『織り姫と彦星は年に一度っきりしか逢われへんの』
幼いころの彼女は、ひどく寂しそうに、だけれど微笑んで言った。
『ねえ、今晩は逢われるやろか』
そないなこと、俺に訊くな、という突き放すのとは違う悋気と、それから、そのささやかで寂しげな笑顔がひどくまぶしくて、俺は梅雨空にちょっとだけ目を上げて、それから半分仕方なく、半分意地悪く、言った。
『こないに天気が悪うちゃ、逢われへんな』
ふざけた悋気だと、今思い返せば思う。その次の年に、俺は正十字学園に入学した。
牛飼童
座敷牢に、誰に命じられた訳でもないのに進んで入る物好きなんて、俺は今も昔も一人きりしか知らない。八月の盆。不浄王の一件から、まだ一月と経っていない頃だった。
「なあ」
俺は、鍵一つ掛けられていない牢の格子戸に寄り掛る。鍵を掛けるつもりの者なんて、彼女以外にいなかったから、もう少し俺が体重を掛ければ、その扉は軽く開くだろうと思われた。だけれど、その牢を開けることは多分彼女を傷つけることで、だから俺は、牢の中の彼女―――蝮に背を向けたままで、牢の扉にもたれかかって言った。
「誰も、こないなところに入れ、なんて言うてへんやろ」
繰り返し、言ってきたことだった。俺だけではない。所長である父も、彼女の父である蟒様も、和尚様も、坊たちも、誰も言わないのに、彼女は座敷牢に在ることを望んだ。
それは、彼女の求める罰かもしれず、だけれどそれが俺には耐えがたかった。
「情緒のないお申やな」
「なん」
鈴を転がすように、牢の中の彼女は笑った。その声に一言返したが、『情緒』などと繰り返す彼女が、どうしたって哀しかった。
情緒、か。彼女が牢に籠るのは、ある意味でその情緒故なのかもしれなかった。ひどく些細で、微妙な心持の加減。
『罰してほしいと願う』
『浅ましいほどに』
『罰をくれろと願うよりない』
蝮は静かに言った。俺が、三度目か四度目、結婚を申し込んだ時だった。自ら罰を望むのを、彼女は浅ましいと言った。だが、その罰を望む心以上に、罰されるべき己が浅ましいと、彼女は言うのだ。
どうしていいのか分からなかった。どうしたら、彼女を掬い上げられるのか、俺には皆目見当もつかんかった。
「せっかく手紙を書いとったのに、わざわざ顔を見にくるとは、ほんま、情緒のないお申や」
彼女は笑った。いつもの『情緒がない』というのとは、少し違う内容の様だった。
「なん。口で言うたらええやろ」
そないなとこから出てきて、という一言を、俺は呑み込む。それが出来ていれば、何もかも上手くいっていた、と言えば言い過ぎだし、そんな自信も、保証もないけれど、少なくとも少しはマシだったはずだ。―――結婚して、全部が上手くいく、なんていうのは、やっぱり俺の幻想なのかもしれないけれど、少しは良いこともあったはずだと思う。
それとも、好きだとか、愛しているとか、そういう感情が全部全部、俺の一方的で理不尽な感情なのだろうか。だが、あの日応えてくれたことを嘘だとは思いたくなかった。
「外の天気は晴れやろか」
「なんや、急に」
「盆の初めは雨も降るけど、今年はどうや」
彼女がそう言ったところで、衣擦れの音がする。立ち上がったのだと見えて、俺は寄り掛ったその格子戸からふと体を浮かせて振り返った。
そうしたら、黒衣の下に着る白衣を纏った隻眼の彼女が、微笑んで二通の手紙を差し出した。
「なんや、これ」
二通とも流麗な筆文字で書かれている。相変わらず、細いがしっかりした綺麗な文字だった。一通には『志摩矛造様』と宛名してあって、それが墓前に捧げる物だと知れた。だから、出来れば受け取りたくなかった。
「あんたの兄様と、あんたに」
彼女は笑って言った。もう一通の宛名には『牛飼童』と訳の分からないことが書いてあった。あんた、と言うからには、俺を指した言葉なのだろうが、如何せん、そのようなものを解するほどの文学的なセンスなどない。
「今日は七夕やから」
「は…?」
「旧の七夕」
旧暦?七夕?そういえば七夕は盆初めに近いか。だとすれば、八月のこの時期に旧の七夕が被っていても可笑しくはないが、それがどうしてこの手紙に繋がるのかは分からなかった。
「七夕のことを教えてくれたんは兄様やったやろ」
ふふと笑って言われたので、その薄暗い回廊で、俺は遠い記憶に囚われた。ひどく温かで、無遠慮で、冷たい記憶に。
『織り姫様と彦星様はなんで一年に一遍しか逢えへんの?』
幼い蝮は、兄の言葉に不満そうに、寂しそうに言った。そうしたら、兄は微笑んで言う。
『うーん、仕事サボってもうたから、かなあ。そやけど、織り姫様はほんまに機織り上手なお人やし、彦星様も真面目やってん、仕様がないわなあ』
困ったようにそう言って兄は彼女の頭を撫でた。
『せっかく一年に一度なんや。機織り上手な織り姫様に、蝮もなんかお願いしとこか』
話の矛先を奇麗に変えた兄に、蝮はきらきらした顔で言った。そのくるくる変わる表情を、俺は退屈そうに眺めていたのだと思う。それは、兄と仲良くしているのが不満だったからかも知れず、悋気にも似ていた。
『字が上手になりたい。あと、もっとお経覚えて…』
彼女は、七夕の願い事を指折り数えた。織女星も、そんなにたくさんじゃ叶えきれないくらいたくさんのことを、彼女は願った。
『みんな一緒がええの!いつまで経っても!』
多分、叶えられなかった願いは、最後のその一つきりだったように思われた。
ミンミンと蝉が鳴くその幾度も先の夏に、彼女は織女星と牽牛星が、『今晩は逢われるか』と俺に問うたことがある。俺は、その時、叶えられなかった願いと思い、あの夜の兄たちと、或いはもっと数多くの失われた人々への幻想と思い、悋気に似たひどく無遠慮な感情で突き放した。
そうして今、彼女は再び俺に七夕のことを言う。兄へ宛てた手紙もあったから、それは思い出か贖罪か分からなかったけれど。
だけれど、彼女は俺に宛てた手紙を『牛飼童』と称した。
そうだとすれば、あの日の言葉さえも変わって見えた。変わって見えたら、今になって思うふざけた悋気が、ずいぶん可笑しい。
「俺は彦星か」
「そうや、彦星や」
だから、可笑しくて笑って言ったら、彼女も笑った。とても楽しそうに。
「織り姫とは大きく出たな」
「悪いか」
ちっとも悪いなんて思わない。逢えなくなってしまうそれを、織女と牽牛になぞらえたのに、無碍に扱った過去の己が、やっぱり何だか可笑しくて、じゃあ、あの時から彼女の応えは変わらずにいたのだろうか、と思ったら、希望が見えた気がした。
「みんな一緒がええの」
格子の向こうで、彼女は静かに言った。その願いは、あの日の願いと一緒だった。
「壊しておきながら、なん言うてるんやと言われればそれまでや。けど、みんな一緒がええの。自分で壊しておきながら、あてはあんたと一緒に居りたかってん。織り姫と彦星みたいやなって、思ってん」
贅沢やろ、と彼女は笑って続けた。贅沢なものか、と思う。
「……お前は壊してなん、おらん」
だから、受け取った手紙を持つ手が小さく震えた。
「なんも、壊してなん、おらん」
己と彼女を隔てるその格子は、彼女の望む罰だった。だから多分、この手の中の手紙には懺悔と、後悔、そういったものばかりが綴られているのだろうと思った。だけれど、宛名は牛飼童なのだ。まだ幼かったあの日のままの感情が、ゆるやかに流れていった。
「こりゃ天の川か」
「そないに綺麗と違うけどな」
「……今晩は晴れや」
「そらええこと。逢われるんやね」
彼女は、ほっとしたように、静かに言った。
二人の間に延びる川に、星を撒くのは貴女。
その星を拾えば、また向こう岸に渡れるのだろうかと、小さく願う。
彼女の撒いた、世界を隔てるその星に、小さく願う。
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七夕ネタでした。
2013/07/08