ああ、冬が終わる。
 大地が芽吹く。
 枯れた土地は息吹を取り戻し、すべてを覆う雪は溶け落ちる。
 余の時が、終わる。


勧酒


「春だな」

 満開の桜に俺様はぽつりとつぶやく。日本の春、という感じだ。
 地獄から脱獄ともいえるような格好で天使ヶ原から現世へとピクニックに駆り出された左門、俺様、それからアンリの四人は、桜が見ごろだとどこから仕入れたのか雑誌で見たという田舎に来ていた。人はまばらだ。穴場だと天使ヶ原が言っていたのが何だか怖い。その情報網は俺様の地獄で本当に合っているのだろうか。
 ブルーシートを広げて、手羽先で埋め尽くされた弁当を開く天使ヶ原に左門はうんざりしたように言った。

「あのさあ、花見ってなんなの、地獄落ちしてるくせにリア充のつもりな訳?」
「左門くん文句ばっかり言ってると手羽先抜くよ」
「いらないよって言いたいけど手羽先ないとこれおかずひとつもないじゃないか!」

 相変わらずコントのようなやり取りを続ける左門と天使ヶ原の言葉が聞こえていない女が、一人いた。


「見事だ」


 巨木だが老木の、満開のその桜を見上げて、悪の女神は一言そう言った。


「スプタン・マユよ、見事だ」
「オイ、ババア…っ」

 その言葉に声を掛けようとして、俺様は彼女の横顔を覗き込む。そこで息を呑んだ。
 彼女の頬には、つうと一筋の涙が流れていた。

「アンリ・マユ、あなたは」

 問いに、彼女は美しい双眸から涙を流しながら、笑って言った。

「ああ、実に見事だ。春が来た。スプタン・マユよ、見事だ。よくぞ余の冬を打ち砕いた」

 その称賛は、だけれどなぜか深い悲哀に満ちていることが分かった。その先を聞きたくなかった。そして聞きたかった。聞くべきだと思った。

「そして余はまたこの春を、夏を打ち砕くだろう。これで何度目だ。我らはあと幾たび世界をやり直し、闘い続ける?」

 そう言って、彼女はひらひらと舞い散る桜の花弁を一枚、器用にその手に乗せた。

「あと何度、あと何度で世界は完成する?我らは、我らのこの闘いは、なんの意味を持つ?」
「意味がないはずがない。あなたは神だ」
「ベルゼビュートよ、光を受けながら堕した地獄の王よ。余はこの終わりのない世界を原初から作り、壊し、砕き、練り、それでも完成させることが出来なかった」

「あなたは、終わりたいのか」

 その核心ともいえる言葉を突きつける。
 ずっと知っていた。ずっと分かっていた。
 だけれど言葉にできなかった。俺様も、あるいはきっと、左門召介も。


「あなたは、已みたいのですね」


 最大限の敬意を以て、俺は膝をついてその桜の花弁を乗せる手を取った。

「そうだな。余は、私は終わりたい。ああ、だが違うのだ。かつての理想は崩れてしまった。私は私の世界が完成することで世界が完成し、私自身の正しさの証明とともに完全なる世界としてそれを止ませることが望みだった」

 だけれど、と女神は続けた。

「たくさんの時が過ぎた。何度世界をやり直しても、余もスプタン・マユもその理想を形にできなかった。善と悪に区別がないことに我らは気づけなかった。いや、気づいていながら、それでも闘い続けた。何度も季節は、時は廻った。なんて、愚か」

 愚かなどではない、とその言葉が喉元まで出かかった。だけれど、彼女を否定する言葉を、俺は今もって持たなかった。

「あるいはそんな世界が来ないと知りながら、余は何度も世界を壊した。理想の悪が満ちるのを待った。ああだが、美しい銀の雪原、冬枯れの木立、何の違いがあろうか」

 そう言って、俺の手を握ると、彼女はその桜の樹を見上げた。

「美しいと、思うのだ。余はこの樹を、この季節を、この瞬間を、美しいと思うのだ」

 なんて、浅はか、とつぶやくように続けられた言葉に俺はゆっくりとそのてを握り、その小さな肌理のと調った手に口づけた。


「時よ止まれ、お前は美しい」


 ああ、あなたは美しい。
 あなたの世界は美しい。
 だから。


「お前は余を已ませるだろうか」
「そうありたいと、願う」
「そうか。ならばそれだけで十分だ」


 そう言って、彼女はもう一度その古木を見上げた。

「余の冬を耐え、花を咲かせ、また季節は巡る。美しい花だ」
「あなたより美しい花などこの世にはない」
「面白いことを言う、ベルゼビュートよ」

 ふふと笑った彼女と俺に、後ろから天使ヶ原の声が掛かる。

「お二人とも、全部食べちゃいますよ!」
「待て、天使ヶ原、余も花見を楽しみにしておったのだぞ!!」

 いつもの調子に戻ったようにそう言って、俺の手をすり抜け、彼女はパっと走り出す。

「あと何度」

 俺は小さくつぶやいた。

 あと何度、あなたはこの季節に別れを告げ、この世界に別れを告げ、すべてを壊しても、すべてを手放しても、生き続けなければならないのだろう。
 その悠久の時の隣に、せめて生き続けることを誓えたならば。
 それさえも傲りなのかもしれないと知っている。
 知っているのに望んでしまう。


「あなたの終焉に、俺はきっと隣にいると誓う」


 傲りかもしれない。だけれど誓おう。
 深淵の終焉、時は止まる。あなたは美しい。


 ざあと一瞬強く風が吹く。
 ひらひらと、桜の花弁が散った。




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勧君金屈巵 満酌不須辞
花発多風雨 人生足別離

(于武陵「勧酒」)

2020/04/28
BGM「蓮」(ゆう)

とがわさんへ