夜が冷えていく


 ごめんという一言が言えなくて、夜の下で声を殺して泣く。

「ごめん、柔造、ごめん」

 私が謝るのはいつも夜。
 彼が聞いていない時。

「ごめんな」

 繰り返された謝罪を、彼が聞いていないことを私は知っている。





 柔造と結婚することになった。
 表向きの理由は単純明快、不浄王の咎を負わせ、監視するには僧正家の人間と結婚させるのが一番手っ取り早い、というもの。

「勘違いすんなよ、俺はそんな理由でお前と結婚するわけやない」

 そう言われた時、でも、私の中に生まれたのは   。

「そういう建前が一番手っ取り早いだけで、俺は」


 やめて。
 言わないで。
 やめて。


「お前がずっと好きやってん」

 耳を、ふさごうとした。
 いや、違う。ずっと耳をふさいでいた。

「愛してる」


 知っとる。


「誰よりも」


 分かっとる。


「だから、蝮」


 だから、柔造


「結婚しよう?」


 私に拒否権なんかなくて、私は肯く以外の術を持たなかった。





「ごめん、好きや、柔造」

 押し殺した謝罪と、彼が寝ている時にしか言えない本心は、結婚前に二人だけで同棲は必須、と騒ぎ立てて成立した小さなアパートの寝室に、空しく響いた。隣で寝ている柔造が起きることは、ない。

「浅ましい、の。あての、好きは、ほんまに、柔造みたいにきれいやないの」

 彼の口から「結婚が罰」で「僧正家が監視するから俺が」と言われた時、私の中に生まれた感情は「嬉しさ」だった。
 柔造が、私のことを好きで、私が柔造のことを好いているのは、明陀の中ではもはやよく知られたことだった。表向き派手に喧嘩していようとも、誰も何も言わないのはそのためだ。その一方で、大人たちは、あるいは当事者である私たちは、それがどんなに無駄なことか分かっていた。分かっていたから誰も口を出さない。
 僧正家の総領二人の行く末を、真剣に考えたことのある人間など、明陀にはいようはずもなかったのだから。
 ただでさえ血統の減り続けている僧正血統、元々の能力、明陀という組織―――あらゆる面から、柔造と私の感情が成就することはあり得ないことだった。

「いつかあてもあんたも家を継いで」

 志摩と宝生両方の僧正の血統を残して。

「あてらはその為だけに、今までずっと生きてきたから」

 そんな当たり前のことに、どこかで反発するように、反発しながらも逆らいきれないのを知るように、私たちの表面的な衝突は回数を増した。
 傷付けあった方が、なんぼかまし。
 互いの思いを知っていた。
 好きだと知っていた。愛していると知っていた。
 だけれどそれが、どうしたって叶わないとも知っていた。
 だから、その感情が叶うかもしれない大義名分が転がり込んだ時に、私は嬉しいと思った。その引き金を引いたのが自分だと知りながら。

「ほんまに、浅ましい」

 柔造みたいに、本当に好きだと言えたなら、どんなに良かっただろうと思う。
 どんなに、楽だったろうと思う。
 でもその一方で、それでは何一つ叶わなかったのだと知っている。

「ごめん、な」

 あんたのきれいで優しい感情を、利用して、その愛を甘受する私は。

「あては、」

 私は、

「愛してるなんて言われへんの」

「なんで」

 かすれた低い声が、私の言葉に反問して、それから大きな腕が私を抱き寄せた。

「起きて、たん?」
「あー、お前がなんぞ意味不明なこと毎晩言いおるのは知ってるえ」
「ずっと…?」
「おん。あんまり意味不明すぎて毎晩検証してみたけど、やっぱり意味不明やったわ」

 それから、「眠い」と事も無げに言って、彼は私を抱きしめる腕に力を込めた。抜け出したくても抜け出せない彼の腕の中で、私は泣くしかできなかった。

「あー、泣くな泣くな。こない毎晩泣いてたら涙も尽きるわ」
「や、って、あて」

 あやすようにぽんぽんと頭をなでてそれから、彼は言った。

「俺も同じやから」
「……え?」
「やって、そうやろ?今回のことあらへんかったら、好いた女みすみす逃してまうの分かってたんや」

 柔造の肩口に押し付ける格好になった顔は持ち上げられない。多分、彼は今私に顔を見られたくないのだろうと思った。

「分かってて、俺は平然としてた」
「それは、やって」

 仕方ないこと、と言おうとしたけれど上手く言葉にならなかった。

「自分でも、可笑しいくらいやったわ。お前と喧嘩して、思い出作りでもしてた気分なんやろなあ」

 ずきりと胸が痛む。それは私も一緒で。
 明陀を裏切るとしても、裏切らないとしても、彼と一緒になることなどできなくて、だから殊更に喧嘩をして、感情と逆のことをしながら彼との記憶を作ろうとして。
 そう、それは多分、私の方が大きかったように思う。
 裏切ると、決まっていたから。
 裏切るその日まで、彼との時間を、記憶を、一つでも多く、一つでも取りこぼさないように、必死だった。

「お前が死にかけて、やっと目が覚めてん」

 柔造の声が震えているような気がした。確認したくても、相変わらず、顔は持ち上がらない。

「大事な女なんぞ、お前以外におらんのに、俺は何をしとったんやろ、てな」
「じゅう、ぞ」
「お前以外、好いた女も大事な女もおらんのに、俺はどうにもならんことをどっかで受け入れてた。阿呆やなあ」

 そんなことない。
 それは私も一緒だから。
 私たちは―――

「ほんまに阿呆や。お前が死にかけて初めて「あ、ヤバい」って気付いた。どうにもならんくても、明陀にいる限り一緒やってタカ括ってた。それでいいんやって、どこかで納得してた」

 訥々と彼は言った。
 秋の冷たい夜が部屋に満ちていた。

「納得でどうにかできる感情と違うって、そこで初めて気が付いた。気ィ付いて、そんでお前も俺も、明陀も無事やったら、俺はもうどんな卑怯な手でも使ったろって思った」

 多分、と小さく言ってから、彼は私を抱きしめる手の力をさらに強くした。そんなことしなくても逃げないと、伝えられないのがもどかしかった。

「多分、お前が一番逃げられんくなる口上を、俺は持ってった。丸く収めるとか、そういうことやない。僧正家のこととか、今回の責任とか、咎とか、そういうもん持ち出せばお前が逃げられんのを知ってた。知っててやった」
「柔造、あては」
「うん。分かっとる。俺もお前も互いに好きやし愛してる。これは嘘やって言うた。言うたけど、その嘘で縛ってたのは嘘やないやろ。俺は案外卑怯やから」

 な、と彼はやっと力を緩めてくれて、私はやっと困ったように笑うひどい顔をした男を見つめた。点けっぱなしの小玉電球が、柔らかな橙色で彼のその顔を映し出す。

「ちゃんと、伝えていかなあかんなあ。俺、今むっちゃかっこ悪い気ィするわ」
「そんなこと、ない」
「お、じゃあかっこええ?」
「それは言わん」
「この期に及んで恥ずかしがる蝮ほんま俺の天使」

 天使だの女神だのと、訳の分からないことを言いだした彼のその口許に小さく指を宛てる。

「あての間違いは、誰に許されることでもない」
「おん」
「そやけどあては」

 言ってもいいのだろうか、と思う。
 言ってしまったら、もう帰れない。
 その罪ごと、生きていかなければならない。
 そう思って彼の目を見つめる。
 見つめ返す強い瞳に、その罪ごと生きていくとしても、この男が一緒やと思った。

「あんたが好きや。一等好きや。愛してた。これからも愛してる」

 柔造は満足そうに笑った。
 ごめんという、彼に届けるまでもない謝罪は、もう唇から出てこなかった。

「じゃあ、もう心配事はあらへんか」
「うん」

 安心したら、もう夏からずっと続いているこの夜の儀式のような謝るという行為が遠ざかっていって、そうしたら、ひどく眠たい気がした。
 長いこと、安心して眠っていなかった気がした。

 それは多分、明陀を裏切ると決めてからずっと。
 あるいは多分、彼との思いが絶対に実らないと確信してからずっと。

「じゃあもう寝ようや。寝不足は肌に悪いやん」
「う…ん…」

 うとうとしている私に、柔造は変なことを言った。
 変なこと?

「白粉も綺麗に乗らんかったら、蟒様に怒られるわ」
「…?」
「明日、出掛けような」
「うん…?」
「着物とドレス両方な」

 カチッと彼は電気の紐を引っ張る。
 部屋が暗くなって、私は彼にもっと近く抱き寄せられた。
 秋の夜が冷えていく。




2014/10/14 ブログ掲載

2014/11/14