婚姻届
今年のバレンタインは蝮にとってはだいぶ億劫な行事になってしまった。億劫?でも別に本命があって、それが受け取ってもらえないとかそういうことじゃない。ただいつも通り、勝呂家と志摩家に配って、それから深部の男性職員に配っておしまいのその日は、だけれどいつも見たくもないものを見てしまうからどんなに楽しいことがあっても帰り道の頃の時間は億劫だった。
そうして出張所から除籍された彼女の今年のチョコ配りは出張所に関係がなくなった。それでも八百造はいつも通り受け取ってくれたし、何より数年ぶりに達磨に渡せたのが何より蝮は嬉しかった。
『蝮の手作りやな』
と開ける前からつたないラッピングに気付いてくれた達磨と隣で笑う虎子に、昔のように笑いかけて、ともすれば抱き着くように好意を示せたのが嬉しかった。もうこんな日は来ないと思っていたから。
竜士たち三人にも先週のうちに送っておいたし、今年の蝮のバレンタイン戦線は終わりである。その帰り道にふと蝮は億劫な思いを思い出してしまった。
「たぶん、今日が一年で一番志摩が飢え死にする確率の低い日」
ぽつんとつぶやく。夏過ぎからずっと結婚しようと言い続けた男のその言葉を断っているのは自分の方なのに、なんてわがまま、と思いながらも、染みのようにその沈んだ思いが広がっていく。
だってそうだ。彼は、志摩柔造は本当にモテるのだ。だから、それもあって彼女は彼との関係にいつもしり込みしてしまう。
「あてよりずっといい子がいっぱいいるくせに」
当てこすりのようなその言葉に、彼女は自嘲気味に笑った。
*
「で」
「おん」
「なんでお申がうちにおるんや」
「え、だから逆チョコもってきてん」
「自分でもらったもんはきちんと食べてお礼言いなされ」
チョコを配り終わり、買い物などの所要を済ませて帰宅したら、自宅のコタツに入り込んでいた志摩柔造に、だから蝮はひどく驚いた。父も母も、柔造が蝮にプロポーズを続けていることを勘定から外しても、志摩家の人間が遊びに来れば簡単に上げてしまうのだったなとそこで蝮は思い至った。
「なんで、なんで俺が自分のもろたチョコを蝮に横流しすると思ったんや!!!」
ダンッとコタツの天板を叩かれたので、蝮は思わず柔造をはたいていた。
「やめや。ひとん家のコタツ壊さんといて」
「コタツより大事な話しとんのや」
真剣そのものの剣幕で言われて、蝮はひどく居心地が悪い思いをした。帰り道の道すがら、今日は戦利品でいっぱいの柔造を想像するだけで億劫になっていた自分を思い出したからだった。
「それに今年は一個ももらってへんわ」
「は?金造が泣くえ?」
「横流しするなとかしろとか自分で食えとか金造に食わせろとか面倒なやつやな!!」
ダンダンっと柔造はまたコタツの天板を叩く。勝手知ったる他人の家である。
「本命の婚約者がいるのにもらうわけないやろ」
恥ずかしげもなく言われたそれに、蝮は顔が真っ赤になるのを抑えられなかった。だってそうだ。自分にプロポーズするのに誰かからチョコをもらう柔造が嫌だったのだから。なんて我儘で、なんて幸せな悩みだろうと今なら思う。
「でも蝮はどうせ今年も志摩家全体に渡したので終わりにするつもりやろから、そーいう訳で!俺が逆チョコ持ってくればええんやんって気付いた」
そういたく真剣な顔で言って、彼はごそごそとコタツの横に置かれた封筒に手を伸ばす。
ずいぶん薄いチョコレートだな、と蝮はその時点でひどく非合理的で、ありえない思考で以ってその封筒から取り出された紙を眺めていた。それがチョコレートだなんてありえないのに!
「はい、これ」
「うん?」
しかし、思考回路のうまくつながっていない蝮はその「逆チョコ」とやらをまじまじと眺めてしまう。そうしてそれから、声にならない悲鳴を上げた。
「な、な、な!!!???」
「ち・な・み・に!!蟒様にももうサインしてもらったちゅうかね!その上信用高すぎる俺はなんと蟒様とおば様から宝生の印鑑預かってもうたっちゅうかね!!!」
でれでれとそのようなことをまくしたてる男が持ってきた役所に婚姻を届け出るための紙切れに、蝮は何をどう言えばいいのか分からなかった。