「橘さん?」

 掛けられた声には聞き覚えがあった。あったけれど、自分を呼ぶような声だったろうかと思う。そんなに昔の話じゃない。ほんの数年前のことだというのに、その声は大人びて聞こえた。

「はい」

 ああ、どうして振り返ったんだろうと私は思う。
 ほとんど他人から、声を掛けられたに等しいっていうのに。


いつかどこかで


「驚いたな」

 大学のキャンパスの一角で、そう言って自販機からココアを取り出し、差し出してくれたのは柳さんだった。実を言うと、下の名前までは覚えていない。
 数年前、彼は立海大附属中学のテニス部三強にして参謀などと大仰に呼ばれる存在で、私の兄は同じ世代で不動峰テニス部を率いていた。対戦したこともある。あまりいい思い出ではないが。だが、それよりも多分柳さんとの接点という意味では私が合同合宿のマネージャーをしたことの方が多かった気がする。だから、選手でない私のことを彼は覚えていたのだろう、とそこまで思考は回転していた。

「この大学だったんだ」
「結構無理したんです」
「高校の時女子テニスで君のことが聞こえてこなかったのは特進科にでも進んだのだろうかと思っていたが、やはりか」
「そういうことです」

 どうしてこんなに私のことを気にするんだろう、と私はちょっとだけ不思議な気分になった。

「柳さんは立海大に行くのかと思ってました。高校の時もすごかったし」

 素直な感想を言ってしまう。確かにこの大学はかなり偏差値が高い。でも、立海大にそのまま進んだって十分釣り合うから、そのまま進む方が順当なのは柳さんこそその通りだと思っていた。

「俺は」

 言い差したところで彼はちらりと腕時計を見遣る。私は午後一番の授業が入っていなかったが、彼は違うらしい。

「すまない。そのうちゆっくり話さないか」
「え?」
「あ、これ」

 彼はそう言って名刺を渡してきた。書いてあるのは研究室と彼の名前、メールアドレスなどで、ああ、就活ではなく研究室でそれなりの地位があるんだなと私はそれで察した。

「はあ」
「じゃあ」

 その背中を見送ってそれから、ああ、そういえば私はもうすぐ就活が始まるんだったなと思う。そう思ったら、中学生のあの頃はひどく遠くに思えた。





『柳?』
「そう。柳蓮二って書いてあるし、多分別人じゃないと思うんだけど」

 夜、私は兄に携帯から電話をしていた。関東ではない地域の大学に三年程在籍して、一年上に知り合いのような人がいることに今日初めて気がついた結果、名刺まで渡されていたのである。
 知り合いのような人?違う、と言い差して私はそれを頭の中で否定する。

『ふうん。そっちにいたのか』
「何か知らない?」
『何かって?』
「うーん、そうよね。上手く言えんとよ」

 不意に郷里の言葉を使って言えば、電話口の兄は可笑しげに笑った。
 故郷でも、東京でもない場所で、私はその通話を切った。

「変なの」

 覚えているはずがないのに、彼は覚えていた。
 私はどうしたって兄や深司くんたちの応援という立場が多くて、柳さんと真っ当に接したのは一度だけだったと思う。その前からずっと、私は彼のプレーを見ていたのだけれど。
 憧れていた。彼のテニスは綺麗だった。そう、綺麗。一言で言うなら綺麗。
 スッと繰り出されるサーブも、所作も、憧れても出来ないと思わせるものだった。
 私にとってそういうプレーをするのはいつも兄たちだった。
 だけれどそのどれも、彼のそれとは違った。いや、多くの中高生は違ったように今なら思う。あんな理知的なプレーはなかなかなかったから、私は興味を引かれたのかもしれなかった。





『赤也が』
『はい?』

 タオルとドリンクを休憩中の柳さんに手渡したら、彼は何とも言えない顔でこちらを見て言った。

『君のお兄さんにあまりその、真っ当ではないというか』

 歯切れ悪く言われたそれに、私はきょとんとした後でその人が言わんとしていることを理解した。

『別にあなたが謝ることじゃないわ』
『そうかな』

 やっぱり歯切れ悪く彼は言ったから、私は思っていた通りのことを言った。

『一年前なら、そうなっていたのは多分切原くんですから』

 さらりと言ったそれは、多分、不動峰のみんなや青学のみなさんの前では絶対に言わないことだった。
 切原くんのラフプレーを咎めることは出来る。でも、多分、兄が本来の姿だったら、やり返して、それこそ切原くんが酷い目に遭っていたのは明白な気がした。それが例えば兄が負った怪我のようなものに当たるのか、純粋なテニスのスコアになるのかは、私には到底想像もつかなかったのだけれど。いや、想像したくなかったのかもしれない。

『あまり、楽しくない話だったな』
『いえ、別に』

 小さく返した私に、柳さんは困ったように笑った。

『君も、橘も、強いんだな』
『そういう訳じゃないんですけどね』

 苦笑してそう返したら、柳さんも笑った。
 私がこうしていられる理由を、だけれど私はその時彼に言えやしなかった。
 言ってしまえばいいのに、と心のどこかで思っていたのだけれど。
 憧れていたからかもしれないし、これ以上入り込まれるのが嫌だったのかもしれなかった。





「すまない、一方的に連絡先を押し付けたりして」

 昨日と同じキャンパスの一角で、柳さんは申し訳なさそうに佇んでいた。私はどうしてか、やっぱり今日もそこに来ていた。

「いえ、私の方こそって言いたいところだったんですけど、名刺に書いてあったのが研究室付属のメアドなんじゃないかなって思って。これスマホじゃないでしょう?」

 苦笑して名刺を示せば彼は困ったように笑った。

「考えていなかった。この後暇ならコーヒーでも飲まないか」





「橘も君も、なんだが、テニスを辞めていたんだな」

 二人で入った喫茶店で、ブラックコーヒーを飲みながら柳さんは言った。どうして、昨日の今日でこんなふうになっているんだろうと頭の中で言う声がしたけれど、相手が柳さんだからだと思う気持ちがあったのも確かだった。
 だって、この人も、テニスを辞めていたから。

「兄も私も、中学で」
「橘は、うん、高校の時に聞かなかったからそんな気がしていた」
「柳さんも、辞めちゃったんですね」
「ああ、高校まではやっていたんだが。それで何となく、立海にいるのも筋違い、というほどではないんだが、なんだか他の大学に行ってみるのもいいなと思ってな。県外にも出てみたかったし」

 その顔に後悔や未練はなくて、だから私は安堵する。どうして、本当に久しぶりに会ったばかりの知り合いにこんなことを思うのか、と思いながら、私は私のかつての憧れを思った。

「私、柳さんのテニス好きだったんですよ」
「え?」
「綺麗で。スッとしていて。私は案外力任せにやってたから」
「それは、恐縮だな」

 微笑んだ柳さんに、私はあの日言えなかったことを言おうと思った。
 いつかどこかで、いつか誰かに、出会ったら、言おうと思っていた言葉を言う相手が彼であることが、不思議だった。

「あの時、私と兄のことを強いって柳さんは言ったじゃないですか」
「……ああ」

 あの時、という不確かな言葉だったのに、彼は過不足なくその言葉を思い出しているようだった。それで私は、やっぱりいつかは今で、どこかはここだったんだと思った。

「あの時、もう、私も兄もテニスを辞めるつもりだったから」

 上手く笑えているだろうか。微笑んで言ったつもりの私に、彼はやわらかに微笑み返してくれた。

「テニスを辞めるのは、案外周りがいろいろ言うからなあ」

 一般論みたいな、そうでありながら彼自身も確実に通ってきた道を言われて、私の中に数年間ずっと居座っていた棘のような思いがすとんと抜けた。

「テニス、嫌いになった訳じゃなかとよ」

 ぽたぽたと滴が落ちた。口から落ちる言葉は、何も考えずにテニスを出来ていた短いあの頃の郷里の言葉だった。

「ああ、俺も、今でもテニスが好きだよ」


 たくさんの事がありすぎた。
 その全部を、今やっと私は呑み込む。
 その全部に、今やっと私は別れを告げる。

 いつかどこかで、いつか誰かと、共有したかった。
 その相手が柳さんだったことに、意味はあるのだろうか。

 その喫茶店で、その次の週も、その次の月も、その次の年も、彼と一緒にコーヒーを飲むことになるのは、また別の話。




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いつかどこかで出会ったなら、な柳杏。