邯鄲


 その日々はあまりに長く、その日々はあまりに短い。
 その人はあまりに遠く、その人はあまりに近い。


 さらりと長い髪をひと房指に絡めて、景時は桃色のやわらかな糸のようなそれを眺めた。
 昼過ぎ、戦はなく、怨霊もいない。況や、彼をずっと見張っていた神の気配もない。そんな昼下がりに自分の別邸の一室で、御簾を開け放って眠っている少女に抱く感情に、どのような名前を付けるのが正解なのか、彼は先ほどからずっと考えている。
 ひどく現実感がない。
 ふわりふわりと初夏の草木の香りが入ってくるのはいいが、日差しは午後のこの時間に少し強くなる。火傷をしては可哀相だし、御簾を下ろそうかとも思ったが、それでは日向ぼっこをしていたのかもしれない望美の本意ではないような気もした。

「猫みたい」

 景時が小さな声で言って彼女の髪を撫でれば、むずかるように体を余計に丸めてみせる。それが可愛くて、彼は結局御簾を下ろしてしまった。下ろしてそれから、彼女を抱き上げて床に運ぶ。その動作にもうとうとと目を覚まさない望美を、誰の目にも触れさせたくないという少しの独占欲から出た行動だった。
 床に運んで、それから景時は望美の頭の下に自分の腕を差し入れる。そうして自分の妻になった望美の横に寝そべる形でじっとその顔を見る。
 白い肌、長い髪、あどけないほどに幼い顔の作り。
 そのどれもに現実感がない。
 彼女が戦っていたことだろうか、それとも彼女が自分を受け容れて選んだことだろうか、それとも自分が彼女に全てを託したことだろうか。

「なんて、傲慢」

 つぶやいたらそれはひどく軽薄に思えた。
 逃げようと縋った時に、選ばれると思ったのだろうかと自問する。
 選ばれるはずなどなかったのを十二分に知っていたくせに、その選択を迫ったのだという事実。

「オレはね、ただ君に教えたかっただけなんだよ」

 自分がどれほど汚く、どれほど浅ましく、どれほど凄惨なことを平然とこなしてきた人間であるのか、それを聞いたならばきっと、あの屋島に残った彼女だってきっと、きっと今度こそ見捨ててくれる、と思ったのに。
 一緒に逃げたかったなんて嘘だ。そんなことを望美が受け容れるなどと考えたことはなかった。ただ彼女を殺さずに済むならどんな結末でもよかった。この結末を選んだのが、だから自分であるのか望美であるのか、彼にはいまだ分からない。
 そう静かに思惟していたら、望美が腕の中で少し瞼を震わせて、それからゆっくり目を開けた。

「おはよう」
「…?私、寝て…?あれ?景時さん?」

 自分が寝ていたことも、景時の顔が目の前にあることも、全部が全部想定外といった様子の望美に景時は笑いかける。

「オレの邸でこんなに心安く眠っちゃいけないんだよ」
「…?どうしてですか?」

 まだとろんと眠そうな望美は、そう言って聞き分けない子供のように景時の胸に抱き着いた。

「景時さんのおうちなのに…寝ちゃダメなんてあるはずない、もの」
「望美ちゃん?」
「それとも、景時さん、怒ってる?」

 私寝てたから?と寝起きゆえにたどたどしく続けてぐいぐいと額を胸板に押し付けてくる望美を景時はたまらなくなって抱き締めた。

「そんなことで怒るはずないでしょ」
「ん」

 まだ眠いのか、景時に抱き締められたそこで短く答えた望美のぼんやりした様子に、景時の中にふと暗く冷たい想念が浮かんだ。

「ねえ、眠い?」
「んー、ちょっと?」
「じゃあ今からオレが言うことはきっと忘れちゃうね」

 なんて卑怯で、なんて傲慢。そう思いながらつぶやくように言ったその言葉に、今度こそ望美はぱちりと目を開けた。そんなことに望美を掻き抱く景時は気付いていなかったけれど。

「オレはこの時間がまだ夢だと思っている。だってオレなんかを君が受け容れるはずなかった。君の八葉だったのだって何かの間違いで、いや、そもそもそれだってオレの夢でしかなくて、オレは目が覚めたらすべてまやかしだったと覚るんだ」

 望美はその言葉をはっきりと聞いていた。すべての事柄を一つずつ否定して回りたいのに、今はまだ口を挟む気にはなれなかった。

「そう、そのまやかしにも一つとても大きな効用がある。オレはその夢を見てね、今までの自分の来し方を初めて振り返るんだろうね」

 諦めのように言われたそれに、望美は景時の腕から逃れるように出ていく。その動きさえ、景時は驚いたようではあっても、だけれど邪魔をしはしなかった。それがひどく寂しいと、彼女は思う。寝そべる夫を半身を起こして見下ろせば、ひどく泣き出しそうな情けのない顔をしてこちらを見返す景時に、望美は静かに言った。

「今の私は景時さんを追い詰めていますか」
「……え?」

 望美の問いに、景時は目を見開く。その驚きの顔に望美は続けた。

「私が景時さんを選ぶたびに、景時さんは自分の人生を振り返ってしまうの?」
「それ、は……」
「私はあなたを否定するためにあなたを選んだわけじゃないのに、私は景時さんを否定してしまうの?」

 凪いだ瞳がこちらを見返して、その答えを待っている。
 その瞳はいつも、自身のすべてを抉り出し、すべてを曝させ、すべてを漂白する。

「怖いな」

 だから正直な感想を言った。そうしても、望美の鋭利なまでの視線はなんの色も帯びはしない。
 叱責も、悲嘆も、侮蔑も、落胆も、ない。
 ただ己を見返し、ただその中に映る自分自身を見返せば、すべての答えがそこにあるように思ってしまう。いつからだろう。彼女の初陣かもしれないし、あの奇襲の時かもしれないと彼は遠い記憶を辿る。
 言わなくてもいいことを、聞かせなくてもいいことを、滔々と話してしまうようになったのはいつからだろう。誰にも言わないはずの言葉を言ってしまうようになったのはいつからだろう。彼女のその瞳に、視線に射られると、どうしても「本当のこと」を話してしまいそうになる。
 嘘がばれているのではなくて、自分が勝手にどこかで本音を話しているのではないかと思うのも、だからもしかしたら無理からぬことなのかもしれないと景時は思いさえすることがある。

「怖い?私が?」
「うん、とても怖い」
「なぜ?」

 問い掛ける妻に彼はどう言葉を紡ぐべきかと思いながら、その実、その言葉たちは思考を経由せずに勝手に口から落ちていった。

「君はオレを正気にしてしまう、いつも」
「……」
「ああ、そうだ。君がこの世にいる時、オレは夢を見ることができない。本当に君は夢のような存在で、これが夢であるのではないかとオレは思っているのに、君がそこに存在している時、オレはそれを夢にすることができない。君という存在が、君の言葉が、視線が、オレを正気にしてしまう。正気で生きられる人間なんてほとんどいないんだよ」
「どういう意味?」
「君は明らかな現実で、オレは必死に君との時間を夢と思おうとするけれど、君はどうしたってそこにいて、オレにこれが現実だと指し示す。オレの、大切なひと」

 そう言って望美の頬に手を伸ばせばその手に望美は自分のほっそりした手を重ねた。そうして頬に導けば、やさしく何度も撫でられる。

「夢が覚めれば君との時間が無くなるなんて嘘だ。むしろオレには君のいない時間の方が夢のように長く、現実のように当たり前だった。オレの世界に君のいる時間は夢のように短く、虚構に似ている」
「だけれどそれが現実なの。私はもう選んだから」

 選んだ、というその言葉の意味を、彼はずっと量りかねている。たぶん、知ることはないのだろうと思う。いや、いつかの時に彼女は話してくれるのかもしれないけれど、それでも本質的にその「選んだ」という意味を知る日は来ないと彼は思っていた。きっと自分には計り知れない事象のような気がしていた。

「そうだね、君はここにいる」

 だから、彼女が生きてここにいて、自分が生きてここにいる、という現実に向き合うという至極単純な事実にいつも突き当り、その事実、もはや現実というも烏滸がましい程度の事実を受け容れることが、だけれど彼には時折ひどく難しい。

「景時さん、私はもう景時さんから離れたりしない」

 そう言って、その手に頬を預けた望美に、景時は今度こそ自分も体を起こす。そうして彼女の小さな体を抱き締めれば、望美はそれに応えてくれる。

「あなたに失わせたりしない。あなたを失ったりしない。間違わない」

 何が間違いなものか、とその夢のような現実を抱き締めながら景時は思う。
 今ここに彼女がいるのは、たぶんすべてが作用していると、どこかで彼は知っていた。
 彼女の八葉であったことなど関係がない。自分が源氏に寝返ったこと、何度も意に染まぬまま人を殺めたこと、すべて隠して死のうとしたこと、彼女さえも殺そうとしたこと、彼女に銃を向けたこと。
 知る術はない。確証もない。だけれどそのすべてが作用して、この存在は今自らの隣にいるのだと知っていた。そうでなければこれが現実になるはずがなかった。

「君はオレにすべてを教える」
「そんなの無理ですよ」

 うっとりとその腕の中で笑った女神に、彼は小さく口づけた。

「君といるとうつつを抜かすことができないな」
「それはいいこと?」
「とてもいいこと」

 彼女という現に、彼は今も酔いしれている。




2017/5/5