それはささやかな誘惑。

「疲れてるんじゃねえの?」

 副隊長に利くには少々乱暴な口調で、阿近はネムにつかつかと歩み寄る。書類を持ってきたところだったが、顔色が悪く見えたのだった。

「あの……」
「熱は」

 歩み寄った阿近は、さっと彼女の額に手を添える。

「少しあんじゃねえの?」
「大丈夫ですから、書類、拝見します」
「却下だ」

 書類の可否の判定を却下する権限が三席にあるのか、と言われると否と答えるのが普通だが、この二人に限ったことであればそうでもなかった。
 却下、と言って軽く手を引けば、ふらりとネムは阿近の方に倒れ込む。それで彼は眉をひそめた。思ったよりも疲れている、というか、体調が悪いようだ。

「歩けるか」
「あの、大丈夫ですから」

 そう言ったネムだったが、大丈夫には見えないうえ彼女のことになると心配性の阿近だ。軽く肩を支えられて、副官が使う仮眠室の方にあれよあれよと言う間に運ばれてしまった。
 小さい子供を寝かしつけるように、阿近は寝台に横にならせたネムの耳元に唇を寄せる。唇で軽く触れてから、囁くような声音で言った。

「寝ちまえ」

 そのやさしい囁きが、呪文のように、ネムの意識は遠のいた。


耳のキスは誘惑