積水不可極


『之を以て志摩家は次男、柔造に総領を譲る』

 通達は至極単純明快な一文だった。家名を継ぐべき総領は、彼の姉には譲られず、次男である柔造に譲られた。譲る?と皮肉な思いになったのは誰だったろう。誰もが皮肉な思いを抱いただろうと思う。そうして誰もが、そのような思いを抱いてはいけなかった。
 譲る、だと?とその通達を改めて読み返し、中学生になった柔造はその一文を鼻で笑った。彼が中学生になるのを待って改めて通達されたその明王陀羅尼内部に於ける大変重要かつ意義深いそれを、彼は一笑に付した。
 誰もが、皮肉な思いを抱いてはならない。たぶん、彼の他には。

「なーにが譲るや、日本語おかしいやろ。矛兄が譲ったわけやないやん、死んどるんやから」

 父の趣味というか明陀の死活問題である家庭菜園で胡瓜をもぎながら、柔造はそう言った。ぱちん、ぱちんと家庭用園芸バサミが空しい音を立てる。

「終わったか」
「うーんちょっと待って。今終わる」

 掛けられた声は高く凛としていた。その幼馴染の声に、柔造は胡瓜をかごに入れてそれからその苗を見た。夏の終わり、秋まで実をつけるとは思えない。

「お前終わった?」
「終わった。今日はカレーにでもするよう母様とおば様に頼む」

 そう言った彼女の持つ平皿にはトマトと茄子が並んでいた。よく熟れたその実で出来うる料理はカレーくらいなものだろうと、その実りに反してどうにもやりきれない気持ちで柔造はそれを眺めた。

「明日、八百造様がいったん苗倒すて」
「秋用の苗植えるんかな」
「そうやろ、いつも通り」

 いつも通り、と蝮が言ったから、柔造はその彼女をまじまじと見返した。
 いつも通り。
 この菜園がいつも通りになったのはいつからだろう。
 いつも通り?

「なんや」

 問いかけに彼は答えられなかった。
 いつも通り?
 その通りだ。
 俺は志摩家を継ぎ、お前は宝生家を継ぐだろう。
 いつも通りだ。
 何一つ、疑っていないのだな、と思ったらひどく気鬱だった。

「俺には蛇はよう出せんし」
「なんやの」
「お前は錫杖振り回すわけやないし」

 蝮はそれに、適切な相槌というものが打てなかった。当たり前だろう、とかそういう言葉で済ませて良いのか分かりかねるというよりは、その言葉がほとんど自問であることを察していたからだった。

「僧正が血統って変やんなあ」

 ぼんやりと、自分の父と、蝮の父、それから小さな弟と同い年の少年の名前が刻まれた誓約書を彼は思い浮かべる。座主がいて、僧正がいて、僧都がいて、と思ったが、そのどれもが血の契約によって成り立っているのがひどく可笑しく思えた。

「別に俺、マジメに勉強したことも修行したこともないけど、このままやったら僧正になれるんやなあ」

 どこかで、その別離を受け容れていた。

 自分も、彼女も、と彼は思う。この間に流れるすべてはもう取り返しがつかないのだと知っていた。
 月日は折り重なって、日々は降り積もって、言葉は失われ、行動は意味をなさず、存在はすべてがすれ違う。

 そう最初から出来ていたなら、少しは違ったのかもしれない。
 そう最初から思えたなら、少しは割り切れたのかもしれない。

「なあ、蝮、」
「戻るえ」

 柔造の問いかけを、蝮は遮った。
 遮って、歩き出す。振り返らずに、歩き出す。

(ああ、ほうか)

 柔造は、一つ年下の少女の後ろ姿に静かに思った。
 そんなこと、初めから。
 自分が今になって初めて感じるその理不尽も、その哀惜も、初めから、初めから。
 初めから、全部。ぜんぶ、はじめから。


 そう最初から出来ていたなら、少しは違ったのかもしれない。
 そう最初から思えたなら、少しは割り切れたのかもしれない。


 そう、例えば、前を歩く彼女のように。

 最初から、その座にあったなら。
 最初から、ぜんぶ『いつも通り』なら。
 二人が交わることはない。





「分かってたんや、全部」
「ほうやなあ」

 蝮の言葉に、柔造は肯定で以って応じた。腕の中に閉じ込めた隻眼の彼女が失うものの大きさを、彼は知っている。
 その瞳ではない。
 その罪科ではない。

「分かってた。あんたとあての間には、もう取り返しのつかないものがあったって」
「ほうやなあ」

 彼はまた、静かに応じる。腕の中に小さく収まった彼女の言葉を、静かに聴くように。

「あてらは、明陀のために生まれて、そうして生きてきた」

 誰も疑わなかった。蝮が宝生家の跡目であるように、柔造は志摩家の跡目になってしまった。だから、二人がどんなに好き合っていても、二人がどんなに言い募っても、二人はそれぞれに生きていかなければならなかった。

「初めから、考えなければよかった」

 嘆息のように、蝮は言った。なるほど、そうだ。最初から、初めから、そんな可能性などないと断じてしまえばそれが一番楽だった。

「そうやなあ……俺は、それでいいといつの間にかすり替えてた」

 その恋情を、その思慕を、安堵にすり替えたのはいつのことだったか。

「そう。俺と蝮は結ばれないけれど、俺と蝮は明陀の中で、いつも隣にいるだろうと俺は妄信していた。それでいいと思うていた」

 本当はそんなふうに思えるほど簡単な感情ではなかったのに。
 妄信、ではない。そうなる以外の道がなかった。二人が並んでいられる場所など、明陀しかなく、明陀しかないのにそのしがらみは、二人を結びはしなかった。二人を縛っておいてはいても、二人を結んでくれることはなかった。


「明陀がなければ、俺はお前と出会わなかった」
「だけれど明陀がなければ、あてはあんたに恋ができた」


 二人で言って、二人は笑う。密やかな二つの笑い声は、静かにその一室を満たした。


「明陀がなければ、俺はお前を愛さなかった」
「だけれど明陀がなければ、あてはあんたに出会わなかった」


 声は重なる。


「明陀がなければ、あては罪を犯さなかった」
「だけれどその罪がなければ、俺はお前を奪えなかった」


 わずかに噛み合わぬそれが、だれけど二人のすべてだった。二人は互いが思うことをすべて言い当てることができた。それは互いが思うことがすべてそのまま互いに降り懸かるからだった。

「なんという、皮肉」
「なんて、無様」

 密やかな笑みは哀惜だった。絶望だった。
 密やかな笑みは歓喜だった。祝福だった。

「俺はお前に失わせる」
「なんて恐ろしい男」

 そのたった一言に、蝮は笑いながらそう応じた。その声には喜色が浮かぶ。
 なんて恐ろしくて、なんて勇敢で、なんて強くて、なんて脆い。
 空々しいその言葉たちには、だけれど深い喜色が滲んだ。言祝ぐように、その空々しい言葉たちを彼女は脳裏に浮かべる。
 腕の中に閉じ込めた隻眼の彼女が失うものの大きさを、彼は知っている。
 彼女が失うのは、その瞳でも、況やその罪科による何かでもない。
 彼はずっと、この瞬間を待っていた。
 だから、なんて恐ろしい男、と彼女はもう一度口中で繰り返す。
 だって彼女は、その瞬間をもう諦めていたのだから!


「お前はもう宝生を名乗れない」


 まるで呪いのようだと彼は思う。その血に流れるすべてはそのままなのに、彼は彼女からそのすべてを奪おうとしている。
 彼女は失ったのではない。蝮は、まさに今、柔造によって失う。
 まるで祝福のようだと彼女は思う。その血に流れ、自身を縛り、彼をも縛ったそのすべてが、唯一自らをその淵から引き上げるのだ。

「俺はお前を手に入れる」
「私はあんたを手に入れる」
「そうしたらもう、お前は僧正にはなれない」
「そうしたらもう、あては僧正にはなれない」

 そうしたらもう、何が、二人を縛っていられるだろう?


 海の水を数えることはできない。
 それはあまりに多いから。
 その果てにたどり着くことはできない。
 そこはあまりに遠いから。


 そう言い聞かせて、どこかでその別離を受け容れいていた。


 だけれどもし、海の水を数えることができたなら。
 だけれどもし、その果てを見出すことができたなら。


「ずっとこの時を待っていた」


 静かに言って、柔造は後ろから抱き込んだ蝮の首筋に口づけた。
 まるでそこに流れる血を確かめるように。
 まるでそこにいる彼女の生を確かめるように。

「俺たちは、別れても離れてもいけなかった」

 その別離を受け容れたふりをして、その過ちを掬い上げて、その一瞬、その刹那を耽々と待ち望んでいた。
 二人が結ばれるためのたった一つの瞬間を、彼はずっと待っていた。
 もしも彼女が諦めていたとしても、ずっと待っていた。
 彼女が自分の腕の中に帰ってくるその瞬間を。


「おかえり、蝮」




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別離方異域

2017/01/24
2017/01/26