痛み

「お腹痛い」

 呟いて、リビングのソファでうずくまる。

「なんで、こう……」

 毎月毎月、と言ってみたが、どうしようもない。夕飯の準備もしていないのに、と思って高杉は自身の腹を撫でながら忌々し気に夕刻を示す時計を睨んだ。

「時間あるし、なんか、取るか」

 億劫な気持ちをこらえて、そう呟いた時だった。

「帰りました、大丈夫ですか、晋作」
「せん、せ?」

 同居人の松陰が帰宅して、そのままリビングに入ってきた。その音にさえ気が付かなかった、出迎えなかったという思考云々よりも、いつもの帰宅時間から考えればずっと早いその時間、まだ夜ではなく夕刻と言って差し支えない時間だったことに目を見開いて、それから自身の不調を隠すように、うずくまっていた姿勢から立ち上がろうとした高杉を、松陰は軽く制してそのままソファに戻した。

「どうして横になっていないのです」
「え?」
「ああ、夕飯は買ってきました。今の君でも食べられそうなものもあるので、出来れば食べてくださいね」

 言われたことの意味が分からず、高杉の混乱は深まった。痛みは引かないが、それ以上に、というよりも、自身の不調……というよりは生理的な現象を見抜かれていることの方が幾らも気持ちを焦らせた。

「あの……先生、その……」

 小さく訊いてみたら、ソファの隣に座った松陰から手近にあった膝掛を掛けられる。

「月経でしょう。周期が分かるまで時間が掛かってすまなかった」
「え……」

 あっさりと言われたそれに、どう応えていいのか分からずぽかんと返したら、彼の武骨な手がするりと高杉の腹辺りを撫でた。

「ソファでは駄目です。横になりなさい」

 そうして言われた言葉に、ぽろりと高杉の目から涙が落ちる。情緒が不安定になるのも本当にやりきれない、などと思いながらも、それでも松陰に言われた言葉が気分を滅茶苦茶にしたことには違いがなかった。

「なんで、知ってるんですか。駄目です、先生に迷惑を掛けてしまった。そんなの、駄目……寝るなんて、できない……ご飯も、作ってないのに、なんで」

 月経で情緒が不安定になっても、彼女は物や人に当たる性格ではなかったが、それでもどうしても言わずにはいられない言葉をぶつけるように並べ立てたら、松陰から抱き寄せられる。その腕の中で高杉はぽろぽろとまた涙を落とした。

「同居を始めてどのくらいでしたかね、確かに女性にこんなことを言うべきではなかったのでしょうが、月経周期くらいは把握できます。というか、把握しないと僕がやっていられない」

 そう言ってぽんぽんとあやすように高杉の頭を撫でれば、段々と落ち着きを取り戻した様子の高杉が松陰の腕の中でゆっくりと息をつく。

「あの、先生はなんで……」
「なんでも何も、君が苦しいときに何もできないのが嫌だからです。恋人が苦しい思いをしているのに、何もかにもさせられるほど出来た人間ではないですから」

 そうさらりと言って、頭に載せていた手を彼女の背中に宛てて、やはりあやすように撫でた。

「完全に分かるまで少し時間が掛かりました。僕に迷惑だと思ったのでしょうが、君はずいぶんと隠していましたね。その割に、ずいぶんと毎月重いようだ」
「あ、の……」

 嬉しさと困惑と、それから痛みに思考がぼんやりとして、高杉はそのまま松陰に寄り掛かるように抱き留められた。そうしたら、一定の間隔で背中を軽く叩かれて、それが合図になったように段々と眠気のような、そうして痛みが収まったわけではないが、どこか心地好いような感覚が彼女を支配する。

「眠いでしょう?疲れてもいるだろう。寝てしまいなさい。そばに居ますから」
「で、も……先生に、こんな」

 こんな姿、と思って口にすれば、松陰は優しく笑うだけだった。

「どんな姿でもいいですよ、大好きですから」
「あ……」

 言葉に何と返していいのか分からないまま、困ったように、それでも嬉しさもどこかにあって呟けば、それすら汲み上げるように松陰は高杉を抱き締め続けた。苦しくならない範囲で、と思いながらも、もっと早く帰りたかった、もっと早く知りたかった、もっと、もっとという自分の感情を抑えつけるように。

「寝ましょう、晋作。夕飯も、風呂も、後でいいではないですか」

「でも……」

 うとうとと彼の腕の中が心地好くてどこか意識が飛びそうになっているその痩躯を、松陰は抱き上げた。

「全部僕がやりますから、晋作は何も心配しなくていいのですよ」
「せんせ、でも」

 言葉を紡ごうとした唇に軽く口付けて、その言葉を吸い上げる。そのままベッドルームに彼女を運んで、ベッドに寝かせて、自身も隣に横になる。不安な時ほど、近くに誰かがいないと眠れないのが彼女だったし、何よりも松陰自身がそうしたかった。

「寝てしまいましょう、もう」

 そう言って抱き締めてやれば、腕の中で高杉はこくんと頷いた。
 その小さな動作に安堵したように、松陰は彼女の背を緩く撫でた。





「……ん」

 目を覚まして最初に彼女の視界に入ったのは、恋人の大きな胸板で、抱き締められて寝ていたと自覚した瞬間に、飛び起きて詫びようとした高杉を、松陰の腕が軽く抑えた。

「目が覚めましたか。少しは眠れたようで良かった」
「先生!あの、違うんです!ごめんなさ」

 混乱して、そうして不安になって言った彼女の唇を、松陰は自身のそれを重ねて塞いだ。

「この期間は謝罪をしないことを約束してくれませんか。君は何も悪くない」

 そう言われて、眠りに落ちる前のやり取りも思い出し、高杉は本当に泣き出しそうになったが、緩く抱き止める松陰の腕の中の心地好さに安堵している自分を見つけた。

「は、い」

 小さく返して、笑った彼に支えられるように起き上がる。

「まだ九時です。明日から休みで良かった。何か食べますか?」

 優しく問い掛けられたが、食欲はなかった。そうして、眠ってもまだ残る痛みと、下腹部の不快感がゆっくりせり上がってきて、高杉は顔をしかめる。

「食欲が、あまりなくて、あの、シャワー浴びてきます」

 そう言って、これ以上は、という思いもあり、松陰の腕から抜け出そうとしたら、軽く頭を撫でられた。

「そうですか。本当はお湯に浸かった方が良いですし、君も嫌でしょうが、隠していたつもりでしょうが、浴室で貧血を起こしたこともある」

 だから、と言われてその先を察した高杉はサッと赤くなり、それから青ざめた。その表情の変化に、刺激しすぎないように、と注意しながら松陰は続ける。

「大丈夫ですから、一緒に、ね?」





 脱衣や経血のついたナプキンを彼女が片付けた頃を見計らって、松陰は脱衣所に入り、既に裸の晋作の肩に手を掛けた。

「やっぱり、駄目、です。汚い」

 そうして自身も服を脱ぎ始めた彼に耐えきれず高杉が懇願するように言えば、あっさりと服を脱ぎ終えた松陰に抱き留められる。

「どこがです?」
「だって、こんな……」

 必死になって言った高杉の耳許で、安心させるように、蜜を与えるように松陰は囁いた。

「僕の子を産むためでしょう?」
「あ、うぁ……」

 歳上の恋人の低い声が媚薬のように響いて、彼女はそのまま抱えられるようにされてシャワーで身体を流した。





「身体を冷やしてはいけませんが、水分か食事は摂らないといけませんね」

 松陰に言われて、先程のシャワーは恥ずかしかったと思いつつも、身体を隅々まで流されて、すっきりした部分はあったので、高杉は言った。

「さっぱりして、少し何か食べられそうです」

 正直に言ったそれに、松陰は安心したように笑って、買ってきていたものをいくつか見せる。

「グラタンやドリアならあまり無理なく食べられるのでは?」

 それにこくんと頷いた高杉に、グラタンを選んで松陰はキッチンの電子レンジへと向かう。その背中を見ながら、ここまで付き合わせてしまった、と自責の念に駆られた高杉は、泣き出しそうになりながら松陰が戻ってくるのをそれでも静かに待っていた。

「晋作、熱いから気を付けてください」
「あの、先生もご飯食べてないですよね」

 そう小さく言えば彼は何でもないことのように笑う。

「なんだ、そんなことですか。晋作の方が優先に決まっているでしょう」

 さらりと言って、ベッドで大人しく待っていた彼女をあやすように撫で、蓋を開けてあったそれをスプーンですくい、彼女の口許に運ぶ。

「あの!自分で食べられます!」

 真っ赤になって叫んだ晋作に、松陰は相変わらず笑った。

「僕がやりたいだけです。駄目ですか?」

 柔らかな問い掛けと視線に赤面しながら、彼女は雛鳥のように口を開けた。


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2023/4/13