春を待つ人


 指先に感じる寒さに思わずはあっと息を吹きかけたら、景時さんは慌てたようにその手を取ってくれた。

「ごめんね〜、手、冷たくなっちゃったね。あったかい飲み物買いに来てこれじゃあ形無しだ」

 ショルダーバッグに自分の分の缶コーヒーを放り込んで、私にホットココアを渡すと、景時さんはごく自然な動作で自分を車道側にして私の手を握ったまま歩き始めた。目的地の公園はすぐそこだ。
 私はこの冬が終われば、高校を卒業する。冬は、もう終わろうとしていた。
 平泉の冬にした私との約束を忘れずに、私を追ってきてくれた景時さんは、白龍と、そして九郎さんの計らいで朔と二人のお母さんも一緒にこの現代にやってきた。
 その時の驚きは今でも忘れられない。神様の力っていうのは本当にすごくて、梶原家の家屋も、戸籍も、資産も準備できた。
 そうして朔は突然私の同級生なったのに三角関数なんて3日で覚えたし、お母さんはガスコンロを半日でマスターしたという話だし、景時さんに至っては用意されていた肩書をもとにパパっと就職してしまったのだから梶原家の順応力は生中のものではない。

「冬も終わるね」

 温かい飲み物を買って公園に行こう、寒いから。なんていう提案自体が出かけるための口実だと互いに分かっていた。家から出れば寒いのは当たり前だし、景時さんの家に行くのではなく、二人で、誰にも聞かれない場所で話がしたかった。
 互いにそうだったのだと思ったときの妙な感覚がある。シンクロニシティ、と私は口の中でつぶやく。
 そう思ったら私にはうすぼんやりと彼の胸元に鮮やかなグリーンの宝玉があるのを幻視してしまう。
 そう、私がまだ白龍の神子だったころの話を、一時間も経つ前に彼にしたからかもしれない。

「陰陽師って、風を読めるんですよね、占い」

 冬と春の曖昧な境界線のような風を見上げるようにしていた景時さんに言ったら、彼は驚いたようにこちらを振り返った。

「驚いたな。誰から聞いたの?……そうだね。星も風も暦も、全部オレにはなじみ深いものだったよ」

 今はもう違うけれど、と静かに付け足されて、私はゆっくりと彼に握られている手を離した。

「景時さん、私も朔もこの冬が終わったら高校を卒業しますね」
「そうだったね。もうなんかいろいろと早いなあ」
「景時さん、景時さんは私との約束を守って、こっちに来てくれた。追いかけて来てくれた」

 私は、一歩彼から距離を取り、真っ直ぐに彼を見上げる。彼の嘘や諦めを見抜こうとでもいうのだろうか。そんなこと無理なくせにと私の中の私がせせら笑う。彼の嘘や諦めは、一度見たものを書き換えただけのくせに、と。

「後悔していることは、ない?」
「……」

 私の目を真っ直ぐに見つめて、景時さんは嘘や偽りのない目で黙っていた。沈黙が降ってきて、それからどれくらい経っただろう。きっと5分も経っていないのに、私には何時間も見つめ合っているように思えた。

「しているよ」

 その沈黙の末に出てきた答えに、私は大きく息を吐いた。落胆でもあり、安堵でもあるそれは白い吐息になった。

「後悔、している。九郎たちを置いてきたし、梶原の郎党はきっと路頭に迷った。そして何より、オレは頼朝様を捨てたから」

 私は大声で泣き叫びたい気持ちになった。
 悲しくて、嬉しくて、悲しくて、辛くて、痛くて、幸せで。
 相反する感情がぐちゃぐちゃに混ざって。
 だって、知っているんだもの。

「オレの罪は君を裏切ったことだけじゃないんだ。オレが裏切ったのは君だけじゃない。オレは主を捨てたから」


 私は、私は、ワ タ シ ハ 


「冬になるとね、思い出す。春になり切らない頃の冬の終わりは特に。だから今日君を誘って、いや、君に白龍の逆鱗の話を聞いたときからずっと、これをきっと言わなければならないと、思った」

 景時さんは、目の前の私を抱き締めた。私はその背中に手を回して必死にしがみつく。泣いている。私も景時さんも泣いている。
 冬の終わりのこんな時は。
 彼にあんなにも残酷な約束をさせたこんな時は。

「私はあなたに私を選ばせてしまった」


 私は全部知っていたの。
 屋島で、壇ノ浦で、福原で、平泉で、鎌倉で……
 私はすべての運命を知っていたの。


「オレは君を選んでしまった、オレは君を選んだ」


 あなたは全部知らなかったの。
 屋島で死ぬことも、私に銃を向けることも、福原を私が軽率にも攻めることも、平泉であなたと戦うことも、あなたが鎌倉を裏切ることも……
 あなたはすべての運命を知らなかったの。


 だけどこの運命だけは。
 あなたが、私を追ってきてくれる運命だけは―


 あなたも私も知らなかった運命だから。


 あなたが追いかけて来てくれるかどうか、私には分からなかった。
 私はそんなことまでやり直そうなんて思えなかった。
 だから、今ここにあなたがいることは私の運命の中で唯一私が切り拓くことのできない運命だった。
 私はその運命に懸けていたのかもしれない。
 何を?
 何を懸けたの?

「ねえ、望美ちゃん。オレはさ、たくさん後悔して生きてきて、今も後悔していることがあるけれど、君を追ってきたことさえ後悔することがあるほどの小心者だけれど、君はオレを選んでくれる?」

 違うの、違う。
 選ばれるのは私なんだ。


「わたしをえらんで」


 言葉は涙のせいでたどたどしくなった。選んでくれと頼まれたのに、私は私を彼が選んでくれたことをまだどこかで恐れている。
 幸せなのに、選ばれることは何よりも幸せなことなのに、私はこの未来を知らなかったから。
 この運命を知らなかったから。
 運命の前に立たされるのが、こんなにも怖いのだと私は逆鱗を持たずにそこに立っている自分という当たり前の人間を俯瞰していた。


「オレは君を選ぶよ」
「違うの、私は、あなたに…!」
「選ばせたんじゃない」

 私の言葉をさえぎって、景時さんは言った。

「オレは選んだんだ。ずっと選べない、誰かについてくしかない、そんなオレが世界を捨ててまで君を選んだんだ。君は、この未来は知らないんだろう?」

 固く抱き締め合っていた腕が少しだけ緩んで、顔を覗き込まれる。深い色をした瞳は、私が今までやってきた運命の上書きというすべての浅ましく脆く、儚い行いを知っている瞳だった。

 知っているに決まっている。だって私が話したんだもの。
 だって知らなければこの世界に来られはしないもの。
 でも、知ってしまったらきっと私は選ばれないと思っていたのに。
 そう、私は私の行いの罪深さを知っていたのに。


 知っていたのに、私は私を選んでほしいと口にしたのだ。


 なんて強欲で、なんて愚昧。


 それなのに、彼は私を選んでくれる。
 私はこの未来を知らなかった。
 だから私は選ばなければならない。この、運命を。

「景時さん、私はあなたを選びます」

 あなたと出会って、いくつ季節が過ぎただろう。
 私はやっとこの運命の帰結を選ぶことが出来た。

 冬は終わろうとしている。




2017/9/11