指輪


 バレンタインデー、なんてたぶんこんなに仰々しいのは日本だけだ、と今や世界中を駆けずり回る手塚はその降り立った日本の空気に思った。
 先日大きな大会が一つ終わって、だからといって普通帰国したりはしないのだが、今回は特別な用事があったからこうして日本に戻ってきた。
 そうしてそれから、この時期はバレンタイン一色なのが日本だったなと妙な感慨を覚えた。それは自分が長いこと異国を渡り歩いていることを明確にしたようだった。

「お帰り」

 そのような感慨に浸っていたら、声を掛けられる。その耳に馴染んだ声に彼は笑った。

「ああ、ただいま」

 笑顔の千歳ミユキに、彼はやっとこの日本に戻ってきたことを確信する。ここに帰ってくれば、彼女がいつでも出迎えてくれる、そう思った。そう思ったら、今日ここに帰ってくるつもりになったその決意が少しだけ可笑しく思えて、彼は苦笑した。

「どうしたとね、大会終わったばっかりやったのに帰ってくるち言うからびっくりした」

 ゲートを過ぎてしまえば、衆目はほとんど気にならない。控えめに聞こえる声もあるが、ここにたくさんいる旅行者はきっと手塚のことを知っていても、それ以上に自分の日常の方に傾倒しているだろう。そんなものだ、と改めて思い、同時に、そのような有名人である自分なのに、疑問にも思わずに世界タイトルホルダーの個人的な迎えに空港までくる千歳ミユキの豪胆さを思った。

「ミユキは相変わらずだな」
「へ?」

 不思議そうにしたミユキがそんなに深く考えているはずない。ずっと変わらないのだ、と手塚は思った。帰国したら会いに来て、そういう関係がずっと変わっていないのは、だけれど本当に驚くべきことなのに、と思っているのはきっと手塚だけだろう。

「お前にとっては当たり前のことなのかもしれない」
「何か言った?」

 雑踏でミユキが聞き逃したその言葉は、妙に傲慢にも聞こえる気がして、手塚は少し笑ってその言葉を誤魔化した。
 自分を待っていてくれることが、当たり前だなんてやっぱりどこか傲慢だ。そう思うから、帰ってきたのに、なんだか可笑しかった。





「ほういえばバレンタインやなって思うてチョコ買っとったんよ。限定品!」
「日本は相変わらずすごいな」
「うん、ウチも製菓会社にすっごく踊らされてる気分やけど、おいしそうやってん」

 くすくす笑いながら言ったミユキの口からこぼれた製菓会社とか、踊らされてるとか、そういう言葉が、彼女がもう子供なんかじゃないと手塚に確信させた。

「ほいで、兄ちゃんは急やったねえ。どうかしたん?」

 ああ、と彼は思う。
 当たり前に待っていてくれる。当たり前にやってきてくれる。
 それがどんなに特別なことか、きっと自分たちは分かっている。分かっているのに、それがあまりにも当たり前のことになったから。だから、区切りをつけたい。

「待っていてくれるだけでは、なんだか寂しいと思ってな」
「うん?」

 要領を得ない手塚の言葉に、ミユキは首をかしげる。ホテルのラウンジで、コーヒーに手を伸ばしたミユキのその細い手を彼は取った。

「今度はもっとそばで見ていてくれないか」
「え?」

 待っていてくれる、いつまででも。
 だけれどそれだけではもう満足できない。
 なんて傲慢で、我儘な男だろうと彼は思いながら、彼女の指に銀の環をかけた。