魔が差した、なんて言葉がこの状況にはよく似合う。


悪魔


 あの瞬間、あの場所に、悪魔が棲みついていたとしか風間には思えなかった。

「なんだってあんなこと」

 自分の深層心理を知っていながら、ほとんど現実逃避気味に彼は呟いた。





 久しぶりに本部で宇佐美に会った。他愛もない話をして、それで終わりのはずだった。誰もいない廊下。「じゃあ帰りますね」と言われた次の瞬間に、彼はドンと壁に腕をついて、彼女をその中に閉じ込めていた。

「きゃっ!」

 ちょっとした悲鳴が上がって、風間はハッとする。ああ、所謂壁ドンというやつを今自分はなんの思考もないままにやったようだなと冷静過ぎる思考が落ちて、それから怯えたようにこちらを見る宇佐美に、彼は曖昧に笑った。

「すまん、少し疲れているようだ」
「えっ!?あ、ああ!立ちくらみですか!?ちょっと医務室行かないと!貧血かも」
「いや、大丈夫だ。適当に仮眠する」

 ゆるゆると壁から手を外して、さも今倒れかけたようにふらりと彼女から体を離す。そうしたら、その嘘を信じたのか肩を貸そうとした宇佐美に、風間は小さくない絶望めいた思考が落ちるのを感じた。

「いや、大丈夫だ。もう戻れ」

 少しだけ笑って、彼は言った。





 その時のことを思い出して、風間はもう何度目か知れぬため息を漏らした。
 風間は、自隊の元オペレーターである宇佐美栞のことが好きだった。だから、一週間前のあの行動は自分の深層心理がそうさせたのだと少なくとも風間は分かっていた。分かっていたが、年下の宇佐美にそれ故の行動を取った自分が不甲斐ないし、そうしてそもそも全くそういった色恋沙汰の方面で意識されていないとはっきり突き付けられた彼女の反応に、彼は僅かな絶望を抱かずにはいられなかった。

「馬鹿か、俺は」

 その好きという恋愛感情に気がついたのは、彼女が自分の許を去ってからだった。いなくなってしまった隣にいたはずの宇佐美を思う度に、耳元で頭の中に住んでいる悪魔が囁いた。悪魔?違う。それは風間がずっと蓋をしてきた感情に過ぎなかった。

 宇佐美栞を、一人の女性として好きになってしまった自分に、ずっと蓋をしてきた。

 同じ隊だから、部下だから、年下だから、未成年だから……
 数えだしたらきりがない理由を付けて、少なくとも彼女が部下であったうちは上手く蓋を出来ていたそれが、このところどうしようもないほどに暴れまわる。
 だから、あの日自分の腕の中に宇佐美を閉じ込めようとしたそれはきっとその悪魔のような感情がさせたことなのだろうと彼は思っていた。

「卑怯者」

 短く言って彼は自嘲気味に笑った。今頃になって、自分の感情を優先しようとしながら、良い大人ぶりたい。宇佐美に失望されたくない。両方欲しいなんて、卑怯で、狭量で、我儘だ。

「あ、風間さん!」

 そのような独り言を繰り返していた一人きりの風間隊作戦室に、その時考えていた少女の声がして、彼はびくりと肩を揺らした。

「宇佐美…?」
「トリックオアトリートですよ!」

 笑いながら言った彼女はオペレーターが着用する黒のスーツには不似合いな、黒い大きな三角の帽子をかぶっていた。魔女の帽子に見えなくもないが、スーツを着てそれではなんだか滑稽だった。
 その姿を認めてそれから、やっぱりスーツには不似合いな手元のかごいっぱいに詰まったカラフルな菓子を見つけて、ああ、今日は10月31日だったな、と風間は思った。

「ふふふ、きくっちーとうってぃーにはもう歌歩ちゃんと特攻したの!」
「そうか…三上は?」
「んー?なんか風間さんのところにはアタシ一人で行ってきてって言われちゃって。はッ…!風間さんまさか歌歩ちゃんいじめてないでしょうね!?」

 途端に目を見開いて詰め寄ってきた宇佐美に、風間は現在の自隊のオペレーターである三上に自分の恋心をあっさり見抜かれていたことを思い出した。流石に、同年代のボーダー女性隊員に頼りにされているだけあるな、と相手は高校生ながら感嘆したのを覚えている。

「気を遣われたのか、謀られたのか」

 小さく言えば、その言葉に宇佐美は詰め寄ったその至近距離で首を傾げた。

「はい?」
「ああ、それより済まないが菓子はない」
「えー!!おせんべいでもいいんですよ!」

 言い募った宇佐美に、風間の中の悪魔が首をもたげた。

「ないな。菓子がなければイタズラするんだろう?」
「へ……?」

 突然に、意識されないなら意識させればいいと悪魔が囁いた。
 先ほどまでの逃げ腰な思考は、きっとハロウィンの魔法でどこかに行ってしまったのだろう。

「どんなイタズラをしてくれるんだ」


 少女の眼前で、悪魔が微笑んだ。




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風栞で悪魔