初恋の夜


 ロゼに似た色をした液体に満たされたワイングラスを傾けて、杏はバタバタと足を動かす。

「いーやーだー!!!」
「そういう訳にもいかないんだ」

 わがままな妹を窘め始めて一時間というところか。桔平は大きく息をついて手元の薔薇に触れた。赤い薔薇はみるみる萎れて、最後にはバラバラと塵になった。

「何それ!自慢!?」
「違う」
「どうせ私は薔薇の精気も吸えない半人前だから結婚なんかしない!」





「絶対好色家よ。深司くんもそう思うでしょ」
「……微妙かな」
「えー…」

 ヴァンパイアが人の生き血を吸うというのは全くの嘘だ、ということを、純血のヴァンパイアである杏はもちろん知っている。血を飲むのはもっと違う種族で、杏を含めた血統は薔薇の花から精気を吸う。それは、かなり少ない種族だということも知っていた。知ってはいた。

「まあ政略結婚であることは認めるけど」
「ほらあ」
「先方の希望なんだし、悪い話じゃないんじゃない」

 純血減ってるし、と事も無げに続けて、深司は薔薇の花びらを鍋に落とした。まだ生花から上手く吸えない杏のおやつを作成中だ。

「あれだよ、訳の分からないところにお嫁に行かれるよりは俺的にも安心なんだけど」
「前話したじゃない」
「うーん、杏ちゃんの夢に一票」

 薔薇から吸う純血なんてもうほとんどいないから、と続けた彼は鍋に向かっているから杏に背中を向けていた。
 だから杏は、彼の可笑しそうに笑う顔が薄紅色の鍋の水面に映ったことなんて、知らない。





 初恋なんていうほど昔のことではないけれど、杏には憧れているヴァンパイアがいる。このことはもう十回は桔平たちに話したから周知の事実だが、本当かどうかは定かではない。
 何せ、ヴァンパイア自体が減っている中、散歩の道で偶然出会った、というのがどうにも信じ難かったからだ。
 それは黒髪の男だった。
 月光の下で野薔薇に手を伸ばす姿が、夜目の利く杏にはよく見えた。生花からも吸えない杏には、剪定もされていないうえ花も小さい野薔薇なんて驚きの光景だった。
 だけれどその小さな花はみるみる枯れて、見ているうちに小さな木そのものが塵になってしまった。

「すまないな」

 小さくつぶやいた男に、杏はタタッと駆け寄った。

「あなたヴァンパイア?この辺の?」
「……そうだが、君は?」
「すごい!野薔薇からも吸えるのね!」
「いや、ここに生えていると使い魔が棘にかかるから」
「使い魔も持ってるの!」

 いいなあ、と本当にうらやましそうに言う少女に、男はぽかんとするしかない。
 ぽかんとしてそれから、紅のドレスに薄い色の髪に銀の髪飾りのヴァンパイアは、この辺りに一人しかいないという事実に思い至った。

「君は橘の妹か?」
「知ってるの?」
「ああ。そうか、ここは君の散歩道だったか」

 勝手に自己完結した彼のそれも、だけれど杏はあまり気にならなかった。兄は確かに有名人で、だったら妹の自分が知られているのも不思議ではないと思ったからだった。

「済まないな、通り道の薔薇を枯らしてしまった」
「?」

 きょとんとした彼女に、彼は小さな雫型の宝石を渡した。

「これはお詫びに君にあげよう」
「え、これ」
「橘の妹なら、またそのうち会えそうだな」
「あの、あなたは?」
「俺は―――」





「ひどい!なんで教えてくれなかったの!」

 いつの間にか進められていた縁談の相手を前にして、杏は憤慨したようにぽかすか兄を叩いた。深司が耐えかねたように先ほどから声に出して笑っている。
 目の前でそれを繰り広げられた推定婚約者の柳は相変わらず困ったようにぽかんとしていた。

「だってそうじゃない。少し考えたらさあ、分かるよね」
「分かんないよ!!」
「この辺にヴァンパイアなんてほとんど住んでないんだから」

 初恋の相手を調べるくらい簡単なんだよ、と笑った幼馴染を、杏は涙目でにらみつけた。
 幼馴染は、‘自分たち’が調べたとも、‘杏の’初恋の相手とも一言も言わなかったのだけれど。
 柳は相変わらず困ったように杏を見ている。
 困ったように、初恋の少女を見ている。