、ふと謝罪の言葉が唇から零れた。何も考えていなかったのに、何故か出てきたのは何の変哲もない謝罪だった。
「なんであんたが謝るの」
蝮は困ったように笑って言った。その顔を見て、俺は何となしにまた足に目を落とす。どうしたらいいのか分からなかった。多分、それは蝮も同じだと思う。互いに、どうしたらいいのか分からない気がした。
そうして俺は、やっぱり特段の思案もせずにその白い足に口付ける。
「っ…!何すんの!」
蝮が声を上げた時には、その白い足に赤い花弁が散っていた。自分でも何をやっているんだろうと思う。
傷つけたって
縛り付けたって
掻き乱したって
それは本当に引き留めることになどならないことを、知っているのに。だけれど、涙が出そうだと思った。彼女がどこかに行ってしまうかもしれないそのことを、止められない、留められないことが、ひどく悔しくて、悲しくて、怖くて、泣き出してしまいそうだと思って、俺は歯を食いしばって言う。
「蝮、行くな」
「…っ…!」
行くな、いくな、とその言葉ばかりを、彼女の足先に視線を落したままで俺は何度も言った。
無様で、幼稚で、だけれど、彼女を引き留める言葉がそれ以外に思いつかない。
「頼む、行くな」
懇願するように、何度も何度も言ったら、震える彼女の声が降ってきた。
「阿呆やなあ」
彼女は足を掴む俺の手に細い指を掛けた。僅かに伸びたその爪が、きりりと俺の手の甲に食い込んだ。ひどく痛いと思った。少しの傷にすらならないそれが、途轍もなく痛い気がした。
「阿呆。あんたがいつも……いつもいつもそうやってあてを止めるから、雨降るたんびに、そうやってあんたが来るから…」
そう言って、彼女は爪を立てる。
「あては、どこにも行かれんくなるの!」
途方に暮れたような声で彼女は言って、それから、爪を立てていない左手で隻眼を覆った。泣いているのだと気づいたら、己も泣きだしそうだったことなど差し置いて、少しだけ居心地悪く思った。それは、彼女が泣いているから、というよりは、自分が泣かせたのだ、というその事実が、俺自身の居場所を少しだけ駆り立て、同時に、俺自身の居場所を明確にした気がした。
俺の手に爪を立てて、必死になって、彼女はここに留まろうとする。
雨に罪を詰られて、消えてしまいたいと思う日すら、こうして爪を立てて、世界に留まろうとする。その留金が己であることに、俺は少なからず驚いて、それから大きな安堵を感じた。
足掻くように彼女を留めようとしてきた色々は、確かに届いていたのだと思ったから。
「どないしたらええの?あんたのせいや。あんたが、いつもいつも私を止めるから、こないになってしもた。どこにも、行けんくなった」
そう言って泣き出した彼女を、俺は何の呵責もなく、屈託もなく、抱きしめた。
「そう思うんやったら、どこにだって行ける。やってどこにだって、俺が連れていくから。それでええやろ」
馬鹿みたいに気障な言葉は、彼女の濡れた肌と雨の匂いに吸いこまれた。
彼女の嗚咽が、肩に落ちた。そうして俺は、蝮はここにいるのだと思う。ここにいるのだと、だから、もう大丈夫だと。
彼女はまだ爪を立てている。痕になればいいのにと思った。赤い痕に。治らないくらいに深く爪を立ててくれればいいのにと思った。
それが、彼女が俺の隣に留まる、因になればいいのに、と。
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柔造さんに本当に欠片も余裕がない。いつものことですが。
2012/8/28