安逸を貪る人々

「蓮を食べると」

 晋作が三味線を奏でながらふと呟いた。唄ではなかったそれに、僕は三味線の音に耳を傾けながらめくっていた本から目を上げる。

「どうしました」

 問いに、晋作は珍しくひどく曖昧に笑った。

「蓮を食べると、あらゆることを忘れられ、安逸を得られるそうです」

 そう言われたが、僕には彼が何を言いたくてそう言ったのか分からずに、その本から上げた目のまま、白い手が三味線の撥に宛てられているのを見詰めた。三味線の音はもうしない。

「今日は急にお邪魔しました。帰ります」

 曖昧に笑ったままの晋作は、そう言って立ち上がった。

「君が急に来るなどいつものことでしょう」

 だから、何か、どこか空白のようなものを埋めるようにそう言ってみれば、彼はやはり静かに笑った。

「ええ、それもそうですね」

 その笑みが、ひどく遠い。





「失礼します」
「これは、吉田様。どうなさいました?返却期限まではまだ」

 紫式部殿に言われて僕はカウンターに読み終えた本を置く。

「ああ、やはり吉田様は探求心といいますか、いつも読むのがお早い」

 微笑んで言われて、苦笑に似た笑みを返しながら、司書である紫式部殿に問い掛ける。

「お伺いしたいことがあるのですが」
「はい?何かお探しですか?」
「ええ、ギリシャ神話の本はありますか?」

 そう言ったら式部殿はひどく驚いたようにしてからひとつ頷いて、僕に西洋の本が揃えられた棚の番号を示した紙を渡した。

「吉田様にしては珍しいような。どなたかからお聞きになりましたか?」

 問われて、普段は学術書ばかり読んでいるからだろうと思い、ふと彼女に笑う。

「蓮を食べると、と言われまして」
「え?」

 不思議そうな彼女に頭を下げて、僕はその本が納められた棚に向かった。





「ロータスイーター……」

 晋作の言っていた言葉を、図書室に来る前に自分で調べていたら、それはギリシャ神話の一節らしいということが分かった。深い意味までは分からなかったし、このカルデアにいるギリシャの神々に訊いてみようかとも思ったが、詳しいことは図書室で調べればいいと思い直し、今日は周回も何もないからと図書室に来て、閲覧室でその本を読んでいる。
 借りて部屋に持ち帰るほど長い内容ではなかった。
 ただ、ギリシャ神話の一節に、ロートスの実を食べるロートバゴスという島民がおり、その者たちはいつもその実のおかげでいつも夢見心地で安逸を得られ、平和的な民族であったと書いてあった。

「ロートス、ロータス……蓮……夢……安逸」

 ぼんやりと呟いて、僕は閲覧室から出て、その本を棚に戻した。





「晋作、僕です。入っても構いませんか」

 彼の部屋の自動扉の前でそう声を掛ければ、扉が開く。

「先生?珍しいですね、先生からいらっしゃるなんて」

 出迎えてくれた晋作を見て、後ろ手で扉を閉めて鍵を掛けた。そのまま彼の寝台の横に座れば、晋作もそのまま寝台に座る。

「何か御用でしょうか?」

 静かに訊いた晋作の紅い瞳を、思わず見つめる。

「晋作、君には忘れたいことがあったのですか?」

 問いに、彼は驚いたように目を見開いてから、それからまた昨日のようにふと曖昧に笑った。そうして何も答えずに三味線に手を伸ばす。

「それとも夢が見たかったのか?安逸を得たかったのですか?」

 問い掛けに、三味線が鳴る。ひどく静かで、ひどく悲しげな音色だと思った。

「先生」

 その狭間に、彼は僕を呼ぶ。

「なんでしょう」

 だから、だけれど、それでも、いつもの速度のそれにいつもの速度で応えれば、彼はどこか何か安堵したように、撥で弦を弾いた。
 緩く三味線が哭く。

「僕は、あなたの死も、仲間の死も、何もかも忘れられなかった。あなたの首を死後になって求めるほどに愚かでありながら、忘れられなかった」

 それは愚かではない、と言おうとしたが、その言葉は彼の冷たくどこか空虚な視線に遮られた。

「忘れることは罪でしょうか?蓮は泥から咲くことなど忘れて美しい花を咲かせるのだから、僕も蓮のようにすべて忘れてしまいたかった」

 蓮を食べて、と彼は続けた。

「それでも僕は忘れられなかった」

 そう言った晋作の手から三味線を奪い、僕はそのままその細い体を抱き留めた。
 記憶は濾過され、薄れ、そうしてそれでも痛みを彼に残し続けたのだと知っていた。彼のその心の一点に痛みを残したのだろうか、僕の死は、僕の首は。

「痛い」

 静かに腕の中で晋作は言った。

「安逸を、夢を、見ていたいのに」

 呟くように、願うように、彼は言った。


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2023/4/23