「おや、これは珍しな。なんやご入用ですか?」


失せもん探し


 不信を、或いは信頼を、全てなかったことにしろという方が、無理がある気がした。
 あの日から、ずっと。
 明陀というそれを、和尚が棄てたように見えたその日から、不信は積み重なり、そうして、かつてまでの信頼は目減りした。目減り、という言い方が正しかったように蝮には思えた。それは、フラスコの中の水が蒸発するように。或いは、水瓶の甘露がひび割れから滲むように。目方が減っていく、というのがひどくしっくりくるような気がしていた。
 それは、藤堂から様々を吹き込まれなくとも同じだったように思う。確実に消えていくのを前にして、何の呵責も無くその甘露を甘いと言える幼馴染が怖かった。苛立ちの裏に恐怖があった。その甘露を嘗めたことがあるのか?と問うても、答えはいつも「甘露は甘い」だった。そのことがひどく腹立たしく、そうして、怖かった。
 やがてそれは、そんなもの初めから存在していなかったのだ、と思われるようになった。甘い水などどこにもなかった。全てまやかしだった。そう思うよりほか、なかった。―――それこそがまやかしだと、知る今となっては、それはどうしようもない思考ではあったけれど。

「蝋燭が切れまして」
「お運びしましたんに」
「いえ」

 仏具屋の店主は、蝮に茶を勧めながら言った。「いただきます」と小さく言い、礼節として口付けたその緑とも金とも見える液体は、ほんのりと甘かった。玉露だ、と思ったら、皮肉な気持ちになる。それは甘露に似ていた。本物の甘露なんて、嘗めたことはないのだけれど。

「何号がご入用でしょう」
「三号を10箱いただけますか」
「かしこまりまして。他は何か?」
「大丈夫です」

 他に頼まれたものは特になかったから、蝮は手許の湯飲みを置いた。この店は、何につけても客に出す茶だけは手を抜かぬ、と言ったのは確か和尚だった。だからこの店で買うのだ、と言ったそれは、食い意地のようなものだろうか?と幼いころの蝮には思えて、学生のころから祓魔師として働いていたころにはそのような言葉は忘れていて、そうして今は、その言葉の意味が真から解る気がした。
 それはつまり、裏切らない、ということだ。どのようなことがあっても、少なくともこの店主は客人としての明陀を裏切らなかった。和尚には人を見る目がある。そう、蝮は小さく思った。それは、後悔であり、ひとつの懺悔だった。

「いつもの銘柄でお出しします。少々お待ちを」

 そう微笑んで言って店の奥へと姿を消した店主に、蝮は何とはなしにガラスのショーケースを眺めた。そこにあるのは数珠だった。菩提樹の数珠。男物だった。

 ―――形あるものはいつか壊れる。

 だって、形のないものすら壊れるのだから。少なくとも彼女はそう了解していた。目に見えない水瓶がひび割れて、目に見えない「信頼」という名の露が地面に吸われたように。
 だから彼女は、恐々と、だけれど確たる意志を持ってその指にかかる銀色の環に手を伸ばした。
 これもいつか壊れるのだろうか、と思いながら。


 違うのだ、と知りながら、彼女は嘆く。
 壊れない、と知りながら、彼女は歎く。
 壊したのは己だと、知りながら、嘆く。
 壊したのは己だと、知るゆえに、歎く。


 これもまた壊れるのだと。そう思ったら怖かった。怖くて、そうして逃げ出したかった。


 こんな小さな環ひとつで、繋ぎ止められるほど私は弱いだろうか。
 その問は、すんなりとすり替えられた言葉にすぎなかった。
 こんな小さな環ひとつで、繋ぎ止められるほど彼は弱いだろうか。

「阿呆か」

 言葉にしたら、ひどく重かった。この指環さえあれば、あとは何も心配ない。あとは結婚を待つだけだ、というふうに思うことが、彼女にはどうしたってできなかった。

「すまん」

 小さな、嘆きに似た謝罪を落とすのは、もう何度目か知れない。


 失くしものは、そこにはない。


 信じられなくて、任せきれなくて、委ねられなくて、ごめんなさいと彼女は言う。その全てを彼は是として受け入れるから、蝮はかえって辛くなる。否定していいのだ。詰っていいのだ。そう思う。だけれど、そう思う一つ一つを裏切るから、彼女を是とする志摩柔造は、間違いなく己の幼馴染なのだ。何一つ疑わず、何一つ裏切らない。
 その真っ直ぐなのが、苛立たしかったのは、恐怖の裏返しのように思えた。


 失せ物は、そこにはない。


「お持ちしました。そういえば、大きな事件がありましたなあ。宝生のお嬢様も、お数珠など、壊れてへんやろか?」
「え?」

 戻ってきた店主が世間話の体で訊ねたので、虚を衝かれたように蝮は顔を上げた。
 学園を卒業して、故郷に戻った時には、蝮にとってそこはいずれ裏切らざるを得ない場所だった。だから、形として残るものは一つずつ排除してきた。気がついたら部屋からは必要最低限以外のものは消えていて、職場のデスクに積み上がるのは書類だけだった。
 数珠、と言われて思い当たるのは、父に二十歳の祝いに買ってもらった珊瑚のそれだった。宝飾品を買う余裕などなかったけれど、二十の祝いにと苦心して買ってくれたのが、その珊瑚の数珠だった。それは未だ抽斗の中に眠っている。
 勿体なくて使えなかったのが半分、裏切りに使いたくなかったのが半分。どちらにせよ我侭なものだと今なら思う。

「いや、志摩のお坊ちゃんの数珠が壊れたと伺ったもので。直されるよう僧正殿に言われたらしいんですが、なんや大きい買い物したから今は無理やて」

 にこりと微笑んで言われたので、蝮は気が付いてしまう。


(嗚呼―――)


 この銀の環か。
 私を繋ぎ止める
 彼を繋ぎ止める
 この銀の環か。


 きっと彼は幸せそうに言ったのだ。そのことが、どうしようもなく辛かった。

(連理になれない)

 全てを呑み込むことが、できない。それは申し訳なさであり、恐怖でもあった。
 分っている。足りないのは、信頼ではない。
 判っている。足りないのは―――




 蝋燭を仕舞って、それから蝮はその薄暗く寒い伽藍で膝を抱えた。
 息を吐くたびそれは白くなる。それから、そんな寒い季節に生まれた男のことを思った。己のつまとなる男を、思った。

「すまん」

 そうしたら、涙が止まらなくなった。この身の不信を、彼は知りながら傍にいようと言う。あの夜、連理の枝に体を結わえて、そのまま死のうと言われたような気さえした。そうして、朝になったらやっぱり彼は、結婚しようと言った。
 だけれど、だけれど。失くし物が多すぎて、連理の枝は折れてしまう。
 そんな気がした。どんなに身体を重ねても、どんなに言葉を重ねても、どんなに結いつけても、連理になれない。そんな気がした。

「蝮」
「え…?」
「蝮。なにしてん。風邪引くえ」

 ばさりと緋色の衣を頭からかけられた。わずかな光の中で、視界が赤く染まる。連理の枝に体を結うのは、出来ることなら緋色の紐がいい、何故だか彼女はそんなことを思った。だから彼女は、衣をかけた彼に構わず、その衣の中で泣いた。緋の衣は、ひどくあたたかかった。
 だから彼は、何も言わずに衣ごと彼女を抱きしめた。考えていることなんて、大体分かった。分からなかった時があって、そのために彼女を苦しめたことは本当だけれど、こうして、しっかりと向かい合えば、この幼馴染の考えていることなど、解ってしまった。

「無理すな」

 哀しくとも、愛しくとも、かなしくとも、分かってしまう。そうして、彼は、探るような手つきで彼女の指を捕まえる。その指にかかる細い環にたどりついたところで、彼女は強い力で手を引いた。

「蝮、無理すな」
「嫌や」

 己の我侭に、蝮は呆れるほどの嘆息を感じた。だけれど嫌だ。連理の枝になれないと言いながら、その指環を取り上げられて、無かったことにされるのは嫌だった。

「……お前がおってくれて、良かったと思っとる」

 指環を取り上げる代わりに、その指先を優しく撫でて、彼は言った。

「お前がおらんかったら、誰も彼も自分ん中の明陀への不信を払いきれんかった気がするから」

 誰も彼も、というよりも、己が、というべきだろうか、と彼は思う。
 不信を抱かない振りをしてきた。根底にある不信から、目をそらしてきた。無意識だったかもしれない。だけれど、組織の中に、或いは己の中に、鬱積する不信があったことは間違いようがなかった気がした。
 
「大丈夫や」

 何が大丈夫なのだ、と、反駁すべきなのだろうな、と蝮は遠くで思った。何が大丈夫だ、大丈夫だと繰り返してこの様ではないか、と。だが、数ヵ月前までそう叫びだしていた心は、今は凪いでいる。

「大丈夫なわけ、ない」

 だけれど、嗚咽の狭間で出てきた言葉はやっぱり反駁だった。


 彼が、何度大丈夫だと言ったって。
 彼が、何度連理の枝に体を結いつけたって。
 私が、大丈夫だと思わなければ。
 私が、連理の枝を手折ってしまえば。


「失くしたもんが、多すぎる」

 慟哭を、だけれど彼は、何も言わずにその身の内に引き入れる。その嘆きは、言うなれば彼の嘆きだった。

「なんも、失くしてなん、おらん」

 だから、彼は彼女を抱きしめる腕に力を篭めた。

「俺は一回お前を失くした。お前のことが見えんくなった。一番近くにおったのに、お前のことを分かりきれんかった。そうやって、お前が磨り減っていくのに気がつかれんかった」

 言葉は、全て彼女に跳ね返る。明陀を、彼を、彼女は一度失くしてしまった。何も見えなくなってしまった。そうして裏切ったのは己だというのに、彼は失くしたのは己の方だと言う。
 言葉は、一つ一つが重なった。鏡のように、水面のように。

「やけど、やっと見つけられた。まだ全部やないと思う。でも、俺は失くしたお前全部を見つける。絶対見つける。お前も探したらええ。それからじゃ、遅いか?もういっぺん探しながらじゃ遅いか?それに俺は―――」

 そう言って、彼はその緋の衣をふわりとはずした。涙に濡れる隻眼は、とても美しかった。この瞳を守りたいと思う。もう、失いたくないと思う。

「お前を失くすのはもう御免や」


「あ…て…は、」


 彼の言葉と、冷たい冬の空気が、涙にぬれた頬を裂いて、彼女は唇を戦慄かせた。

(どうして)

 彼は、どうしようもないほど必死な顔をしていた。掬ってくれると言うのなら、もう少し余裕でも見せたらどうだ、と、意地の悪いことを考えた。それは一つの逃避だった。

 足りないのは一つ。
 足りないのは覚悟。


 罪を受け入れて、
 彼を受け入れて、
 共に歩むと言えば良い。

 だけれど、その一言を言うのが、どうしたって怖かった。
 許されるはずがないと思った。
 だけれど彼は、失くしてしまった種々の事共を探しながら歩けばいいという。
 そうして彼は、失くしてしまった己を、必ず見つけ出すという。

 今ならば、共に歩むと言えそうな気がした。

 だって、そうだろう?
 私だって、もう彼らを、彼を失うのは嫌なのだから。

「手伝ってや」

 目をぎゅっと瞑って、彼女は言う。何も見えない。だけれど、目の前にある気配は消えなかった。

「失せもん探し、手伝って」

 震えた言葉は、衣の代わりにふわりと彼女を抱きしめた彼の肩口に吸われた。

「じゃあ、まず一つ」

 お道化て、彼は笑いながら言った。

「俺んことは拾っとけ」

 損はないえ、と笑って言うから、彼女も小さく笑う。


 何もかもが上手くいくなどとは思わない。
 すべてを任せられるとも、委ねられるとも思わない。
 それで全ていいのだと、まだ言えない。
 だけれど、この先、彼が隣にいることが、この先彼を失わずに済むことが、今は己を引き留める便となる気がした。

 形あるものが壊れるならば、そのかけらを拾い集めればいいと彼は言う。

(許されるなら―――)

 朽ちることのない連理の賢木に身を結わえ、永遠を、請う。




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緋襷を連理の枝に結わえる
緋襷で連理の枝に身体を結わえる

2013/1/11