男と女
「よっ!」
廉造が虎屋を出てから、細々した手伝いをして、いつも通りに時間が過ぎた。
そうして、いつも通りに男が来た。
「帰りしなや。勘弁しい」
廉造に、帰りたくないとは言ったが、帰っていない訳ではない。今になっても寝床まで虎屋の世話になる訳にもいくまいて、きちんと家には戻っている。
家族の分の朝晩の食事も作り置いているし、彼に言い訳するならば、『家』というものに対して必要不可欠な部分だけは、きちんと振舞っている。
だとするならば、それはある意味で、八百造様の錫杖を持たされた彼と、変わらないのかも知れなかった。
必要不可欠な部分ではなくて、必要不可欠な部分以外に『私』が含まれてしまっているような、そんな、癇癪めいたことを一人で勝手に思っているのだ。実際は、父も、妹たちも、そんなこと思っていないのを、知っているのに。
「まあ、帰る前にちょっと話でもせんか?」
いつも通りの言葉には、どうしてか逆らえない。だから縁側に座って、夕暮れ時の坪庭を眺めた。そうしたら、志摩もその横に腰掛ける。
「廉造に、逃げてええって言うたんやてな」
「……早いこと」
「今しがた、コーヒー奢らされてん」
「……」
返答に窮したわけではなかったが、私は何となく口を噤む。
言いたいことも、言うべきことも、全部決まっているような気がした。気がしたけれど、口にするべきか否か、少し迷う。
だからか、口から出てきた言葉は全く違っていた。
「酷い女やろ。あんたには、逃げてええなんぞ、言うたこともあらへんのに」
全く違っていたけれど、言いたいことには違いなかった。庭には、夜がそこまで迫っていた。
彼は、何も言わずに私の頭を己の肩に引き寄せた。厚い肩に私は額を預ける。
彼が、或いは己が、逃げることだけは、私たちは互いに終ぞ赦せなかった。許せなかったのではない。互いの痛みを許容することなど簡単なことだった。だが、私たちは最後まで赦せなかった。その責務を、放擲することを。
「阿呆やなあ」
呟くように言ったら、彼の大きく武骨な手が、私の目を覆った。迫りくる夕闇よりも濃い黒が目の裏に焼き付いた。互いが逃げ出さないから、私たちは少なくとも私たちでいられたのだと思う。
兄を失くして、跡目を任されて、明陀を任されて、そうして、組織を任された。
その一つ一つから、逃げ出さないように。
齟齬は確かにあった。解り合えない部分もあった。だけれど私は、逃げ出さないため、なんて、打算にも近い感情もどこかに持っていながら、彼を、彼らを守ろうとした。
守ろうとするたんびに、すれ違って、噛み合わなくていたのは解っていた。解っていても止められなくて、止めろと叫ばれても辞められなかった。それが私の過ちなのだろう。
知っとる。
志摩は、明陀が嫌いだ。
―――嫌い、というのは少し語弊があるかもしれない。彼の弟である廉造とは、全く別の階層で、彼は明陀という組織を疎ましく思っている節がある気がしていた。
自らの所属すべき、仕えるべきそれが明陀であることを、彼は確実に認めていて、それは多分私も一緒で、そういうことを重荷に思って『嫌い』と言うのとは、少しばかり違う。
駄々に似ていた。私が家に帰りたくない、と癇癪めいた駄々をこねるのに、それは似ている気がした。
出来るわけあらへん、という、言い訳じみた、だけれど、きっと許されるだろう駄々。
だけれど、私たちがきっと赦せなかった駄々。
それは、和尚様のように、自分の父たちのように、大人たちのように、失った兄のように、なれるわけあらへん、出来るわけあらへん、という、駄々だった。
それは、今まで積み重なってきた様々な人たちの重責を、担え、と一言言われて、はいわかりました、と言えるだけの了見が私たちになかった、ということなのかもしれない。
そうかもしれないけれど、私たちは少なくとも二人で、すれ違っても、噛み合わなくても、何とか、どうにか、互いを補完し合って、支え合おうとした。
それが、逃げることを赦さない枷となってしまっていたとしても。
「俺なあ」
「ん」
静かな声が降ってきた。目はまだふさがれているけれど、彼が、私に絶対見られたくないような、沈んだ、というか、どうにも困った顔をしているだろうことは分かったから、沈んでいた心持が少しだけ上向いて、ちょっと可笑しな気分になった。
「お前んこと嫁にしたら、お前がもう絶対明陀から逃げられへんこと、知っとるんや」
言葉は、凛として響いた。それでも、どうにも可笑しな、それでいて凪いだような気持ちは変わらなかった。
「知っとるから、廉造に『逃げてええ』て言うてくれたことは、ほんまに感謝しとる」
そう言われてしまうと、彼が凛として響かせる言葉たちの意味がはっきりとしてくる。
帰るべき家。還るべき場所。全部分かっている。ぜんぶ。分かっているけれど、了解できない自分がいた。了解できない弟がいた。そのことを知っていて、彼は言うのだ。
「知っとって、結婚しようて、言うとる」
「そんくらい、分かるわ」
私は、反駁と言うにはあまりにも静かにそう返した。
僧正血統の跡目に、僧正血統の裏切者が嫁ぐ。これは、志摩と宝生の家の内側がどうあれ、対外的には、一生その裏切者の僧正血統を監視する、という意味になるだろう。まして、私は跡目だった。どう考えても、どう足掻いても、そこに世間一般で言う結婚に必要な『愛』だとか『情』だとか、そういうものは見出せない、と判断されるのだろうと思う。私たちがどうあれ。そうして、そうして―――
「あてと結婚したら、後指を指されるんはあてだけじゃ済まんの。あんただって、志摩の家かて謗りを受ける」
先程廉造に言ったことと、それは大差なかった。
幸せでないはずがない。
すれ違った。解り合えない時もあった。それを独りで抱えるのがひどく辛かった日々もあった。
だけれど、私にとって守りたい相手は彼であって、それは情であると同時に、恋慕だった。それは、共に闘う、共に生きる者に対する情以上の感情だった。
(好き、だったんよ)
昔も、今も。
(好き、なんよ)
だから、後指を指されるとか、泥を塗るとか、門を汚すとか、そういう、様々は確かにあったけれど、それはある種の建て前でしかなかった。
彼の弟に『逃げていい』と言えて、彼には『逃げていい』と言えない今なら、それを口にできそうだ、と思って、私は私の目を覆う彼の手をゆうるりと掴む。視界に傾いた太陽の最後の残光が差した。夕闇が迫っているというのに、その光がやけに鮮明に思えた。
「あてと結婚したら、あんたは一生、明陀から逃げられんくなるの」
言葉が落ちたら、光の具合か、陰影のはっきりした彼の顔がそこにあった。
隣に座る彼は、私が掴んで離させた手を取ったまま、私を見つめている。
私も、隻眼でそれを見つめ返す。彼の中の決意のような何かが分かった気がした。解らなかった気もした。
それこそ、駄々だった。癇癪めいた駄々だった。
逃げたい訳ではない。逃げてほしい訳でもない。だけれど、これ以上を彼に強いるのは、私には出来なかった。
「それが、なんや」
静かな声が落ちた。言い返すいくつもの言葉があったはずだった。だけれど、言い返すべき一つ一つの言葉を、言うべきではない気もした。
太陽は沈んでしまって、僅かな残光さえ消えた。夜がそこまで迫っている。私たちを映すのは、縁側の内側、障子のからこぼれる細い灯りだけだった。
「それが、なんや」
彼はもう一度、重ねて言った。
「好いとる女と添い遂げられるんやったら、そんなん、俺にしてみりゃどうでもええくらい些細なことや」
(ああ……)
そう、や。
我が侭な私は、これが聴きたかったのかもしれない、と思った。
明陀とか、責任とか、跡目とか、そういうものをかなぐり捨てて、お前が欲しいと求められることの幸福に、浸りたかったのかもしれない、と。
全てを飛び越して、それでも欲しいと言ってくれる、彼が欲しかった、という、我が侭。
それは、ある意味で、ずっと明陀のためだけに生きてきたからなのかもしれなかった。その道が、結果的に元のそこに留まり続けることになるとしても、それなら、良い気がした。なんて分かり易くて、我が侭で、可笑しな私、と思ったら、ふふ、と小さく笑いが漏れた。
「そーいうお前はどうなん」
笑ったら、ちょっと怒ったように、それでいて照れたように志摩が言った。
「ん?」
判っていながら訊き返してやったら、ぽすっと抱きしめられて、それから彼のあごが肩に載せられる。そうして、肩口で不満そうな声がした。
「俺が『結婚しよう』て言うのは、責任とか、罰とか、まだそないなふうに思とるん?俺んこと嫌いか?」
「大の男が、そないなことも聞き出せんでどないするつもりなん」
だから私は、少しだけ意地の悪い気持ちになって、彼を笑う時のような高飛車な口調で言ってやった。そうしたら、抱きしめる腕の力がぎゅうっと強くなる。
「いけずな女や」
ヘービ、と、阿呆みたいな悪口を言ったくせに、彼は抱きしめる腕も緩めないし、肩口にうずめる顔も動かさない。
それが可笑しくって、それが愛おしくって、私は彼の肩越しに見える藍色の空を見上げた。
「夜になったら」
「…ん?」
彼は不思議そうな声を出した。意味が知れないからだろう。
「夜になったら、決めたるわ」
夜の帳が下りようとしている。帳が下りたなら、宵闇が世界を塗りつぶすだろう。
その、誰にも見えない闇の中ならば、応えを言える気がしたから―――
「宵まで待ちや」
謎掛けのように、私は小さく言った。
宵闇は、すぐそこまで迫っている。
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宵を待つ人々
2013/6/19