「好きだよ」と男は言えなかった。どくんと胎内に注がれた熱いものと、自身が感じる快楽、そしてそのためにぼんやりとした思考と体の中で、彼は代わりに「ごめんね」と言った。
こんなにもぼんやりしているのに、彼がそれをうわ言のように、切羽が詰まったように繰り返すのを、彼女はひどく苦しく聞いていた。


羽衣奇譚


「景時さんって、好きって言ってくれないんだ」

 すべてに決着がつき、望美がこの世界に、景時の隣にいると決めてから、さほどの時間はたっていない。祝言も初夜も済ませ、二人の仲はとても睦まく妹である朔には映っていた。
 そんな二人が景時が出仕している昼過ぎに縁側でお茶を飲んでいた時に、望美は膝を抱えてぽつんと言った。

「え?」

 その言葉に朔は丸まるようにしている望美の方を振り返って、それからその長い髪を撫でた。

「それは兄上が照れているから、かしら?」

 そう、当たり障りのないことを言いながら、朔は内心はらわたが煮えくり返る思いだった。こんなにも、互いにすべてを懸けてこの幸せをつかみ取ったのに、この子をこの期に及んでまた不安にさせるなんて、と。
 その怒気が伝わったように、望美は顔を上げてぶんぶんと首を横に振る。

「違うの、朔。夜ね、一緒に寝るときたくさんごめんねって言ってくれる。何度だって」
「え?」

 望美の言葉に朔は驚いたように彼女の顔を覗き込む。そうしたら、泣き出しそうな顔で望美は言った。

「景時さんは、まだ苦しんでる。それは……」

 それは、と言葉を区切った望美は、亡羊とした、しかし泣き出しそうな目で庭先を見つめていた。だから朔は、その姉となった少女の髪を、肩を撫でて、続く言葉を辛抱強く待った。

「それは、きっと私のせいだけれど、きっとまだ私では解決できないことなの」





「九郎、今日ちょっと邸に行ってもいいかな?」

 六波羅での政務が終わった頃、景時に声を掛けられて九郎は最後の書簡から目を上げた。

「構わんが、どうした…っ?」

 どうした、と聞いてから、ひどく辛そうに笑う景時の顔が目に入って、九郎はぎょっとした。驚いた、とか、心配した、とか、そういったたくさんのことがある。だけれど一番に心臓が跳ね上がるような感覚を覚えた。それはまるで、あの日、壇ノ浦で望美に銃を向け、そして自分たちに仮初とはいえ敵意を向けた時のことを思い出させたからだった。そんなことは彼のその弱弱しい笑顔からは感じ取れないことのはずなのに、と思いを巡らせて、だから話したいことがあるのだ、と九郎は覚る。

「奥方様が心配しないか?」

 彼を和ませるように軽口を叩いた九郎に、景時はやっとほっとしたように息をついた。

(ああ、望美に聞かれたくなくて、望美に聞かせたくないことなんだな)

 心の裡で九郎はつぶやいた。
 あまりにも多くのしがらみを、彼女は取り除いたけれど、それでもなお自分たちは、まだたくさんのしがらみを持っているから、と。





「ね、惚気話だと思っても聞いて」

 九郎の邸で、彼の杯を景時が満たす。その杯を受けて、わりに酒に強い九郎はそれを一気に飲み干した。それをふたり繰り返してずいぶん沈黙が続いてから、やっとのことで景時が切り出したが、酔いは、互いにちっとも回っていなかった。

「ああ」

 九郎が短く応じれば、景時は言葉を慎重に選ぶように言った。

「オレ、望美ちゃんに好きだって言えない」

 ぽつん、と言葉が落ちた。宵闇の中にその言葉が融ける。月が冴え冴えと二人を見ていた。
 九郎は言葉を差し挟まずにその先を待った。

「うん、こんな馬鹿な惚気みたいなことの前に、オレは九郎に言わなきゃならないことがあって、それを言って、たくさんのことを終わらせてからじゃないと、オレは心から望美ちゃんに好きだと言えない」

 杯を持った景時の横顔を、九郎はじっと見つめて、それからその杯を満たした。景時はそれを見遣りもせずに、思考に耽っている。耽っているのに、その杯は彼の唇に運ばれる。二人で酒を酌み交わすのが、あまりにも長く自然に続いてきたことだったからだった。

「荼吉尼天は討った、頼朝様から平穏をもぎ取った、もう何も怖くない。その中で望美ちゃんはオレを信じて、選んで、元いた世界を捨ててまでオレと一緒になってくれた。だけど、オレにはまだ……」

 何が不満なんだ、と言いかけて九郎はそれを飲み込むように杯を呷った。
 その先は、なんだか分かる気がしたからだった。

「九郎。謝って許されることじゃないって分かってる。だけど、オレは頼朝様が九郎をいつか排そうとしていて、望美ちゃんを殺そうとしていて、そのすべてをオレは知っていて、知っていたうえに引き受けていた。それなのに、オレは九郎の友であろうとして、あまつさえ、望美ちゃんを愛してしまった」

 その懺悔を、九郎は静かに聴いていた。だから景時は続けた。

「天女の羽衣。オレはずっと頼朝様と政子様に縛られていて、未来なんて考えたこともなかった。淡々と殺しだろうと密告だろうと、汚れた仕事をこなして、そうやっていつか死ぬんだと思ってた。なのに、白龍の神子が、望美ちゃんがやってきた。やってきて、オレを八葉だと言った。嘘だと思ったよ。だけど本当だった。そうして一緒にいるうちに、たくさんのことを話してしまううちに、オレは彼女から羽衣を奪うことを考えたんだ」
「聞いたことがある。沐浴をする天女の羽衣を奪って、返してほしくば契りを結べ、と」
「そう。それがないと天女は天上に帰れない。なんて浅ましいと思わないか、九郎?」

 そう言った景時はぼんやりと宵闇の中で輝く銀の月を見上げた。
 感傷的な雰囲気が流れたと思われたその瞬間だった。
「ったあ!!く、九郎!?なに、なんで急にぶったの!?」

 その横顔を、九郎は思い切りはたいた。

「お前が馬鹿なことばかり言うからだ!」

 九郎の怒声が響く。それに景時は唖然とした。

「俺は、お前が兄上から命じられる陰惨な命を知らなかった。そのくせ名代などと言っていた。友であるお前のこと一つ分からないくせにだ!そのうえ、望美を無理やり引き留めただと!?そんなことあるわけないだろう!望美がそんな女だと思っているのか!?自分の意志を貫き、お前に殺されると思ってさえお前を信じ、俺たちを信じた望美を、お前の妻を、お前はそんなふうに思っているのか!」

 一気に言われた九郎の言葉に、景時は最初面くらっていたが、徐々にじわりじわりと目元に水の膜が広がるのを感じた。

(誰かに、許してほしかった)


 心の裡にそんな言葉が浮かぶ。


(違う、望美ちゃんは許してくれていた。九郎だって、みんなだって)


 では誰に?


「オレは、オレ自身を、許したかったんだ」

 九郎を見て言ったそれに、彼は突っぱねるように言い返した。

「その言葉も、その涙も、帰りが遅くて寂しがっている奥方のためにとっておけ!」





 九郎の邸から夜半に戻った景時を、望美は寝所で出迎えた。
 月明りが望美を薄く銀に包んでいる。

「ただいま」
「おかえりなさい」

 いつも通りの言葉の後で、少し居心地の悪そうな望美に構わず、景時は彼女を抱き締めた。

「ね、望美ちゃん。さっき帰ったら朔がさ、「ごめんね」って言葉のことを教えてくれたよ」
「っ…景時さん、私、我儘ばっかりで」
「そうじゃない、そうじゃないんだ」

 望美を抱きすくめたままで景時は言った。

「オレ、君に「好きだ」って言うのが怖かった。許されない気がした。だから君を抱いて、君の中にオレがいる時だけ、オレで支配できるときだけ言った。そうでないと君を、穢してしまう気がしたから」

 その言葉に反駁しようとした望美を景時は急に抱きすくめる手を緩めて、深い口づけでふさいだ。
 唇が離れて、その至近距離で景時は続ける。

「無理やり、君をこの世界に留めたような気がずっとしていた。君はそんなこと思う人じゃないって知っているのに、裏切り者のオレが、君と一緒にいて、君を好きだと言ってはいけない気がしていた」
「そんなこと、ないです。私、景時さんが好きだから、愛しているからここにいるんです」

 望美はそう言って彼にぎゅっと抱き着いた。それに応えるように景時も彼女を抱き締める。

「うん、だからオレはオレ自身がまだ許せなかったんだと思う。君を好きだと、愛していると言えるオレ自身を」

 ああ、と望美は思う。やっぱりこれは私に解決できることではなかった、と。
 彼が納得しなければ、解決できない。きっと神様にだって無理だ。
 だけれど今ならきっと、大丈夫だと望美は思った。

「景時さん、抱いて」
「え?」


 突然の言葉に素っ頓狂な声を上げた彼が可笑しい。いつだって、毎夜のように褥を共にしているのに。そういえば、望美から誘ったのなんて初めてかもしれない。

「ひどくして」
「望美ちゃん?」
「ひどくして、私がもう忘れられないくらい、景時さんが私のことを好きだって何回だって言えるくらい、安心するまでいっぱい、抱いて。いっぱい景時さんを残して」

 煽情的なその言葉と、柔らかなのにどこか艶を含んだ顔に、頬に、景時は手を伸べる。

「ひどく、かあ」
「いっぱい、いっぱい」
「でもオレ望美ちゃんにひどくなんてできないよ」
「じゃあ、景時さんが満足するまで、好きにしていいよ」

 そう言って望美はしゅるりと帯を抜いた。





「んっ…くぅ…あっ」


 べろりと景時の熱い舌が望美の太ももを舐め上げて、望美はくぐもった声を上げた。頭上では、望美の帯で自由を奪うように、しかし痕を付けることのない加減を施して手を縛られていた。
 これでは確かにひどくしているな、と景時は内心苦笑した。
 しとどに濡れそぼっている秘所には目もくれず、景時は望美の全身を丹念に舐めては赤い花弁を散らす。そのたびにびりびりとしびれるような快感を望美は拾って、秘所からは愛液が流れ出している。それを今度は景時はじゅるとすすった。

「ああっ!やだ、あっ」
「望美ちゃん、すごいね。全然触ってないのにこんなに溢れてくる」
「景時、さん、が、体中…」
「んー?」

 望美の抗議を受け流して、彼は今度は彼女の脚から離れて、乳房をやわやわと揉む。これももう何度目か知れない。秘所だけを置き去りにして、体中に快感を与えられるもどかしさに、望美は身もだえた。

「だめえ、変になっちゃう…!」
「何が駄目なの?望美ちゃんの胸、やわらかくて、おっきくて」
「言わ、ないでぇ…ひゃんっ、あ、あっ」

 ぐいと揉みしだけば望美は震えながら嬌声を上げた。

「あああ!やあ、んっ、だめ、だめえ!」

 その頃合いを見計らうように突然に乳房の頂をつまめば、ひときわ大きな甘い声が上がって、望美の体はつま先までピンと緊張したように力が入る。そしてそれはすぐに弛緩して、望美は熱い息を浅く繰り返した。

「胸だけでイっちゃった?」

 意地悪く耳元で囁けば、望美は羞恥からふるふると震えた。

「景時さんの、意地悪」
「ひどくしてって言ったのは望美ちゃんだからね?」

 しれっと言った景時に、果てたあとの少しの疲労の中で望美は耳元近くにいる景時に言った。

「手、外してください。ぎゅってしたいの」

 可愛らしい懇願に、景時は相好を崩す。

「御意ってね」





 ひどくするのも、穢してしまうのではないかという心配も、もうどこかに行ってしまった。
 望美の手を自由にしたら、望美は起き上がってぎゅっと景時に抱き着いた。胡坐の上に乗せるようにその一糸まとわぬ彼女を抱き留めながら、景時は器用に自身の着物の帯を抜き、衣をはだける。それから自分の正面で抱きすくめている望美の秘所に指を伸ばした。

「あっ」
「ぐちょぐちょだね」
「やんっ、かげときさんっ」

 ずっと触れられず、待ちかねたその指が軽く触れただけで潤んだ瞳で望美は快楽を受け止める。その姿にもう景時も耐えきれなかった。

「もう大丈夫だよね」
「えっ、ちょっ!」

 胡坐の上にいた望美を、景時は片腕だけで少しだけ抱き上げる。流石は武人か、片腕の力で望美を支えながらもう一方は望美の秘められた場所を指で割り開く。

「挿れるよ」
「待って、そんな、急に…!ああっ!」

 もう固く張りつめ、屹立していた景時のそれが垂直に望美を貫く。突然の刺激に望美の体はびくんと震えて、挿入されたそれだけで果ててしまう。

「待って、イっちゃったからあ、だめえ、今、いまは、ああああ!」
「だあめ。待たないよ。何回だって気持ちよくなっていいんだよ?」
「あっ、また、またくるよぉ…!」

 望美の腰を掴んでぐちゅぐちゅと挿入を繰り返せば、望美は快感の波にのまれて何度も果てた。

「景時さん、も、あ、も、気持ちよすぎて、おかしくなっちゃうよぉ」

 もう自分が何を言っているのかもわからないような望美の声に、景時の昂りも一気に煽られる。

「くっ、望美ちゃん、出すよ」

 景時にも快楽の限界が来て、昂りから放たれた劣情を望美が受け止める。

「熱くて、きもちい」

 熱に浮かされたように相当に恥ずかしいことを言ってとろんと景時を見た望美に、入れっぱなしの昂りがまた固くなるのを景時は感じた。どくんと脈打ったそれに気が付いていない望美に「ひどくして」なんていう大義名分があるんだからと景時はやめる気なんかないと開き直って、今度は望美を褥に横たえる。
 長い夜は、続く。





 景時は桶で濡らした布を固く絞って、情事の残滓でべとべとになった望美の体を丹念に拭く。

「今、式がお風呂沸かしてるから一緒に入ろうね。それまでこれで我慢して」
「ん。景時さんに拭いてもらうの気持ちいいです」

 えへへと笑った望美に、毒気を抜かれたように景時も笑ってしまう。

「ねえ、オレはさ、オレ自身が許せなかったんだ。望美ちゃんはオレが銃を向けても信じてくれて、逆鱗をくれて、オレが頼朝様と対峙している時も信じて戦ってくれて。そして、オレのいるこの世界に残ってくれた。全部君が選んだことなのに、オレにはオレが君を縛っているんだと思えてしまって、君に謝ることしかできなかった」

 景時の告白を聞きながら、望美はゆっくりと起き上がった。まだ気怠いだろうその彼女の背中に彼は腕を差し入れて支える。互いに何も身に着けていないから肌と肌が触れ合って、心臓の鼓動が融け合った。

「ずっと言いたかった。でも言えなかった。九郎に、朔に、みんなに、たくさんのことを言われて、そうして君自身に、これが君の選択だと言われて、オレはやっとオレ自身と向き合えたんだと思う」
「はい」

 春の終わりの夜明け、月の明かりは残光をたなびかせその役目を朝日に譲ろうとしている。その中で、その月の女神を景時は掻き抱いた。

「だから、今度こそ。今度こそオレが本当に君に言いたかったことを言わせて」

 鼓動が、融け合う。
 どくん、どくんと彼の心が、彼女の心が、互いの中に流れ込むそれはひどく心地が良くて、彼女はゆっくりと目を閉じて彼の言葉を待った。

「オレは君が大好きだよ。誰よりも愛している。何度だって言える」

 言葉が浸み込んでくる。望美は体全体で、心のすべてで、彼のその思いを受け止めた。

「君を愛している。この世で一番、いとおしい人」




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2017/09/07