オオカミと赤ずきん

「いい、杏。これがぶどう酒で、これがパン。干し肉も少し入れたわ」

 母に言われたことに杏はうなずいた。杏と家族は森のふもとの村に住んでいて、その森を抜けた先の山小屋に杏とその兄の祖母が住んでいる。病気がちで寝込んでいる、とかいうことではない。祖母は、この村の人間らしい豪胆な性格で、年の半分は昔祖父と管理していた小屋の管理を住み込みで今でもしているのだった。森で狩りをする狩人には重宝される小屋で、実際に狩人をしている杏の兄である桔平もよく世話になっている。
 だが、年の半分はこの家で一緒に暮らすとはいえ、歳が歳だからと言って、心配性の母はよく杏に、祖母の好きな黒パンや栄養があるからと干し肉、ぶどう酒といったものを持たせて使いに出していた。

「分かった」

 いつも通り蔦で編んだかごに詰められたそれを杏自身も確かめて、玄関を出ようとした時に、一番重要なことを思い出して、慌てたように母が言った。

「ちょっと待ちなさい!桔平が仲間の狩人さんたちから聞いたそうなのだけれど、最近森のオオカミが人を襲うことが多くなっているそうよ」
「兄さんから聞いたわ。もう何人か襲われてるのよね?」
「そう。だから十分気を付けて。オオカミはさかしいから初めに声をかけて取り入るっていう話だわ。そのあとに、油断した人間を襲うんですって。オオカミに話しかけられても無視して逃げるのよ」
「うん、分かってる」

 しっかりうなずいて、杏は森の向こうに行くべく玄関を出た。





 しかし困った、とオオカミの柳はいっそ憎らしいほど晴れ渡った青空を見上げてため息をついた。
 ……このオオカミ、腹が減っている。昨日今日と、野兎一匹捕まえられていないからだった。別に、柳のオオカミとしての狩りの能力が低いとか、そういうことではない。捕れない時は捕れないのが狩りだ。

「弱ったな」

 呟いたところで、彼の縄張りである森の一角に人の気配がした。気配の後に、柳の嗅覚は人の匂いより先に、干し肉とぶどう酒の匂いを察知してしまって、彼は思わず苦笑する。
 このところ、柳の狩りが上手くいかないのは理由のないことではなかった。今年は野兎や野生の山羊が森や山に少ない年だったのだ。だから、元々の数が少なければ捕れない時はどうしても捕れない。そのこともあって、同じオオカミの仲間は人間や人間の飼っている家畜を襲うことが多くなってきた。だが、柳はそれをしたくはなかった。柳は、オオカミの中でも思慮深く、温厚な性格だった。そうして、同じ山野を共有する人間と共存できると考えている稀有なオオカミだった。同じ考えを持つ者もいる。しかしそれはひと山越えた先にいるオオカミと、さらに一山越えた先にいるオオカミの2匹だけで、この森の仲間たちからは、柳は異端視されていた。ある者は腹が減っても人や家畜を襲うことをしない彼を諌め、諭したし、ある者は彼を愚か者だと爪弾きにした。
 そのくらいには、今この森では人間や家畜を襲うことが当たり前のことになりつつある。それが柳にはどうにもやり切れなかった。
 さて、そんな折である。広い森の中で偶然にも彼の縄張りを横切ることにした人間は、幸せ者と言えるだろう。だが、柳自身腹が減っているのも間違いない。もちろん、その人間を食べようなどとは思っていないが、できれば干し肉一かけでも、ぶどう酒一杯でもいいから頂戴したいというのが正直なところだった。だが、話しかければ今のオオカミたちの状況から言って疑われる。火薬の臭いはしないが、仮にその人間が狩人だったら、撃たれて一巻の終わりということも十分あり得た。

「だが、腹は減っているしなあ…」

 腹が減りすぎて思考が上手く回らないのもあるのだろう。ぼんやり呟いて、彼は茂みからガサッとその人間の前に姿を現した。





「きゃっ!」

 突然現れたオオカミに悲鳴を上げて後ずさったのは、杏だった。突然現れたオオカミは、もちろん柳である。

「あ、いや、脅かすつもりはなかったんだが。すまない」

 そこにいたのが狩人ではなく籠を持った少女だったことに、柳はとりあえず安堵して、怯えている彼女に片手を上げて謝罪した。だが、杏の警戒が解けるはずもなかった。「オオカミは初めに声をかけて取り入ってから隙を見て食べる」という母と兄の警告がしっかり刻まれていたから、唐突に、友好的に声をかけてきた柳は十分警戒に値しただろう。

「その手には乗らないんだから!」

 気の強そうな、というか実際気の強い杏は、じりじりと近づいてくる柳から距離を取りながら、威嚇するように言った。
 仲間のオオカミたちが使う手は、柳も知っていたから、声をかけておいてなんだが、少女が信用してくれそうな上手い弁解がどうにも出てこない。干し肉かぶどう酒をもらうのは諦めるか、と柳は残念に思って尻尾をだらんと垂らし、肩を落とした。
 その素振りに、杏はあっけに取られる。だって、その垂らされた尻尾はあまりにもぼさぼさだったのだ。森近くに住んでいて、羊や鶏も飼っているし、兄が狩人の杏には、そのぼさぼさの尻尾や、耳の毛並みが、明らかな栄養失調からきているものだと分かったからだった。その時、柳の腹の虫がぎゅうと鳴った。

「お腹、空いてるの?」

 恐る恐る、という体で杏は尻尾と肩を落としうな垂れる柳に声をかけた。

「ああ。このところ狩りが上手くいかなくて」
「えっ?狩り?…あの…人間とか、私たちの飼ってる羊とか、あなたは食べないの?」
「俺は食べないことにしている」

 その言葉に、杏は目を丸くした。オオカミが人や家畜を襲うのは最近では常識になっているのに、という驚きからだった。そうして、このオオカミが嘘をついているようには見えなかった。

「それで、お前の持っている干し肉とぶどう酒の匂いがしてな。一かけか一杯でいいからもらえないかと思ったんだが…仕方ないな。この森のオオカミを信用しろということのほうが無理がある」

 そう言って茂みへと踵を返そうとした柳に、杏は大きな声をかけた。

「待って!」
「…?」
「あなたの名前を教えて。教えてくれたら信じるわ。干し肉もぶどう酒もあげる」

 そんなことで、と思ったのは柳だけではない。口をついて出てきたそんな単純なことに、杏自身も驚いている。

「そんなことでいいのか?」

 さすがに驚いて訊ねたオオカミの、先ほどまで細められていたのに驚いたからか大きく見開かれた目が、透き通るように奇麗で、杏はそんな単純なことで十分だ、といつの間にか思っていた。それは多分、彼が嘘をついていないと気が付いた時から思っていたことだったけれど。

「いいわ」
「…柳という」
「教えてくれてありがとう、柳さん。私は杏。森の外の村に住んでいるの。縄張りを荒らしてごめんなさい」

 そう言って、杏はひょいっと干し肉とぶどう酒を全部取り出して柳に差し出した。

「おい、これは誰かに持っていくものだろう?俺がこんなにもらうわけにはいかない!一かけと一杯で十分だ」
「柳さん、あなたそれじゃあ全然栄養が足りないわ。それに、この中でおばあさんが好きなのは黒パンだけなの。持って行っても、干し肉じゃあ肉を食べた気がしないし、歳を取ってからは酒なんて飲めないっていつも言うわ」

 だからどうぞ、と続けて差し出された望外のそれらを、柳は驚きつつも有難く受け取った。受け取った先から食べ始めたのは腹が減っていたからか、獣だからか分からないが。
 それを見て、杏はくすっと笑う。

「ほんとにお腹空いてたのね、柳さん」

 黒パンに興味がないあたり、やっぱり彼はオオカミなんだと思いながらも、干し肉とぶどう酒で満足する彼は、やっぱり悪いオオカミになんて見えやしなかった。





「馳走になった」

 干し肉とぶどう酒を平らげた柳は、丁寧に言った。

「どういたしまして」

 久々に満腹になったのだろう。先ほどまでの覇気のないたたずまいは今の彼にはない。そうしてみると、この森では珍しい漆黒の毛並みの彼は、なかなかの美丈夫だった。

「礼、と言っては何だが、杏は届け物にこの森を抜けていくつもりなのだろう?ここは俺の縄張りだからいいが、他のオオカミはお前を食べようとするかもしれない。安全な道で送っていこう」
「いいの?」
「こんなにもらったのに何もしないのはさすがに無礼が過ぎるだろう」

 誠実な彼の主張に、やっぱり柳さんはいいオオカミなのね、と杏は思う。

「じゃあ、お言葉に甘えてお願いします!」

 柳は満腹ゆえの、杏は信用ゆえの、互いにいろいろな思考が抜け落ちたそのことが、これからドタバタ劇が起こすことを予見するなど、当然今の二人にはできなかった。





「どうしてこうなった」

 ぼそっと柳はつぶやいた。それはもうこの状況には全然ふさわしくないつぶやきだったけれど。
現在柳は、両手を上げた状態で、だがしかし猟銃を突き付けられている。杏が必死にその銃を突き付けている男の腕にしがみついてそれを止めている状態だ。

「兄さん、やめてってば!!」
「だが、こいつはオオカミだぞ!」

 柳に猟銃を突き付けているのは、杏の兄、桔平だった。

「いや、なんというか軽率なふるまいすまなかったお兄さん」
「お前にお兄さんと呼ばれる筋合いはない!」

 軽く呼びかけたつもりだったが、それは火に油を注いでしまった。頭に血が上っている桔平にしてみれば当然なのかもしれないが。

「柳さん…このオオカミさんは、人を食べたりしないわ!現に私を、他の危ないオオカミの縄張りを通らないようにここまでおばあさんの家まで送ってくれたんだから!」
「それが怪しいんだろう!ばあちゃんもお前もまとめて食べるつもりだったんじゃないのか!?」

 いや、そのつもりならとっくに食べてます、という呟きを柳は必死に呑み込んだ。やっぱりそれも火に油を注ぎそうだったからだった。
 桔平の怒りが頂点に達しそうになったその時だった。

「柳くん、杏を送ってきてくれてありがとうね。ミートパイが焼けたから上がりなさい。干し肉とぶどう酒だけじゃ味気ないでしょう。杏も、それから桔平もお上がり」

 桔平と杏の祖母の山小屋の玄関前で口論していたところに、がちゃりと扉を開けて現れたのは、二人の祖母だった。

「ばあちゃん…どういう…?」
「桔平は狩人のわりに知らなかったのね。いえ、無理もない。この柳くんは普段は森の奥の山にいるからね。山はあたしとじいさんの縄張りみたいなものさ。山には、思慮深く、人と一緒に生きようとするオオカミがいる。これはあたしらの間じゃ常識だった」
「え、おばあさん、柳さんを知っていたの?」

 杏の目をまん丸くした問い掛けには、桔平も、そして当の柳自身も驚いていた。

「それが彼だとは知らなかったけれどね。柳くんからは人の血の匂いなんてしない。それに杏を送ってきてくれた時に人は食べないというのと普段は森の奥の山に住んでいるというのを聞いたからね。さあ、三人とも上がりなさい。冷めてしまうわ」

 そう言われて、桔平もちらりと柳を見やって、それから納得したようだった。

「すまなかったな、疑って」
「いや、疑われるようなことだと分かっていてやった俺も悪い」

 二人の和解に、杏はほっと息をついて、祖母の家に上がった。





 それから柳は、杏が祖母の家にお使いに来るときは、森を案内し、そして彼女の祖母の山小屋で三人で食事をしたり、談笑したりした。そこには桔平が加わる日もあった。

「柳さん、あのね!この間町に行ったの!」
「ああ、それでそんなに可愛い髪飾りを付けているのか」

 買ったのか、と聞く前に察した彼に、杏はちょっとだけ面はゆいような気分になった。

「よく似合っている」

 さらりと言われたその言葉に、杏の顔は真っ赤に染まる。

 そんな二人を、祖母はほほえましげに、桔平はどこか苦い、だけれどどこか嬉しそうな表情で、見守っていた。