夢の噺
『兄さまー柔造がまたちゃんとお風呂につからんの!』
『うっさいわ、長風呂!』
浴室の外に向かって蝮が叫んだら、柔造は捨て台詞のようにそう言って風呂から出ようとする。
『あかん!まだあったまってへんやろ』
『ええんや!』
二人の言い合いが、浴室にこだまする。
―――見兼ねた兄が笑いながらそこに来るまで、いくらもかからなかった。
「…!」
目覚めた己の呼吸が荒く、過呼吸気味になっているのを、蝮はどこか遠くの事のように感じた。はあはあと荒い息が独りの部屋に落ちる。
そうして、自らが今まで見ていた夢のことを思い出した。
それは繰り返しなぞられた夢だった。だから、蝮は恐る恐る自らの右目に手を伸ばす。
「ない……」
安堵に近い声音で、彼女は自らの右目が空洞であることを確認する。もし、そこにまだ右目があったなら、夢から上手く還れていないことになるから。
―――夢はいつも、幸せな場面から始まる。罠のように。
誰一人欠けていない、幸せな記憶が、甘い罠のように夢の中へと彼女を誘う。そうして、一つずつその幸せが欠けて行く様を見せる。幸せな場面は増えないのに、その幸せが欠けていく様は、年を経るごとに増えていった。
学園に行く前は、あの夜のことと、兄を失ったことを繰り返し夢に見た。
学園に行ってからは、それに加えて明陀という形を失うその日の夢を見た。
学園も半ばになれば、明陀の大人たちの裏切りを夢に見た。
卒業してからは、大人たちが明陀を捨てていくそれを夢に見た。
そうして、右目を失ってからは、自らが引き起こしたその悪夢を、夢に見た。
それから半月ほどが経った。じわじわと蝉が鳴いていたけれど、枕元の時計はまだ朝の5時過ぎを示している。虎屋の一室で、熱を帯びた全身を持て余すように蝮は体を起こした。それから、その寝床をそろそろと出る。右目のあった場所が一番熱くて、そうだとしたらやっぱりこれは夢の続きではなくて現実なのだ、と思った。夢の中の彼女には、まだ右目があった。そうして蝮は細く縁側に続く戸を開ける。
「あつい」
熱くて、熱くて、その戸を大きく開けると、裸足のままで坪庭に躍り出る。しゃりしゃりと玉砂利が足の裏を撫でて、それから細い草が白衣の間から伸びた素足に触れた。
不浄王の件はまだ完全に片付いた訳ではなく、諸事のために虎屋は未だ聖十字騎士團が借り上げていて、損壊した京都出張所の代わりとしても使われているので、客人を起こす心配はなかった。坪庭には鹿威しと柄杓の備え付けられた小さな水辺があって、裸足のままそこまで辿り着いた蝮は、熱い熱いとうわ言のように繰り返しながら、その柄杓で以て水を掬うと、何も構わず頭からそれを掛けた。
それでも右目の熱は収まらない。
熱い、熱い。
怖い、恐い。
心の中で繰り返して、何度も何度も柄杓で掬った水を被る。鹿威しは、困ったように動きを止めていた。
「何しとん!?」
ただ、あつい、こわいとそればかり考えて水を被ろうと柄杓を持った手をパシッと掴まれる。それに、蝮は振り返ることもできず呆然と柄杓を取り落とした。ぱしゃんと足許に朝故か冷え切った水が落ちて、それから動きを止められていた鹿威しがかこんと鳴った。まるで、時間がやっと動き出したように。
「何しとんのや」
今度は先程とは違い、落ち着いた声音で後ろからその水を被るという愚行を止めた男が言った。
「し…ま…」
声は掠れた。掴まれた手首が熱い。
熱い 熱い
融けてしまいそうなほどに
右目の空洞には、もう融けるものなどないのだけれど
「何しとんのや。風邪引くえ」
返答がないのは仕方がないと思ったのか、だけれどもう一度何をしているのか問うた後で、声の主である柔造はクンっと掴んでいた蝮の手首を引いた。
何をしていのるか、なんて、見てしまえば明白だった。水を被っている。それ以外ない。何故そんなことをするのか、と問いたかったのかもしれなかったけれど、それもまた明白な答えしか返ってこない気が、彼にはした。
「志摩、ええから…っ!」
そう言った蝮に構わず、柔造は引いた彼女の手から体重を感じさせない動きで蝮を抱き上げた。
「風呂入るえ。風邪引く言うたやろ」
「志摩、やから!」
反駁を、彼は口付けで止めた。その、あやすような口付けが、悪夢と水の冷たさを少しだけ融かして、蝮は知らず安堵する。結婚の話も、交際の話も断ってばかりいるのに、理不尽な女だと自分で思いながら―――
こう見えて、柔造は一番隊の隊長である。ついでに言えば僧正家の跡目。魔障の頃は広間に転がされていたが、今は客間を与えられている。
ばたばたと反抗しようとする蝮に、周りが起きたらどうすると脅しを掛けて連れてきた客間の、今まで己が寝ていたそこに彼女を降ろすと、備え付けの温泉を確認する。
「脱げ」
「な…!?」
「そんなん着たままやとほんまに風邪引く。馬鹿しか引かんぞ」
夏風邪のことか、と思い至って、そう言えば寝間着代わりに着ていた白衣がびしょ濡れだったのに気がつく。自分でやっておきながら気がつかないとはお粗末なものだ。
「俺の浴衣貸すさかい。端折れや。それとも白衣の方が楽か」
あるけど、と衣紋掛けに吊るされた衣を示したら、蝮は観念したように白衣の帯を解く。
「……白衣借りる訳にいかんやろ」
白衣も黒衣も、身丈が合わないうえ仕事道具だ。着る訳にはいかない。
蝮がびしょ濡れの白衣を脱いだら、その下は下着だ。だが、それも濡れてしまっている。それを柔造がまじまじと眺めるものだから、やっとこの状況に思い至った蝮は叫び声を上げる。
「何見とんのや!?」
「いや…やせたな、思て」
「っ……」
そう呟くように言いながら、柔造も寝間着代わりの浴衣の帯を解く。
「……は?」
「カラスの行水じゃ意味ないから見張り」
そう言って、柔造はレースの下着を付けたままの蝮を先程のように抱え上げてそのまま浴室に向かった。
とぷんと蝮を湯船につけて、そのまま自らも入る。広すぎるそこは、二人で入っても余る面積だったが、柔造は蝮を抱えたまま離さない。
風呂に二人で入る、ということで、もっと抵抗されると思ったが、蝮は何も言わずに抱えられてその湯船につけられたままにされていた。それが少し可笑しくて、そうして不安で、柔造は口を開く。
「なあ」
「カラスの行水いうたら、あんたの方やったやないか」
だが、彼の言い掛けた言葉を遮るように蝮が言った。
「ちゃんとあったまれて言うても、つかれて言うても、言うこと聞かんかった。結局兄様がいっつも見に来てくれはった」
兄様、と彼女の口からこぼれた言葉に、柔造は思わず抱きかかえる彼女の首筋に鼻先を埋める。埋めたそこはまだ冷たかったけれど、甘い香りがした。
「せやな」
短く応えたら、蝮が少しだけ笑ったように、肩が動く気配がした。
「あんたは今でもカラスの行水やけど」
「なあ、蝮」
「……ん」
「なんで、あないなことした。水ぶっかぶって、体に障ったらどないするつもりや」
「……夢」
腕の中で、もういない兄の話をする彼女に、何となく察してしまったこともたくさんあったのだけれど、柔造は縋るように訊いた。どうして、なぜ。そんなの、分かっていたのだけれど。
「夢、見た。兄様が居って、あんたと風呂に入って、兄様が死んでまう夢」
それは正確には夢ではない。現実を何度も何度もなぞっているのに過ぎないのだ。だからこそ、その情景を彼も明確に思い出すことが出来た。
だから、その言葉がひどく辛くて、柔造は蝮の両の目を濡れた手で覆った。
「怖かったな」
(嗚呼……)
怖かった。そうだ。怖くて、熱くて、恐ろしくて、今すぐにでも逃げ出したかった。だけれど、それを誰も許してくれないのだ。その兄ですら。その死は、その空白を埋めよと言われたに等しかった。逃げ出すことを誰も許してくれはしない。その中で、ただ一人だけ、許してくれるのが、今体重を預ける男なのだと知っていた。
それは、彼がその恐怖を許されない時に唯一許すのが己であるように。
湯船に満ちた湯が、ゆっくりと体を温める。
怖いことを怖いと言うことを、誰も許してくれなかった。兄ですら。だから、この手が怖いもの全てを見えないように己の目をふさぐのに、蝮は、今だけひどく安堵した。
向き合わなければならないことがたくさんある。ありすぎる。だけれど、一時でいいから「怖いもの」を遮る者が居てくれるのが、今も昔も救いだった。
逃げ出すつもりなど毛頭ないとも。逃げ出すくらいなら背負うとも。
だけれど、どうしたって逃げ出したい時がある。そのことを察してくれるのは、いつも彼だった。
「もう、大丈夫や」
唄うように彼女は言った。一時でいいのだ。一時、目を鎖してくれれば、それで立ち直れる。夢は、夢でしかない。
「何が大丈夫や」
立ち上がろうとした蝮を、柔造が制して抱え直すともう一度湯船につける。
「怖いんやろ」
「……それ…は…」
「俺だって、怖い」
「…っ!」
その、端的な一言に蝮は目を見開いた。後ろから抱え込む彼には見えなかっただろうけれど。
「夢、見るんやろ。矛兄とか、いろんな。そりゃ、俺も一緒や」
「!一緒な訳ない!あては明陀も和尚様も父様も妹も兄様も裏切って!」
「俺は、お前を助けられんかった時のこと夢に見るえ」
「え……?」
「いっとう愛した女がぼろぼろになった姿、助からんかもしれん恐怖、全部、夢に見るわ」
「し…ま…」
震える声で彼女は言って、抱きしめる彼の腕を振りほどくとぐるりと振り返った。案の定、彼は泣きそうな顔をしていた。だけれど、掛けるべき言葉が見つからないのだ。ちゃんぷんと水面が揺れた。
「やっぱし、俺らじゃ矛兄みたいにはなれんかったな」
「阿呆…なってほしいともなりたいとも言うてへんわ」
柔造は、とその泣きそうな彼に昔のように名を呼んでその胸に額を預ける。
「柔造は柔造やから。それで、あては十分や。兄様にはなれんくてええ。ならんでええ。柔造やのうなってもうたら、あてはどこに行けばええんや」
懇願のようにそれが聴こえて、柔造は困ったようにその髪に触れる。とても柔らかな髪だった。
「あても…兄様の欠落を埋めようとしてきた。でも出来んかった。それでもええって、あてがええって、あんたが言うんやろう?」
「……せやな」
「夢は、どこまで行ったかて夢や」
諦めたように、蝮は柔造を通り越した遠くを見つめて言った。
「夢の中で何度なぞっても、兄様は戻らん。でも―――」
その先を言われる前に、柔造はもう一度彼女に口付けた。
「今俺は、お前を失いとうない。戻らんものを勘定するより、お前を失いたない」
言いたいことは、二人とも一緒だった。それがどうにも可笑しくて、そうして、体はずいぶん温まったから、蝮はざばんと湯から上がる。
「申、たまの長湯はのぼせるえ。上がり」
そう言った彼女の姿は、下着が濡れて透けているアレである。というか今まで柔造はタオルを巻いていた訳だから問題ないとして、抱えていた蝮はそんな姿な訳である。
「い…いや!俺、もうちょい朝風呂にするわ!新し浴衣脱衣所にあるから、適当に着や。端折れば大丈夫やさかい!」
柔造が感じている視覚的刺激の意味が分からない蝮は、ほうか?と不思議そうに言って浴室から出ていった。
―――客間にいた、だぼだぼな彼シャツならぬ彼浴衣を着た蝮は、柔造の計算外ではあったけれど。
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夢の噺をいたしましょう
2013/08/18