シンデレラストーリーなんて。


シンデレラ


 千歳ミユキはファッションビルの喫茶店から街を見下ろしていた。上から見ても分かる、オレンジと黒。街はハロウィンに呑み込まれていた。
 よく言えば穏やか、悪く言えば凡庸。
 少なくとも、大学生として上京してからのミユキの生活はそのようなものだった。

「凡庸で何が悪い」

 コーヒーを一口飲んで、それからミユキはぽつんと呟いた。
 周りの学生と違うことがあるとすれば、2年生になっても彼女が合コンの類に一切参加しないことだろうか。お酒が飲めない歳だって、みんな飲み会に参加するけれど、ミユキはそれをしなかった。別に行かなくたって周りから浮くこともないし、そうならば特段の理由もないのに行く気は起きなかった。

「ばっかみたい」

 綺麗な、とまでは行かないけれど流暢な標準語で、彼女は彼女自身を非難した。
 ミユキが合コンに行かない理由は一つしかなかった。
 おとぎ話のお姫様のように、たった一人の男を待っている。
 その一人きりの王子様は、今年一つのタイトルを手に入れた。夏、この国はそのことで大いに盛り上がっていた。手塚国光が4大大会のタイトルを取ったのだ。そのニュースが流れてから、ミユキは初めて彼が考えているよりもずっと遠くに行ってしまったことを知った。

「兄ちゃんが成功するなら、それでよかとよ」

 連絡が来なくなったのはいつだったろうと彼女はぼんやりと思った。そう、去年の今頃だった。その待っている手塚から連絡が来なくなった、というよりも「当分連絡できない」という旨の連絡を受けたのはちょうど一年前だ。ミユキは大学生活を始めて半年ほどが過ぎた頃、そうして手塚は、昨年最も確実視されたタイトルを逃した頃だった。

「ひどかねえ、ウチ。兄ちゃんが成功したらそれでって思っとったくせに」

 連絡が途絶えて、それから。

 どうして彼が急に連絡を取らなくなったか、なんて、忙しいから以外に理由はないだろう。そんなこと分かっていたのに、こうして待っている自分も、そうして世界に名を馳せるタイトルホルダーになった彼も、どんどん遠ざかっていく。
 そうして彼女は凡庸な自分と彼がどうしたって釣り合わないと思ってしまう。
 そう思いながら、もう一口コーヒーを飲んだところで、下の階から女性の悲鳴らしきものが聞こえてミユキは眉を上げた。

「なんね」

 その声を聞いてから、彼女はこのファッションビルが自分のような大学生がそうそう来ることのない場所だったと何故か思い出した。ビルの中央が吹き抜けになったその構造だから階下の悲鳴が聞こえたのであって、相当に洒落た作りだな、と意味のないことをミユキは考えた。

「あれ?」

 考えてそれから、彼女は怪訝な顔で眉を寄せた。
 ……待ち合わせだったのだ。兄である千歳千里から呼び出されて、ミユキは今ここにいるのだけれど、その可笑しさに彼女はやっと気がついた。兄が、こんな洒落たビルを待ち合わせ場所に好んで使うなんてありえない。
 そのような余分な思考がぐるぐる回転していたために、ミユキはいつの間にか先ほどの悲鳴の中心に自分がいることに気がついていなかった。

「ミユキ」

 名前を呼ばれて、彼女は反射的に顔を上げる。そうしたら名前を呼んだ者よりも先に、こちらを見ているかなり多くの人の方が目に入った。それだけたくさんの人間が、ここに集まっているのは奇妙な感じがした。
 それから一拍遅れて、彼女はその自分の名を呼んだ相手を見た。

「……は?」
「久しぶりだな」

 平然と、それどころか不思議そうに首を傾げて、その声の主は言った。
 きっと、ここにいる全ての人間がテレビの中だけで知っている、手塚国光だった。





「ありえない!!!」

 叫んだら手塚は大変申し訳なさそうに視線をそらせた。

「日本で自分がこんなに注目されると思わなくてな。報道関係者もいなかったし」
「当たり前っちゃ!兄ちゃんタイトルホルダーなんよ!?4大大会の!ずっとニュースでやってたんやから!!」

 今や手塚の顔を日本で知らぬ人はいないだろう。その中で、突然に帰国した彼がふらりと喫茶店になんかやってきてみろ、先程のような悲鳴が上がり続けて当然だ。その元凶たる彼自身の用事は、紛れもなくミユキにあったようだけれど、彼女としてはあんな視線にさらされたのは初めてだったからたまったものではない。

「なんというか、すまない」
「いいけど」

 小さく返したミユキと、それから手塚は、そのビルの応接室の一つにいた。どうやらこのビルを経営する会社が手塚のスポンサーらしく、それもあってここを指定した、ということらしかった。

「千歳にしっかり伝えたつもりだったんだがな」
「あー、うん。伝えられてたらウチ空港まで行ったとよ?」

 こんな大騒ぎにならずに済ませる方法がいくらでもあったのを、ミユキは分かっていたから息をついた。

「千歳に嵌められたな」

 笑って言った手塚に、ミユキは疲れたように苦笑してみせた。そうしてから、そう自然に手塚に接している自分に驚いた。
 距離を、置かれていた。
 少なくとも、今日ここに来るまで、彼女は手塚から距離を置かれていたはずだった。

「用件が用件だから仕方ないか」

 気がついたそれに動きを止めたミユキに、だけれど手塚は全く別のことを思ったのか小さくそう呟いた。

「え?」
「いや……それより、この一年どうだった。俺の勝手とはいえ、全く連絡を取らなかったから」

 話を振られて、ミユキは少し難しげな顔をした。その話題は、多分一番したくない話だったからだ。

「普通、平凡」

 ぽつりと返された、拗ねたようなその言葉に、手塚は少しだけ目を細めた。申し訳ないような、それでいて安心したような心持になった自分は多分に性格が悪い、と思いながら。

「そうか」

 例えばここで、楽しかったこととか、具体的に言えば彼氏が出来たとか、そういう話をされたら、今ここで自分はどうするんだろうと思いながら、飛行機に乗っていた一時間前の自分を思いながら、彼は一言そう返す。そう返してそれから、ミユキを見据えた。

「では、今は暇か」
「暇っていうか……」

 暇というのとは違う気がして言葉を濁したミユキに手塚は笑い掛ける。

「暇なら、ドイツまで来ないか」
「は…?」





 これでは駄目だと思った。
 タイトルを逃したことではない。そんなの、ままあることだと少なくとも手塚国光は思っていた。だが、それよりも気になったのは所謂衆目だった。
 どこに行っても報道関係の目が気になるようになったのが、ちょうど一年前だった。
 浮ついた質問をされることも増えだしたのだが、手塚にとってそういった感情を抱く相手は今も昔もミユキ一人だったからどうしようもない。
 だが、今ではないだろうと思った。
 少なくともテニスでは盤石の形を取ってからだろうと思った。
 そうでなければ、何よりもミユキその人に顔向けできないと思うほどには、この男は真面目な男だった。

「来年、タイトルを取ったら」

 異国の、一人の部屋で彼が呟いたのが、今からちょうど一年前だった。





 目を丸くしているミユキにそのようなことを話したら、彼女は怒ったように言った。

「兄ちゃんの勝手な決意やん!」
「だから俺の勝手だったと先ほど……」
「本気で嫌われたと思ってたウチの気持ちは!?」
「済まない」

 そんな一言で済むはずないのに、そうだというのにミユキの中にはすとんと収まるものがある。だって、このたった一人の男を待っていたのだから。

「ドイツ、行ってもええの」
「当たり前だ。お前以外考えられない」

 パートナーに、と言外に言われて頬を染めたミユキの髪を、まるで昔の小さかった時のように彼は撫でた。

「今日のようなことが多分初めのうちは日常になりそうなんだが」

 ミユキが日本で大学を卒業するまで結婚ということまでは流石の手塚も考えていないし、いかに付き合いが長かったとはいえ恋人、ということを決めた期間もなかったから、そういった時間も欲しかったが、ただ結婚するよりも恋人という形の方がいろいろと話の種にはなりそうだ。
 そう思って言った言葉に、ミユキは笑う。

「その方がかえって楽しいかもしれんね」


 シンデレラの日常は、ある日を境に変貌するのだから。




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塚ミユでシンデレラ