その日月に住むのは、あやかしか、それとも幽鬼か。


幽霊


 ジッと阿近は灰皿にちびたタバコを押し付けた。
 白い煙を上げるそれを見遣って、それからタバコを吸ってもなんともない自分というものを思った。


「大人ねえ」

 自身に向けた侮蔑のようなその言葉は、感慨には程遠い。
 大人になった自分、というものを、タバコを吸うと彼は思い出す。
 子供の頃は、煙たくて嫌いだった。同じ煙たいものなら失敗した実験の方が良かった。
 そうして彼はその「子供の頃」を思う。いつも見よう見まねで実験の真似事をしては真っ白い煙を上げる試験管やフラスコ、ひどい時は貴重な機材を量産して悪態をつく少女のような死神が、彼は好きで嫌いだった。嫌いで好きだった。
 その死神は、阿近の所属していた隊の副隊長の猿柿ひよ里という死神だった。
 まだほんの少女のような背丈、思考回路にも関わらず、死神としての剣術や体術、鬼道は一級品で、だからこそ副隊長という重責を負っているのだと幼い阿近でも知っていた。
 知っていたのだけれど、技局に来る時の彼女は本当に幼い子供のようで、それに呆れるような、それでいて好ましいような、親しみのような感情を阿近は抱いていて、だからか、いつも突っ掛ってみたり、嫌味を言ってみたりしていた。


『うっさいわ!』

 すると決まって彼女は言ったのだけれど、元来不器用な彼女は実験もどきに失敗するたびどこかしら小さな怪我を拵えたものだった。

『ほら、手、切れてんぜ』
『自分でやる!阿近なんぞに頼むか!』

 そう言って逃げようとする副隊長殿の小さな傷にしみる消毒液を振りかけて、包帯を巻きつけるのはいつも阿近の役目だった。
 そんな、幼いやり取りの中で感じるのは、少しだけの優越感と安堵感。
 死神として敵わない彼女に先んじられる研究というものへの優越感。
 そうして、幼く、ひよ里には到底敵わない自分を、こんな時ばかりは頼ってくれるのだという安堵感。


「安心ねえ」

 まだ細く白い煙を上げるタバコを見ながら、過去に思いを馳せていた阿近は独り言ちた。
 頼ってくれるのだと、自分と同じように怪我をするのだと、遠くに行ったりしないのだと、手を触れればそこにいるのだと、自分にも彼女を守れるのだと、彼女の怪我を手当てするたび思った。
 安堵した。安心した。
 だけれど、その安息は彼女が尸魂界から喪われたその日に呆気なく消え去った。

「馬鹿みてぇ」

 呟いたそれは自嘲だった。
 彼女が頼ってくれるなんて、守れるなんて、そこにいてくれるなんて、そんなの全部、消え去った。
 そんな陶酔ではなく、もしも自分が純粋に力を持っていて、強くて、彼女を守ることが出来たなら、あの過去を塗り替えることが出来たのではないかと、彼は今でも思う。
 そんな、幻想を、今でも思う。
 だから、彼はその先に進みたくなかった。
 その先にいるのは、まるで夢幻のような、まるで幽霊のような、彼の中で喪われた存在だったからだった。

「いつまで逃げれば、俺は気が済むんだってんだよ」

 数日前に終結した破面との戦いに、喪ってしまったと思っていた猿柿ひよ里が参戦していたことを、阿近は知った。知ったが、知りたくなかった。治療をしているのが卯ノ花で、だから今彼女が瀞霊廷にいるのも知っていた。だけれど、会いに行く勇気がなかった。
 勇気?そうだろうか、と彼は自問する。
 会いたいに決まっている。今すぐにでも会いたいに決まっている。
 だけれど、彼は思う。彼自身が自身の中の思考を何度も書き換えて、夢幻のような存在になってしまったひよ里という彼女の中で、同じように自分が幻のような、幽霊のような、存在しないはずの存在になっていることが、怖かった。
 恐怖だ。

「守れなかったのは、俺なのに」


 守れなかったのに、その彼女に会うことに恐怖するなんて。


 恐怖する自らをぼんやりと俯瞰していたら、不意に笑みが落ちた。
 それは最早自嘲ではない。
 その恐怖よりも、会いたい、と思った。





 横たわる彼女は、百余年前と背格好も、霊圧も、変わってはいなかった。虚と混ざったはずなのに、阿近にはその霊圧があの日と同じに感じられるのだ。それが不思議なようでもあり、当たり前のことのようでもあり、彼は壁にもたれ掛ってふと笑んだ。

「ひよ里」

 声を掛けたら、薄らとその瞼が持ち上がる。

「誰や」

 呟かれた声にもう一度「ひよ里」と呼びかける。
 気がついてくれと思った。
 気がつかないでくれと思った。
 二つの相反する感情で以て、彼は横たわる彼女に近づく。ぼんやりした視線の焦点が自身に合ったのを認めて、彼は、まるでずっと昔のように、悪童のように笑って見せた。

「阿近……?」

 驚いたような声がして、彼女の目が見開かれる。
 それに阿近は可笑しくなってくっと笑った。

「久しぶりだな、ひよ里」


 百有余年の日月が、満ちていく。
 手を伸ばすことすらできなかった日々が、満ちていく。
 彼はその日々を思って、彼女の手を握った。
 伸ばすことの出来なかった手は、触れることの出来なかった手は、今こんなにも近い。


「もう、俺に喪わせないでくれ」


 懇願は彼女に届いただろうか。




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阿ひよで幽霊