彼女は、まだ眠っていた。その枕元に座って、青白い顔に手を伸ばす。

「すまん…すまん、蝮」

 まだ、その肌は熱を持っていた。何度も何度も、その顔を撫でる。勝呂の前で、決意したつもりだったのに、いざ、傷つききった蝮の姿を見ると、どうしても、そんな謝罪の言葉しか出てこなかった。

「すまん、ずっと、辛い思いさせて…解ってやれんくて…」

 冷たかった手は、徐々に彼女の体温と溶け合って温度を上げていた。溶け合う体温と共に、この思いが伝わればいいのにと思いながら、謝罪の言葉を口にしては、彼女の白い肌を撫でる。

「…し…ま…?」
「…っ!」

 彼女がゆっくりと柔造を呼んで、細く目を開けた。

「どないしたの?」

 やはり彼女はゆっくりと言って、細くなってしまった腕を伸ばす。その指先は、真っ直ぐに彼の目許に向かって、彼の肌にそっと触れた。

「なにか言われたん?あてのせい?」

 彼女の顔が、不安げに歪んだ。柔造ははっとしたように、彼女の伸ばした手に己の手を重ねる。温かな滴が、手を伝って落ちる感覚に、彼は自分が泣いていることに初めて気がついた。

「お前のせいな訳、ないやろ」
「けど…」

 蝮は、未だ不安そうな顔で柔造を見上げている。その目に映った己の顔に、ひどい顔やな、と、彼はひとつ苦笑をこぼした。だけれど、泣いたからといって彼女に思いが伝わる訳がない。
 柔造は、決意したように、重ねたその手をゆっくりと引く。

「志摩…?」
「苦しかったら言いよ?」

 優しく言って、そのまま彼女の身体を起こす。何が起きたのか分からないというように、上半身を起こされた蝮が振り返ろうとするが、それは叶わなかった。それに、熱が出ていて、起き上がるのは辛いはずなのに、身体を支える苦痛は思ったより大きくなかった。
 起こされた上半身は、彼女を抱きしめるように、背中にぴったりくっついた柔造によって支えられている。

「な…に…?」

 後ろから抱え込むようにされて、自由の効かない身体は嫌でも彼の方にもたれかかるようになる。体重を預けるようになるから、身体を支える苦痛は小さい。そんなこと、彼は分かっているのだろう。
 肩のあたりにあった手が、するすると下りてきて、今度こそ本当に、蝮はしっかりと抱きしめられた。自分のものよりも、ずっと太い腕が、しっかりと身体を支えるそれは、どこか恐ろしさを彼女に覚えさせる。だが、なぜそれを恐れるのか、そのことを、彼女はずいぶん長いこと思い出せないでいた。

「…志摩ぁ…」

 彼女は、たまりかねて声を上げる。

「やめて」
「なんで」
「…!?」

 彼女はその一言に瞠目した。夏以来、彼がそういうことを言うのは初めてのことだったから。
 やめて、と言えば、「分かった」。怖い、と言えば、「もうしない」。
 その会話の間に、彼は何の疑問も、反抗も差し挟むことなどなかった。

「やって…こわ…い…」
「なんで?なんで怖いん?」
「なん…で…?」

 頭が真っ白になる気がした。
 優しさが、怖いのだ。裏切った己に向けられる優しさが。

 だけれど、と、彼女の頭の中はぐちゃぐちゃになる。柔造がいなかった三日間、彼女の枕元には毎日勝呂がいた。勝呂は、彼がするように、髪を撫で、柔らかな言葉を掛け、身体を労わってくれた。だが、そのどれもが、怖かったはずなのに、だんだん判らなくなった。
 何が、怖いのだろう、と。恐怖しなくなったのではない。恐怖は、それが本当に恐怖かどうかを調べる術がないとしても、確かにある。では、どうして?と彼女は自身に問い掛ける。毎日ここに来る柔造とて、同じように『優しい』はずだった。それなのに、彼のそれは怖くなくて、勝呂のそれは怖いというのはどういうことだろう、と。

 今、己を抱きしめる男に感じる『恐怖』は、勝呂に感じた恐怖と同じだと思った。耐え難いような、それなのに、失うことが恐ろしいような、そんな、恐怖。
 だがそれは、段々と、恐怖なのか、それ以外の感情なのか、ぐちゃぐちゃになって分からなくなった。散乱したその感情を、拾い上げる作業を、誰もしてはくれなくて、それらは全部、散らばったままで、ひどく居心地が悪い気がした。

 とくんと、彼の心臓が脈打つ音が聞こえた。聞こえた、というよりも、感じた、という方が正しい。背中にぴたりと寄り添った彼の胸から、心臓が脈打つ感覚がこぼれ落ちる。

 それは、躯の内側に浸み込むように、少しずつ入り込んでくる。その音が、その感覚が、浸潤するように。怖いと思った。そうやって、彼の全てが、流れ込んでくるのではないかと思うと、それは純粋な恐怖になった。
 拍動だけではない。冷たい彼の身体と、熱を帯びた彼女の身体の間で、体温さえ溶け合って、蝮はくらりと目眩を覚えた。己を抱きしめる男と、己の境目が、少しずつ分からなくなる気がした。
 だけれど、その一方で、彼の全てが、己の中に浸み込み、息づくごとに、その純粋な恐怖も、優しさに対する『恐怖』も、少しずつ収まる。
 彼女は、どうしたらいいか分からなくて、抱きしめる柔造の腕に、おずおずと自らの手を重ねてみた。彼の腕の温度は低くて、法衣ごしにも、どこか気持ちが良かった。その感覚にまかせて、彼女はそのまま、うとりと目を閉じる。

「わからんの」

 呟くように彼女は言った。

「怖いけど、わからんの」

 何が怖いのか、もうその正体が柔造には見え始めていた。重なる心臓。蝮に彼の心音が聴こえていたように、彼も彼女の心音を感じていたのだから。
 抱きしめたその時、彼女の心臓は、驚くほど速く脈打っていた。だけれど、その心音は少しずつ、落ち着きを取り戻す。彼女が怖いと言った体温と溶け合って。

 本当は、怖くなどない。彼女が恐れたのは、優しさではなくて、その優しさを受け容れることだと思った。

「準備が出来とらんかったんやなあ」

 優しい口調で柔造に言われて、蝮はこてんと首を傾げる。その意味がよく分からないと言うように。首を傾げることで露わになった首筋に、柔造は顔を埋めた。

「優しさとか、いろんなもん、身体ん中に、心ん中に、容れる準備が出来とらんかっただけやんなあ」

 怖かったのは『優しさ』そのものではない。その優しさを、受け容れることが怖かったのだ、と彼は思う。

「突然突き付けられたら、誰だって怖いわなあ。当たり前やんな。ほんとは、もっとゆっくりゆっくり歩いたらえかったんや。お前がつまずかんくらいゆっくり。すまんかった」
「し…ま…あんな…」

 彼の言葉一つ一つが、ゆっくりと、だが確実に自分の中に落ちるのを感じ、何か言おうとして、蝮は言葉に詰まった。何を言えばいいのか、正直なところ分からなかった。

「まだ怖いか?」
「っ!」

 勝呂にしろ、そして、こうして自分を抱き留め、放さない柔造にしろ、向けられた優しさが怖かった訳ではない。その事実を言い当てられて、彼女はゆっくりと息を吸う。息を吸うのと同じように、あるいは、乾いた土が水を吸うように、彼の思いが入り込んでくる気がした。

「怖い?」

 ゆっくりと、彼は聞く。もう、怖いなんてこと、なかった。

「こわ…く…ない」
「ほうか」

 「それならいい」とだけ言って、柔造はギュッと彼女を抱きしめる腕の力を強める。それに、少しずつ彼女の心臓が速度を上げるのを感じて、柔造は少しだけ笑って見せた。

「怖くないついでに、俺が今から言うことも、怖くないようにちょっと準備してくれんかなあ」

 何でもないことのように、彼は言う。

「なに…?」

 不思議そうにした彼女の心音を聴きながら、彼女がつまずいたりしないように、ゆっくり言った。




「愛してる」




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2012/2/16

2012/7/31 pixivより移動