The third line


 見解の相違、というか、ただの行き違いである。

「別に秘密にしとった訳やないえ?なんちゅーか、朝も言うたけど、言うたらお前怒るやろうと思って…」

 そうなのだ。別段、秘密にしようと思ってした訳ではない。ただ、『新婚旅行のために残業して、休みを取ろうと思っている』なんて言ったら、蝮は烈火のごとく怒っただろう。『そんなことのために身体を壊したらどうするつもりだ!』と。だから、泊まる宿や電車を決めて、職場に根回しして、家族に根回しして(八百造と金造は見事に巻き込まれた訳だが)、休みが確定したところで、連れていけば、さすがの彼女も納得せざるを得ないだろうと考えた。それが小ずるいと言われればそれはそうだろう。だが―

「それは分かったけど、なんで言わんかったの!その…し、新婚旅行、て」
「……言うてへんかったっけ?」
「言うてへんわ!」

 真っ赤になって蝮が言ったら、今度は柔造がぽかんとした。だが、考えてみれば『出掛ける』だの『小旅行』だのとは言ったが、『新婚旅行』とは言っていなかったかもしれない。というか九分九厘言っていない。だって初な新妻は、『新婚旅行』という単語だけでゆで上がったほどに赤くなっているのだから、これを新幹線に乗る前に言っていたら、多分乗り遅れただろうな、と柔造は他人事みたいに考えた。

 「それやったらあてももっと考えた」とか、ぶつぶついうのが聞こえて、柔造はスッと彼女の顔を覗き込む。

「なあ」
「へあっ!?なっ、なに?」

 明らかに挙動不審な蝮に構わず、彼は先程の怒りの訳を問いただそうと思っていた。

「なんでさっきあないに怒ったん?」

 純粋な疑問だった。例えば「新婚旅行はやっぱりハワイやろ!」とか、そういう類の怒りであったら、柔造にも反省の余地がある。だが、彼女は新婚旅行だなんて知らなかったし、海外なんて『なお』悪いと言ったのだ。

「だって」
「うん」
「すごいお金のかかることやないの、ここに来るのも、こないええとこに泊まるのも。そらな、新婚旅行やって言われたら私も…その…こういうところ来たいな、とは思うけど…でも」

 そんなことを言っているうちに、彼女の思考は一周してしまったようだ。曰く、新婚旅行だとしても贅沢ではないか、と。
 だが、彼女の視線はちらりちらりと部屋の中をさまよう。それもそうだろう。こんなふうに凝った内装の温泉宿などもちろん初めてだし、憧れを抱かない訳がなかった。

「ええやん。新婚旅行やし、蝮の喜びそうなとこに来たかってん。ここ、海近いやろ?俺らあんまり海とか行ったことあらへんし、あとここ、客室に露天風呂付いてんねん。お前いつだかテレビで見てずいぶんご執心やったやろ?」
「あれは!こんなところ行けたらええなっていう、ただの願望や!」
「そういう願望叶えてやるのも俺の仕事のうちやろ」
「なんであんた、そういう恥ずかしいこと言えるん…?」

 小さな声で反論したが、結局それは反論にもなっていないのだ。
 それがどこだとしても、新婚旅行なんて言われたら、赤くならずにはいられない。どうしてこの男は、と思う。

(なんでこの男は、あての喜ぶことばっかりするん?)

 なんだか少し拗ねたような気分で蝮はそう思った。口に出さないで彼を恨めしげに見つめたら、なんだか心中がばれてしまったようだ。柔造はからかうように笑って言った。

「ちゅーことで、俺たちは新婚旅行を楽しむべきです。とりあえず露天風呂入ろ。海、見えるらしいえ」




 ちゃぽん、と水音をたてて彼女は透明な温泉に身体を沈めた。白い肌は半分以上タオルにくるまれている。

「ええやん、別に」
「いやや。せっかくの露天風呂でお申がなにするか分からんから」
「なにってなんや?新婚旅行やぞ?どうせ布団で」
「あーあー!ほんまに情緒の欠片もないお申やな!」

 夕暮れ時、綺麗に染まった空と海を眺めながらの露天風呂は、それでも結局いつも通りの喧嘩の中に組み込まれてしまった。だけれど、彼を振り切り、湯船の縁につかまって海を眺める蝮に、柔造は幸せをかみしめて自分も湯に浸かる。 じんわりと温かな湯と嬉しそうな新妻。柔造は知らず笑顔になってしまう。

「蝮」
「なに?」

 呼ばれた名に、彼女はちょっと振り返る。
 海へと沈んでいく太陽の西日は、彼女の金の瞳を彩った。瞳だけではない。白い肌を、銀の髪を。ひどく美しいものを見つけた気がした。見つけただけではなくて、ずっとそばにいるのだと思ったら、それは大きな幸せだ。ずっとそばにいられるようにするのだと、思いながら、柔造はもう一度その名を呼ぶ。

「蝮、おいで」

 そう言ったら、彼女は少しだけ困惑したふうな顔をした。だけれど、結局ゆるゆると透明な湯を裂いてやってくる。その腕をとって、バランスの崩れたところを抱きしめて、彼は彼女の肩口に顔を埋めた。彼女は一瞬くすぐったそうに身を竦めたが、あまりしっかり抱きしめられたものだから、諦めてされるがままにされていた。

(蝮の…匂い…)

 それが、血の香りを含まないことが、彼の心をひどく穏やかにさせた。
 彼女の涼やかで甘い香りの間には、いつだって戦いの面影があった。それは硝煙の匂いだったり、血の香だったりした。

 あの日は―

 あの日は、それが一段と近くにあった。己の背中に担ぎあげた彼女からはやっぱり甘い香りがした。幼いころから慣れ親しんだ彼女の香りだ。そして、血の匂いがした。彼女から血の香がする度、彼女から甘い香りがする度、思ったことがある。それは鮮烈なまでの恐怖だった。その二つが一緒にあると、それだけで己は恐ろしいまでの喪失の恐怖に駆られるのだ、と、今まで蓋をしてきた思考があふれ出して、それは純粋な恐怖に変わった。

 だが、今は。だから、今は。

「もう、手放さん」

 沈黙を破って、彼は小さく言った。

「もう、どこにもやらん。誰にもやらん」

 それに蝮は小さく笑った。―その言葉の必死さに気がついているからだろう。

「ずいぶん亭主関白だこと」

 同じ恐怖を感じていたのだ。彼の温度を感じて、右目からどくどくと血が流れるのを感じて、それで自分は―自分は、この温度を永遠に失うのではないだろうか、と。
 そんなこと、瑣末なことのはずだったのに、己の命を懸けるくらい、当然のことだと思っていたのに、彼の温度を感じることが出来なくなるのはどうしたって怖かった。

 あの夏から、一年が経った。彼は、『失う』恐怖から己を救ってくれたのに、未だ、彼になにも返せていない気がして、それなのに自分はこんなところで幸せに浸っていて、少しだけ蝮は拗ねたような、不安なような気持ちになる。そういえば、昨日、夫が今考えれば嘘か何かと思われる電話をしてきた時もそうだった。

「あんたの隣で戦ってた時も、今も、あては柔造になにも返せん」

 沈んだ言葉のはずだったのに、声は何故だか唄うような響きを伴ったように思えた。

「なにも、なんてことあらへんよ。そこにおってくれるだけでええ。お前がおるっていうだけで、俺にはほんまに十分なんや」

 ひどく優しく彼は言った。

(やさしくしないで―)

 声は音にならなかった。

 これ以上優しくされたら
 これ以上望まれたら

(溺れてしまう―)


 きつく閉じた目の裏に、先程まで見ていた海が見えた。
 異国の海と空の境は、ひどく曖昧だった。


Express for you




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優しさが巣食って、掬って、救って。

2012/10/05