離別方異域 音信若爲通
「ついに和議か」
呟いた将臣に知盛は酒杯を傾ける。和議が成り、それで自分はどうするのかと思った。
そうして思った。和議が成る、だと、と。
「お前は結局何者なんだ、還内府殿」
「今更」
ふっと笑った将臣に、知盛はふと眉を寄せる。その笑みは、死んだ兄によく似ていた。
「何がどうして、和議が成るとお考えかな、兄上は」
「だからそれはもう説明しただろ。源氏方の」
「白龍の神子とやらがお前の幼馴染で、異なる世界から来て、この和議は成らぬから正式な場を設ける、と?そんな話をだれに信じろという」
「信じたくないなら別に構わねえけど面倒起こすなよ」
将臣の言葉に、知盛は喉を鳴らして笑った。
「ああ、呵々大笑だ。そのような話が、そのような話で、この一門の未来をお決めになったと?兄上は本当にどうかしていらっしゃるようだ」
「おい、その兄上ってのやめろよ。誰もいねえよ」
衆目もないのだからやめろと言えば、知盛は今度こそ声を上げて笑った。ひどく可笑しげに笑うその声が、決して面倒を起こそうとかそういう類のものではないのは三年のうちに学んだ。だから将臣は諦めたように酒を呷った。
「有川、お前も明日帰るのだな」
「まあその予定。平家はもう大丈夫だろ。お前しっかりしてくれよ、お前と重衡が頼りなんだからよ」
「ではもう言えなくなる故、土産話を聞くといい」
「はぁ?」
そう言って、知盛はごく自然な手つきで空になった将臣の杯を満たした。口を付けた瞬間に将臣は目を見開く。それは酒ではなかった。
「ふっざけんな、元の世界に戻ったら当分飲めねえのに酒じゃねえじゃねえか!水とか何の嫌がらせだよ!」
「我が兄上はそれほど愚鈍ではなかったがな」
こらえきれぬ笑いを抑えもせずに知盛は言った。
「やはりお前はそういうことに疎い。我が兄上は聡明故なあ……有川とは違うな」
「その嫌がらせがこの水か?」
「嫌がらせ?おかしなことを言う。俺からの餞がお気に召さぬか」
餞、と将臣はつぶやいてもう一度その杯に口を付ける。ただの水の味しかしなかった。
「勧むるは水盃、別れの挨拶さ」
「その手の教養には疎い」
「まあ聞けよ」
将臣の言葉を無視して、知盛は今度は自分の杯をもその水で満たしてしまう。そしてその水を一気に呷った。酔いがひとたびで醒めて、彼は口の端の水滴を乱暴に拭う。
「有川、お前が現れて俺は本当にうれしかった」
「……?」
「なんて、良いことだろうと。重盛兄上は、絶対に死反に応じぬのだ、と思わせてくれた」
「知盛、それは……」
「ああ、お前を責めているわけではない。俺は飽いていたのだよ。滅びるこの平家、滅びるなら滅びに任せればいい……だが、敦盛が、経正が―――俺と血のつながった者たちが甦った。その絶望と恐怖をお前は知らぬだろう。死ねぬのだよ、我らは。なんという栄華、なんという永遠、なんという……愚かさ」
濡れ縁を、月明かりが皓々と照らし出す。その白く冴えた月を見上げて知盛は再び言った。
「死ねぬ。月のごとく、死してもまた甦る。なんと恐ろしいことか」
だがそれで助かった者もいる、と続けようとした将臣の目を、知盛の目が射止める。血に飢えたようなその目は言えば斬るとでも言いたげな目だった。
「馬鹿なことは言わないでくれよ、有川?」
「だが」
「怨霊になりたくない?そんなことではないさ。それで生きられる者がいるならそれもよかろう。敦盛も、経正も、維盛も、俺は嫌いじゃない。生きていさえいればよいこともあると思う。それがどんな形であれ、な」
「分かっているならそれでいいじゃないか」
将臣がそう言えば、知盛は目を細めて月を見上げた。
「だが俺は、そうまでして生きたくはなかった」
平穏を、愛していないわけではない。
戦いを、愛しているわけでもない。
「ただ生きて、ただ死にたかった。それがこんなにも難しいのだと、思った」
「知盛……」
「だからお前が現れた時、兄上は甦らぬと確信した」
これが至上の喜びだと分からないから彼は兄ではなく、だから彼は確信した。
「我が兄は、ただ生きて、ただ死んだのだ、と」
そう言って、彼は水の入っていた杯を思い切り庭石へとたたきつけた。カシャンとかそけき音を立てて、その杯は砕け散った。
「知盛兄上、還内府殿、どうなさいました、何か音が」
「重衡、兄上に別れの挨拶でもするんだな。俺は少し出かける」
太刀を佩いて、笑った男は立ち上がる。
「知盛、どこに」
「朝までには戻るさ。兄上の設えた、大事な和議、だろう?」
笑った男に見下ろされて、将臣はその紫の双眸を見返した。
「死ぬなよ」
「今更、だな」
ははと乾いた笑いが落ちた。
「お前はその水を飲んだだろう?」
2017/06/13