『優しくしないで』

 相田さんの言葉の意味が分かるから、ワシはその意味が分からない振りをしていた。


ドローゲーム


「すっごくしょうもないこと考えてるでしょう、今吉さん」

 買い物かごに人参を入れた相田さんに指摘されて、ワシはずいぶん昔のことを考えていたことに思い至った。

「いやあ、今晩のメシのことしか考えてへんよ」

 誤魔化すように、茶化すように言ったら、相田さんは難しげな顔で眉を寄せた。ルームシェアを始めた当初唖然としたころから比べればかなり真っ当になった彼女の料理の腕は、今晩料理当番として振るわれる。
 昨日の晩はワシやった。
 その前の日は相田さん。
 これはずっと、それこそ彼女の料理の腕が壊滅的だった大学生になりたての頃からずっと変わらない、ルームシェアの決め事だった。
 ワシたちは今もまだルームシェアをしている。
 そのことが少しだけ変わったのは、まだ先週のことで、だからそんなにもこの社会人同士のルームシェアに大きな変化はなかった。

「嘘ばっかり」

 ふふふと相田さんは笑った。笑って続けた。

「優しくしないで」

 だからワシは、その言葉になんと応えていいのか分からなかった。
 あの日と同じ、その言葉を言うのに、彼女は柔らかく微笑んでいた。

「ワシは優しゅうないよ」





『ほんなら一緒住む?』
『は?』

 ワシと同じ大学に進学することになった相田さんに、突拍子もない提案をしたときの、あの、驚いた、というか、虚を衝かれた、というか、とにかくきょとーんとした顔を、ワシは未だに忘れられない。……これから先だって、忘れることなんないやろな、と思う。それは、彼女がその顔をしてしまう理由を忘れられないように。

 ずっと知っていた。ずっと知っていて、だけれど近づき続けた。平凡な、あるいは突拍子もない距離感で。
 知っていたとも―――彼女に、忘れられない恋だの、愛だの、そういうことがあるのだということは。
 振り返るか振り返らないか、微妙な距離やった。だけれど多分、振り返らないだろう方に賭けていたのはずっとそうやったように思う。

『賭けの続きや』
『何言ってるんですか』
『「好きになったりしない」やろ?』

 高校二年の冬あたりから彼女の繰り返していた言葉をちらつかせて、ワシは笑った。

『相田さんが好きになったら相田さんの負け。ワシが根負けしたらワシの負け』
『何よ、それ』
『家賃は半分。生活費も半分。キスはしない。そーいうコトもしない』

 ただのルームシェア、と続けたら、彼女は至極不思議な顔をした。自信に満ち溢れていて、だけれどその自信を一瞬で吹き消す不安に駆られている、そんな顔。ひどく期待していて、それでいて、ひどく絶望している、そんな顔。

『今吉さん、本当に私のこと好き?』
『好きやなかったら1年以上付き纏わんし、一緒に住もうなんて言いません。そこまで阿呆と違うわ』

 即座に言い返したら、彼女はやっぱり不思議な顔をした。今まで見た、どんな顔より綺麗だったような気もした。綺麗だけれど、見ていられない気がした。そんな顔。

『いいわ』

 そうしてそれから、静かに彼女は言った。捨て鉢になって言うのとは、全然違ったように思う。

『好きになったりしないもの』

 きっと諦めるわ、と彼女は唄うように続けた。囁くように、唄うように。
 誰が、何を諦めるのかまでは、相田さんは言わなかった。

『ねえ、だから』

 その続きを言う代わりに、彼女は言った。

『優しくしないで』

 綺麗な、壊れてしまいそうなほど、綺麗な顔で。




「カレー?」
「そう」

 キッチンから流れてきた香りと、それから今日の買い物から類推される夕飯のレシピを言って鍋の前に立つ相田さんの後ろに立てば、彼女の小さな体はすっぽりワシの影に隠れてしまう。

「もうちょっとだからそこのサラダ運んでくれます」
「はいよ」

 煩わしさもなく言われて、可笑しくなる。
 一週間前、彼女にプロポーズをした。
 なんてことない日に、なんてことない理由でうなぎ屋に連れて行って、そうして言ったそれは、だけれどなんてことないなんてことではなかった。
 それで、駄目なら終わりにするつもりだった。
 ブザービーターを決めようとしたのは、多分、ワシも彼女も一緒だった。
 どちらに振り切れたとしても、それで、全部終わりにするつもりだったのはきっと、二人とも一緒だった。

「今吉さん、実は覚えているんでしょう」
「んー?」

 リビングのテーブルにカレーを運んできた彼女が言う。

「私が今日買い物のとき言ったこと」
「ワシは、今も昔も優しゅうないよ。いただきます」
「はぐらかすのね。いただきます」

 会話の合間に食前の挨拶をして、ワシらは重なった休日の夕食を食べ始めた。

「うーん、はぐらかすっていうかなあ。優しくなん、出来っこないって知っとったんよ。惚れた時から」

 そう言ったら、相田さんは不思議そうにスプーンを持ったまま首を傾げた。
 あの日、そう、彼女たちに負けた日じゃない。高校最後の大会、その決勝の日。彼女たちの、全てを決めるバスケットボールがリングをくぐった瞬間に、ワシは彼女に惚れてしまったのだと今でも思っている。負けた時なんかじゃない。その小さな矜持は、だけれどずっと続いている。

「あん時、誠凛が優勝した時、あの日からワシはずっと賭けの中にいて、その賭けに相田さんを付き合わせようと思ったときから、多分きっとずっとワシは優しくなん、出来っこないって知っとった」

 そう言ったら、相田さんはますます不思議そうな顔をして、それからぷっとふき出した。

「ひどいのね」
「へ?」
「私にとっては、あの日から……ううん、高校の頃からずっと、今吉さんは優しいだけの人だったわ」

 優しくされたら、きっとなびいてしまうから、彼女はずっとそう言い聞かせ続けてきたのだろう。
 だからきっと、優しくするなと言ったのだろうと知っていた。

「私もずっと、賭けの中にいて、私はあなたに負けたのよ」

 可笑しそうに彼女は言った。

「引き分けみたいなもんやろう」

 だから、ワシは、その意味を知って笑ってしまった。
 優しさなんて、優しくするなんて。
 打算じゃないそれだけで、本当は彼女も自分も、十分だったから。

 その日々に別れを告げて、新たな日々に向かって歩く。

 ドローゲームの結末は―――




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約一年ぶりに今リコ。