恋愛偏差値
「荻堂くん、消すよ?」
「…」
「ほら、私、背が高いから」
長い黒板消しの先は、僅かに赤の線に届かない。荻堂は忌ま忌ましげに舌打ちした。
「あっ、あの…あの」
「じゃあ虎徹さんに頼みますよ」
ぞんざいに言って、彼は黒板消しを彼女に投げる。
「ご…ごめんね?」
おろおろと謝ると、彼はもう一度舌打ちして、「もういいです」と言った。
「次のプリント、取ってきますから」
「う、うん」
次の授業は、この昼休みの後だから、彼は多分、昼休みの間、教室に戻らないのだろうと思ったら、黒板消しを抱えた自分がなんだか惨めだった。
「勇音、チョークついてる」
パンパンと級友のチルッチがネクタイをはたいた。
「あ、ごめん。ありがとう」
「勇音、チルッチ、飯にすんで!」
教室の後ろの方の席に陣取ったひよ里が、黒板の前に立つ二人を呼んだ。
「私って…荻堂くんに嫌われてるのかな」
ローカロリーを軸にした弁当に箸をつけて、勇音は溜め息をつく。
「あいつか?勇音、日直一緒になるやろ?その度つんけんしよってからに。あいつムカつくねん。女子にヘラヘラ話し掛けたと思ったら、なんでか勇音につーんとしおる」
「で…でも!荻堂くん、悪い人じゃないよ!」
2年生になって、たまたま出席番号が男女で隣り合ってしまった勇音と荻堂は、日直が一緒だった。
と言っても、まだ5月の半ば。今日が二回目の一緒の日直だが、それでここまで邪険に扱われる理由が、勇音には判らなかった。
荻堂と言えば、1年生の頃から、女子にモテることで有名で、学年問わずいつも周りに女子がいた。
「荻堂はねえ、女の扱い慣れ過ぎてんのよ」
チルッチはしみじみとそう言うと、雑穀入りのご飯を口に運ぶ。彼女の弁当も、ローカロリーを旨としていたが、勇音のものとはだいぶ趣が異なっていて、勇音は今日も彼女からレシピをもらうだろう。
チルッチと荻堂は、たまたま1年からの知り合いだった(ひよ里と勇音とは去年からクラスが同じだ)。
たまたま―たまたま入った部活が一緒だった。音楽部だ。荻堂はピアノ弾きで、それもかなり上手い。聞くところに因れば、バンドのシンセサイザーもやっているらしい。
「モテそうなことには全力の男よ?女を蔑ろにするワケないじゃない」
チルッチはふうと息をつく。本当に、困ったものだと言うように。
「だったらなんで勇音に冷たくすんねん!?」
「わっかんないの?勇音だけじゃなくて、ひよ里も?」
「なんやねん、チルッチ!?」
「あー、もうやんなる。恋愛偏差値低いとこうなんのよねえ」
「はあああ!」
特別棟の踊場に駆け上がって、荻堂はひどく大きく息をついた。
(馬鹿すぎる…!壊滅的馬鹿!破滅的馬鹿!)
そこまで取り乱しても、プリントが飛ばないように、ついでに言えば、少しもシワになったり折れたりしないように、布地の財布を載せる。
(例えばこれで…プリントがぐちゃぐちゃだったりしたら?)
「幻滅だ」
「不適切だな」
「あああ、阿近くん!」
「幻滅っつーのは、期待や憧れで『美化』されてる場合にしか起こり得ない」
突然現れた阿近は、普段はかけないメタルフレームのメガネを押し上げて、至極真面目な顔で荻堂を見下ろしていた。
「お前さあ」
「な、なに?」
「顔に出やすい」
「ぶっ」
その一言に、荻堂は盛大に咳込んで、顔を背ける。
「どうせ、今日日直だろ?」
積まれたプリントを指差して、阿近は薄く笑う。
「うっ…うるさい!」
「おっと、話を戻すか?幻滅っつーのは美化していたことが現実と異なる場合に落胆することを指す訳だが」
彼は楽しそうににやにやと笑った。
「虎徹勇音がお前に何らの期待も憧れも抱いていないことを考えると、この場合『幻滅』という単語を使用するのは不適切だ」
「〜ッ!」
「なんだ?違ったか?俺ァ実は国語も得意でな」
くっくっと笑うと、阿近は缶コーヒーのプルタブに指をかける。
「前から思ってたけど、君、性格悪い」
「そりゃどうも」
「誰の性格が悪いんだ?」
何の気無しに、黒崎が階下から首を出す。
「阿近くんの!」
「そんなの、前からだろ」
いきり立って言った荻堂に、踊場まで上ってきた黒崎は呆れてそう返した。
「なんだよ、まだ飯食ってねーの?昼休み終わるぜ」
続いて檜佐木が現れた。今日は委員会があると言っていたから、昼休みは彼の言う通り残り少ないのだろう。
弁当を広げて、檜佐木は思い出したように荻堂に向き直った。
「そういやさ、今日の委員会で、去年お前と同じクラスだったってコがいたのよ」
「…」
「荻堂くん、2年になってから付き合い悪い〜、だとさ。らしくねーな、色男」
純粋に、まめな荻堂らしくない、という意味で言ったのだが、反応はない。
「荻堂ー?どうしたー?ていうか前みたいに女子紹介してくれ」
半分泣き言を言った檜佐木にちらりと視線を投げて、阿近は軽く息をついた。
「放っとけ、檜佐木」
「なんかあったんスか?」
首を傾げた檜佐木に、阿近はやはり至極真面目な顔でメガネを押し上げた。
「病気だ」
「な!何のだよ!」
威勢よく反応したのは黒崎だった。
「不治の病だ」
真剣な顔で彼は言う。
「恋の病」
「ぶっ!……あっ!」
再び咳込んだ拍子に、手をついたそこで、プリントがくしゃりとシワになる。
「うわあああ!阿近くんの馬鹿ァ!午後の!これ、午後のプリント!虎徹さんに渡すのに!」
「は…?」
黒崎と檜佐木の声が重なった。
阿近は悠々と無糖のコーヒーを呷って笑う。
5月も半ばとなると、放課後になっても明るい。電気をつける必要もなく、勇音は学級日誌を書き込んでいる。
(最悪だ、最悪だ、サイアクだ!)
荻堂は黒板の日付を書き換える作業を、もうずっと続ける振りをしていた。
午後、くしゃくしゃになってしまったプリントを手渡してから、荻堂は結局、勇音に一言も声をかけていない。
(プリントの言い訳すら、してない!)
(お昼のこと、やっぱり怒ってるのかな…)
二人で見当違いなことを考えて、放課後の教室にはぎくしゃくした雰囲気が流れていた。
「おっ…荻堂くん!日誌、終わったよ」
「…こっちも終わりました」
そう言いながらも、彼は振り返らない。
その沈黙に耐え兼ねて、勇音は精一杯の勇気で声をかけた。
「荻堂くん…あの…ごめんね」
「…何がです」
さすがに謝られるような心当たりは彼にもなくて、それでも振り返らずに言うと、勇音はますます焦って上擦った声で言い募る。
「あのね!お昼…わっ、私、無駄に背が高いから!黒板消すの…っ!」
言い差したところで、荻堂が勢いよく振り返った。その顔がひどく強張っていて―強張っていて、というか、恐くて、勇音は思わず口をつぐんで俯いた。
視線の先で、勇音が俯いてしまったのに、ハッとして彼は机に歩み寄る。
目の前まで来たのに、勇音は彼に気がつかない。机の上の日誌には、几帳面そうな文字が列んでいた。
(こういう時に、すらすら言葉が出て、こない)
いつもの浮ついた言葉さえ、出てこない。
それでもなんとか思考を廻らせて、言葉をまとめる。
「…虎徹さんの背は、無駄に高いなんてこと、ないです」
「…え?」
「すごく健康的だし、素敵だと僕は思う」
「荻堂くん…あの」
「…日誌!出してきますから。気をつけて帰ってください。それじゃあ」
まくし立てるようにそう言って、荻堂の手が日誌をさらう。
彼はそのまま、教室を走り去った。
(背が高いの…ほめられたのなんて…初めて、か、も…)
(もっと、気の利いたことが言えないのか、僕は!)
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恋愛偏差値は荻堂さんの一目惚れからスタートしました。2年になった時、たまたま席が前後で一目惚れした荻堂くん。
ナンパには別の意味でハードルが高い勇音しゃん。恋愛偏差値低いので。