雪の王
悪魔が作った鏡の欠片が世界中に飛び散った。それが心に入った人間は、そのさがが、歪んでしまった。
***
「兄さん、目が痛いの」
「どうした?」
杏はバラの植木のそばで目を覆った。兄である桔平が覗き込んだが、特段の変化はない。
「どうしたのかしら。今度は胸が痛いような…」
桔平が、言い差した杏の背中を撫でようとした時には、その痛みはどこにもなくなっていた。
悪魔の鏡のかけらが入り込んだなんて、だから二人は思いもしなかった。
夏バラの咲くころのことだった。
***
杏の性格は、夏のあの日からおかしくなってしまった。あんなに活発だったのに、無口になってしまい、内向的な性格になったのだ。そうして季節は廻って冬が来た。北風がビュービュー吹く中、桔平は杏を無理やりソリ遊びに連れ出した。そうでもしないと、家から出もしないからなのだけれど、彼はそのこと深く後悔することになる。
「寒いわ。帰りたい」
杏が口にするのはどれもこれも不満ばかりだった。それでもソリを引いて遊ばせていたが、桔平は遊び仲間に呼ばれてしまう。ちょっと目を離したすきのことだった。杏を乗せていたソリが大きくて立派なソリに結び付けられるのを、誰かが見た。
でもそれは、そんなにそんなに心配することではないと周りは思った。農夫の大きなソリに、子供が自分の小さなソリを括り付けて遊ぶのは、よくある遊びだったから。
だけれどその大きくて立派な純白のソリは、どんどんと進んでいく。町の門の方に行ってしまったところで桔平はそれに気が付いて、思わずぽかんとそれを見つめた。―――杏のそりを括り付けたそれは、遠目に見ても純白で、この世には無いかのようなソリだったから。
***
「どこに連れて行くの!?降ろして!」
心が弱弱しくなってしまっていた杏にも、この状況がおかしいのはよく分かって、そうしたら恐怖がやってきた。ソリは、もうどことも知れぬ場所まで来ていて、雪がごうごうと舞う中を走るのは、あんまりにも寒かった。
「寒いか」
そこで初めて、そのソリを駆る男がソリを止めて、それから括り付けていた杏のソリを外すと、彼女を自分の豪奢なソリに乗せた。
「寒いわ。凍ってしまいそう!」
杏は叫んだが、それを見下ろす男の顔は、美しい雪のように白く、漆黒の髪がそれを際立たせていて、彼女は見とれてしまった。見とれてしまったそのうちに、男は彼女の額にそっと口付ける。
「あ…れ…?」
「もう寒くないだろう?」
そうしたら、こんなに雪が吹き荒んでいるというのに、杏の中から寒さが消えた。それを見て、男はもう一度彼女の額に口付ける。
「なん…だろう…」
その口付けは、杏の心臓を凍りつかせるほどの冷たい冷たい口付けだった。だけれど彼女はその冷たさに気がつかない。そうして、彼女の凍ってしまった心臓は、優しかった兄のことも、きれいな讃美歌も、生まれ育った家のバラの鉢植えも、みんなみんな忘れさせてしまった。
それどころか、心地よい額への口付けに、ぽーっと男を見返したが、男は唇に指を当てる。
「もう一度したら、お前の心臓が本当に凍って、お前は死んでしまう」
「そうなの?じゃあ、あなたの名前は?」
そう聞いたら、今まで無表情だった奇麗な男が、ちょっと困ったように笑った。
「蓮二」
彼はそうだけ言って、またソリを駆った。
***
杏はもういないのよ、ソリに引きずられて冬の川に落ちてしまったのよ、と大人たちが口々に言うのを、桔平は信じられない思いでいた。だって、確かに性格は変わってしまったが、杏はあんなに元気だったのに、自分がちょっと目を離したすきにそんなことになったなんて、信じたくなかった。
「探しに、行かないと……!」
***
蓮二、と名乗った男の住いは、きらきらと輝く氷でできた宮殿だった。王様か何かなのかしら、と杏は思ったけれど、蓮二はあまり多くのことを言わなかった。だけれど時折、杏の顔をじっと見る。それに杏は、こんなに奇麗な顔の人が他にいるかしら、と思うものだった。氷でできた宮殿を、寒いと思ったことはない。―――蓮二の口付けのおかげだった。
杏が眠ってしまったあと、ベッドに掛けられた銀の織り込まれた紗の天蓋を軽く持ち上げて、蓮二は杏の頬を撫でる。
「お前は覚えていないだろうな」
それは、杏の心臓に悪魔の鏡の欠片が入ってしまう前の冬のことだった。凍て付いた窓に暖炉の上で温めた銅貨を当てて、そこだけ丸く融けた窓の向こうを杏は目を凝らして眺めていた。外にあるのは吹き荒ぶ雪ばかりだったように杏は思っていたのだが、その時も、蓮二はソリを駆って街を歩いていた。
その時、その氷が融けた丸い窓の向こう側の綺麗で、無垢な少女の瞳に、蓮二は心を奪われたのだ。だけれど、雪の王である彼に彼女は眩しすぎた。
だけれど彼はそれからも時折杏を見に行っていたのだが、いつしか杏の心臓に、瞳に、悪魔の鏡の欠片が入り込んでしまったのに気が付いた。どうにかしてそれを取り除いてやりたくて、彼女の兄が目を離した隙に攫ってしまった。だけれど、こうして傍に置いても、取り除いてやることが出来ない。―――彼が、どうしても思い出す事の出来ない言葉さえ見つかれば、彼女を救うことが出来るのだけれど。
***
桔平の杏を探す旅は苦難を極めた。一度魔女に捕まったし、花たちは自分の話しかしないし、やっとのことでどこかの王子と王女から金の馬車をもらって道を進んでいたら、山賊に襲われた。
(ああ、殺されるな。済まない、杏)
山賊に捕まって、美味そうだとナイフを突き付けられた時、ふとその山賊の手をひねるように握る手があった。
「待って。その子は僕に任せてくれない」
「周助、うるせーぞ!」
山賊の大人たちはその、桔平と同じくらいの年の子供を怒鳴りつけたが、周助と呼ばれた少年は、目をぎらつかせて言った。
「殺されたいのか」
そう凄まれたら、大人たちがぐっとひるむ。そうして、「勝手にしろ」と言い置いて、それぞれまた根城に向かって歩き始めた。
「おい、なんで庇った」
桔平が、横を歩く周助に言ったら、彼は微笑んで言った。
「事情がありそうだったから。だって、こんな山道を馬車に乗って歩く子供なんていないだろ」
そう言われて、桔平は黙り込む。黙り込みながら歩いて、そうして静かに、杏が攫われたこと、これまであったことを話した。そうしたら、周助は納得したふうにしてうなずく。
そうしているうちに、山賊の根城に着いた。
「狭い寝床で悪いね」
「いや。寝床があるだけありがたい」
「僕は床で寝るから、ゆっくりするといいよ」
「済まない。お言葉に甘えさせてもらう」
桔平がそう言ったら、思案するような顔の周助が言った。
「僕の寝床にはハトが来るんだ」
「?」
「ハトは、いろいろなところを飛ぶから、その杏ちゃんのことを何か知っているかもしれない」
「そう、なのか!?」
そう、桔平が叫ぶように言った時だった。パタパタっと羽音がして、白いハトが一匹入ってきた。
「ほら、来た。ねえ、純白のソリに乗せられた女の子のことを知らない?」
「純白のソリだって!?そんなのを持っているのは雪の王だけだ!そういえば、雪の王がそのソリに、女の子を乗せているのを見たぞ」
「どんなやつだった!?」
ハトの言葉にたまらず桔平が言ったら、ハトは驚いたように桔平の方を見て、それから言った。
「きれいなさらさらした髪で、前髪に金色の髪留めを付けていた」
桔平はそれに息を呑んだ。間違いない。その金色の髪留めは攫われたあの日に付けていた物だし、桔平が杏の誕生日に贈ったものだったから。
「杏は…雪の王のところにいるのか…」
「僕、宮殿の場所は知ってる。今晩地図を描くから、明日知り合いにトナカイを出してもらおう。大丈夫だ。杏ちゃんはきっとそこにいる」
***
次の日、周助の用意してくれたトナカイに桔平は飛び乗った。
「宮殿のあたりは雪がひどい。気を付けて行くんだ」
「分かった。世話になったな」
「いや。杏ちゃん、きっと無事だから。僕もここから杏ちゃんの無事を祈っているよ」
山賊の少年とは思えないことを言った周助に少しだけ笑って、桔平はトナカイを走らせた。
***
杏は、氷のピースを幾日も幾日も組み合わせてたくさんの言葉を作っていた。それがその宮殿での唯一の遊びだった。それ以外は蓮二の隣をちょこちょこしているしかないから。
蓮二は、自身がどうしても思い出せない言葉を杏が作ってくれることを願っていた。そうしたらきっと、杏の心を元に戻せるかもしれないと思ったからだ。
そうして氷のピースで遊んでいる杏の傍に、蓮二が来た。
「蓮二くん!」
「楽しいか?」
「うん!」
そう言った彼女の声は楽しそうだったが、あの時見た純粋な瞳はない。笑顔もどこか違っている。
「思い出せない言葉があってな」
「?」
「いつも俺の傍にあることのはずなのに、どうしても思い出せないんだ」
唐突に言った蓮二の顔を、杏は覗き込む。とても苦しそうな顔だった。
「蓮二くん…?」
「それが思い出せれば、お前を助けてやれるのにっ…!」
悲痛な声を蓮二が上げた時だった。
「杏!」
「え…?」
「貴様!杏から離れろ!!」
宮殿に辿り着いた桔平が、乗り込んできたのだった。
***
「この人は、悪い人じゃないわ」
「だけど!お前を攫ったんだぞ!!」
桔平は蓮二を睨みつけて言った。蓮二としては事実に違いないので返す言葉もない。
「私を、助けてくれるって言うの。言葉さえ見つかればって」
「そんなこと…!」
叫ぶように言った桔平に、蓮二が重い口を開いた。
「杏は、性格が変わってしまったことはなかったか」
「…あ…」
「心当たりがあるだろう?それは、悪魔がばら撒いた鏡の欠片が心臓に入り込んでしまったからだ。俺は、どうにかしてそれを取り除きたくて杏を攫った。済まなかった」
頭を下げられて、桔平は本当に蓮二が悪い男ではないのかもしれない、と思った。そうして見返しているうちに蓮二は続けた。
「俺の力で心臓と思考を少しだけ凍らせて、鏡の欠片の抗力を抑えている。だが、早くしなければ本当に杏の心が壊れてしまうんだ!」
「そうは言うが…」
「蓮二くんが忘れた言葉は、いつも蓮二くんの近くにあって、だけれど思い出せない言葉なんですって。どうかしら?」
そう言われて、桔平は思案するように考える。雪の王の傍にいつもある。話に聞いた雪の王は年を取らない美貌の持ち主だ。そこまで考えて、桔平は言った。
「eternal……永遠ではないのか?」
「永遠……?」
まるでその言葉を初めて聞いたように蓮二が言ったが、杏はさっそく氷のピースでeternalという文字を作った。
すると、どうだろう。杏の凍っていた心臓が、そして入り込んだ鏡の欠片が、見る見るうちに融けていく。
「兄さん、私…!」
全てを思い出した杏は、桔平に抱き付いた。その体はとても温かく、元の杏に戻ったのだ、と桔平は安堵して杏を抱きしめ返す。
「永遠、か。確かに身近すぎたな。それに、俺は永遠の時をずっと独りで過ごしていたから、思い出す必要もなかったという訳か」
桔平に抱きついていた杏は、その一言にハッと顔を上げる。
「ずっと、独りだったの?」
「……ああ。だから、街で杏を初めて見た時は、こんな少女が居てくれたらいいだろうと思った」
諦めたように蓮二は言って、宮殿の入り口の方を指差した。
「行け。もう何も心配することはない。兄妹仲良く暮らすんだぞ」
そう言った蓮二に、桔平の手を振りほどいて杏は駆け寄った。
「独りはダメだよ!嫌だよ!蓮二くんはこんなに優しいのに!」
「杏…」
冷たい彼の体に抱きつく杏に困惑したように蓮二は絞り出すように言う。
「私、ここにいるから。大丈夫。蓮二くんを独りにしない!」
いいでしょう、兄さん。と振り返った妹の顔が、ずいぶん大人びていて、桔平は小さく息を吐いた。
「お前はそれでいいのか」
「その…もう一度杏に口付けたら、杏も永遠の命を持ってしまう。それではどうしようもなくなってしまうだろう?」
「でも!私は蓮二くんといたい!」
その言葉が純粋に嬉しくて、蓮二は思わず杏の頬に口付ける。杏の身体が綺麗な銀色に包まれて、それで桔平は杏が永遠の命を得たのだと察した。
「まあ、杏がそこまで言うなら仕方がないな」
妹のことは大事に大事にしてきたが、その妹がそこまで言うのなら、と桔平は踵を返して入口に向かう。その背中を、杏が捕らえた。
「なんだ」
返答する前に、杏は兄の頬に口付ける。そうしたら、彼の身体も銀色の光に包まれた。
「兄さんも、ここで暮らしていいわよね、蓮二くん」
「御目付役、か」
桔平の頭痛の種が、増えた瞬間だった。
アンデルセン童話『雪の女王』