「ねえ、剣ちゃん」
「なんだ」
「あたしは、やっぱり……」
「望みってのは、誰かが肩代わりしてやれるもんじゃねえ。解るな」
「……うん。やっぱり…何でも、ない…よ」
松樹千年翠
昨日、シュウちゃんが剣ちゃんの隊首室に来たとき、あたしは床の間の天袋で二人の会話を聞いていた。
あたしは、シュウちゃんに剣ちゃんが言うより早く、けんせーが九番隊の隊長に就任することを知っていた。隊長以外には秘密なのだろうけれど、剣ちゃんにとって、それは頓着すべきことではなかったのか、それともあたしに伝えておくべきだと思ったのか。昨日は、正式な就任式の三日前だった。
剣ちゃんは苛立ちや、シュウちゃんに対する心配事とか、けんせーを殺してやりたい衝動とか、様々なことを総括するように殺気に近い霊圧を放っていて、シュウちゃんはシュウちゃんで、新たな隊長が就任することへの不安と度し難い感情や、いろんな、これまでの思いで、怜悧な霊圧を放っていた。あたしはというと、天袋の中で、けんせーに対する苛立ちや、シュウちゃんを置いて行った死神たちへの苛立ちやら何やらで、平の隊士なら霧散するような霊圧をにじみ出していたけれど、二人のそれには全然敵わなくて、シュウちゃんはあたしの存在に気が付かなかった。
二人の会話が終わって、シュウちゃんが「もういい」と様々な懊悩を籠めて言い、隊首室を出て行ったところで、あたしは言った。
だけれど剣ちゃんは、「望みは誰かが肩代わりしてやれるものではない」と言った。それは、確かにそうなんだろうな、と思う。シュウちゃんが望むのなら、けんせーが隊長に戻るのは、いいことなのだろう。だけれど、それは本当にシュウちゃんの望み?と思ったから。だけれど、望みを肩代わりすることなんて、やっぱり出来ない。
憂鬱な気持ちでいるうちに、夕暮れ時に伝令神機が鳴った。シュウちゃんからだった。
『明日の昼空いてるか?空いてたら昼食べよう。更木隊長も一緒に』
書いてあったのはそんなことだった。もちろん、それはとってもうれしいことだし、それに、今日あったことに、少しは区切りがついたのだろうか、と思ったら、あたしは少しだけ期待してしまう。だけれど、同時にちらちらと不安が過ぎりもする。
『シュウちゃんが作ってくれるんだよね!』
そういういろいろを覚られないように、努めて明るく返信したら『もちろん。重箱に握り飯詰めて、俺の好きなウィンナーとかも。期待していいぜ』と返ってきた。あたしはほっとして、それを剣ちゃんに見せる。
「まあ、久しぶりに修兵の手料理食うのも悪くねえな」
剣ちゃんは、今日のことなんてまるでなんにもなかったみたいに薄く笑って、やちるも俺も行けるって返信しとけ、と言った。剣ちゃんは伝令神機を上手く使えないからだった。
***
昼を食べる、と言ったら、けんせーが大雑把な料理を作っていた頃から、けんせーがいなくなって、死神になったシュウちゃんが重箱いっぱいの手料理を作るようになった今まで、この大きな木の木陰と決まっていた。昼、という大雑把な時間と、場所の指定は全くなかったのだけれど、あたしと剣ちゃんはその場所に迷うことなく行った。そうしたら、やっぱりシュウちゃんはござを敷いて、重箱を広げて、箸や取り皿を用意して、その木陰で待っていた。
「待たせたか」
剣ちゃんが言ったら、シュウちゃんは笑った。
「全然。準備してましたから」
シュウちゃんの料理は美味しい。独り身だから、なんて自虐的なことを言うけれど、本当に美味しい。だからあたしと剣ちゃんは用意されたござに座って、シュウちゃんはあたしたちに取り皿と箸を渡した。
「大したもの、用意できなかったんスけど」
重箱の中におさめられたおにぎりと、煮物やシュウちゃんの好きなウィンナー(あたしも好きだったからうれしい)、出汁巻き卵、ちょっと凝ったお浸しなどがぎっしり詰まっていて、とても彩りの綺麗な重箱だった。
「すごーい!」
「期待していい、って言っただろ?」
「あたし、シュウちゃんの作ってくれたの食べるの大好きなの。剣ちゃんもだよね!」
笑って振ったら、剣ちゃんはどこか居心地悪そうに、だけれど「ああ」と短く答えて、重箱に箸をつける。
シュウちゃんの手料理を黙々と食べる剣ちゃんと、いろいろ言いながら食べるあたしを見ながら、シュウちゃんはちょっとだけ困ったように微笑んだ。その笑顔が、少しだけ、哀しそうだったのが、あたしにはよく分かってしまって、だから、どうしようもない感情ばかりが過ぎる。
「昨日の、お詫び、って言えたら良かったんスけど、なんつーか、一緒に食いてえな、って思って」
ばつが悪そうに頭をかいたシュウちゃんに、あたしは絶妙な味加減の出汁巻き卵を飲みこんで、それから、彼がそうやって微笑うのなら、多分言ってはいけないことで、同時に言わなければいけないことを口にした。
「シュウちゃん、あたしのこと、好き?」
それは、恋とか、そういうものを飛び越した問だった。
コイ、なんかじゃない。幼い時を共にした者の中にある、恋慕ではない。
どちらかというなら、愛に近い。これを、愛だ、と言い切ることは、少しだけ憚られたけれど。
彼は、一瞬虚を衝かれたような顔をした。あたしの隣の剣ちゃんの気配は、全く変わらなくて、それどころか、何も知らないというふうに、煮物に箸をつけている。
一瞬だけ虚を衝かれたような、驚いたような顔をしたシュウちゃんは、だけれどそれから、やわらかで、やさしくて、そうして、触れたら壊れてしまいそうなほど、静かに微笑んだ。
「大好きだよ、やちる」
好き、という返答よりも、彼が『やちる』とあたしの名を呼んだことの方が、ずっとずっと大切だった。
「剣八のことも……けんせーのことも、俺は変わらず大好きだよ」
「そうか」
あたしたちの名を呼ぶそれに、言葉が見つからなかったあたしの代わりのように、隣の剣ちゃんが静かに答えた。その一言を聴いたシュウちゃんは、どこか安堵したように、いつでも緑色をしているその大きな木の枝に視線を上向けた。
「あなたから、昨日、拳西さんが隊長の任に就くと聞きました。そう聞いた時、俺はどうしたらいいのか分からなかった。喜ぶべきなのか、嘆くべきなのか。喜ぶべきなんでしょうね、本当なら。でも、手放しには喜べない気もした」
静かに、彼は言う。あたしはそれを、黙って聞いていることしか出来なかった。
「俺は、何も知らないんです。知らなかった、じゃない。今でも、きっと何も知らないんです」
呟くように彼は言って、その、怜悧ですらあり、同時に壊れてしまいそうなほどやわらかな視線を、あたしたちに向けた。
「俺の過ちを正すことは、俺にしか出来ない」
はっきりと、彼は言った。
「忘れることなんてできない。何一つ。拳西さんに助けられたことも、仲間を救えなかったことも、戦いの矜持を知ったことも、全てを知らなかったことも」
彼の誇りである副官章に描かれた隊花を白罌粟という。忘却を示すそれが、彼に相応しいのかどうか、あたしでは分からない。
「拳西さんみたいに、強くて、折れることも、迷うこともない死神になりたかった。それは今でも変わらない。あの人は、俺の中の憧れそのものだから。だけれど、実際に死神になろうとして、俺は仲間を見す見す死なせてしまった。その時から俺の中にあったのは、剣を持つことへの恐怖だった。だけれど、隊長…東仙は、それを是とした」
彼は、苦虫を噛み潰すような顔を一瞬だけした。隊長、と呼んでしまった死神を、言い直した時だった。彼はやはり、一隊の副官に相応しい死神だ、と、副官として少しばかり先輩で、だけれどちっとも見本にならないあたしは思った。
「六車拳西という死神が、九番隊の隊長に再び就任するというのなら、それは喜ぶべきことでしょう。この隊は、長きに亘って、反逆により長を失っていたから。だけれど、彼だろうが、誰だろうが、この隊の隊長に新たな死神が就く、ということは、ほとんど同時に、俺の中にある恐怖や、矜持を、捨てなければならないことかもしれないと思った」
言わなければならないことがたくさんあった気がした。だけれど、言葉は声にならなかった。そうして彼は、あたしが言葉を挟む間もなく、静かに微笑んで続けた。
「でも、誰だとしても、それが拳西さんだとしても、あなただとしても、やちるだとしても、あるいは、東仙…隊長その人、だとしても、慕うべき誰だとしても、俺の中にあるその矜持や恐怖を、否定することはできない、と思う」
彼の中にある、様々な懊悩を、あたしは、あたしたちは知っていた。知っていたけれど、少なくともあたしは、そこにどうやって手を入れるべきなのか、あるいは手なんて出しちゃいけないのか、考えあぐねていた。
遠い過去も、今も。
だけれど彼は、その様々なものを呑み込むように、乗り越えるように、強くなっていたように思う。それは、全てが終わり、彼が慕ってきたたくさんの相手との別離を思って寝台の上「強くなったか」とあたしに問いかけたあの日に感じた、薄氷を踏むような、哀しい強さじゃない。
泣きたい時に、泣けないような、間違った強さじゃない。
剣ちゃんは何も言わなくて、だから今度はあたしが何かちゃんと言わなきゃいけない気がした。言葉はたくさんあって、でも一つ一つが霧散する。その中から手繰り寄せた言葉は、そのままの一言だった。
「強くなったね、シュウちゃん」
彼の望みを、誰が肩代わりできるだろう。
あたし?剣ちゃん?けんせー?
彼が失ったあの子たち?彼の慕った死神?
それとも、だあれ?
答えは、だあれも肩代わりなんて出来ないということだけだった。
「ねえ、―――」
私は言葉を継ごうとして失敗する。ぽたり、ぽたりと、彼は小さく涙を流していた。
ねえ、明後日には懐かしいのが来るの。
ねえ、次はみんなでここに来よう。
ねえ、欠けてしまった全てのものを、取り戻せるなんて思わないの。
ねえ、昔のように笑って。
ねえ、昔には持っていなかった強さで笑って。
「ねえ、またお弁当作ってよ。みんなで食べよう」
あたしはそうとだけ言った。
彼は静かにうなずいた。頬を伝う滴が、彼をかつてのように幼く見せた。
色褪せることのない葉が、頭の上でやわらかな風に揺れた。
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「欠落」の翌日。やちる視点でその後。
ここまで、ありがとうございました!
2013/6/9