ディア・アフタヌーン
「週刊誌なんか読んでるの?」
こぽこぽとコーヒーをカップに注ぎながら、氷室は同居人が真剣になって眺めている雑誌を見て言った。
「日本語の勉強なら文芸誌にしなよ」
好きでしょ、と付け足しながら小言を言って彼女―――アレックスの前にコーヒーカップを置いたら、いつもなら「これはこれで面白いぞ」と言い返されるところなのに、いつになく真剣な眼差しの彼女は、「ありがとう」とカップを見向きもせずに言ったきりで、顔を上げもしない。
さすがにおかしいというか、不思議な気分になって、だけれどそんなに熱中する内容があっただろうか、と思案しながら氷室はその雑誌を覗き込む。
それはどこにでもあるゴシップ記事だった。有体に言えば、美人女優と俳優のカップルが破局した。結婚目前にして、大物カップルがまたも破局、というようなことを大づかみな見出しが伝えている。
「サツキが送ってくれた」
至極神妙に彼女は言った。
「桃井さんが?やめなよ、彼女だって忙しいんだから週刊誌なんて……」
覗き込んでも彼女が目を留めるほどの内容は分からなくて、とりあえず神妙な口調で告げられた日本の送り主を慮ったら、「ああ」と想像以上に素直な声で言って、アレックスはパタンと雑誌を閉じた。
「すごいことが書いてあった」
ゴシップ誌というのは概してえげつないものだから、氷室はその一言に飲みかけのコーヒーのせいでむせかえった。
「アレックス!鵜呑みにしちゃダメだからね!?」
陽泉高校卒業後、アメリカの大学に進学した氷室は、順調にアメリカの大手企業に入社、その中にある企業の集めるバスケットボールのサークルに所属していて、NBAからも視察や声がかかることもあるが、断っているというのが現在だった。それは、高校の頃のキセキの世代、そして弟分である火神に歴然とした差を痛感したからだった。追いつけない。そう思った。その思いは今でも変わらない。バスケットボールというものを楽しめても、それを生業とするには彼らは遠すぎた。それでも、そのバスケットボールを辞められないでいる自分が、少し悲しくはあったけれど。
とは言え、火神とはウィンターカップの後和解し、また、その時アレックスに思いを告げて、アメリカでの同棲にこぎつけた。
そうしてそれを上回るものが今ここにあることは間違いがなかった。
とはいえ、目先のことは目先のことである。ゴシップ誌など鵜呑みにして、何を言いだすか分からない彼女にとりあえず膝詰めで説教でもしようかと(というか自分の混乱を落ちつけようと)、氷室はローテーブルにコーヒーの入ったカップを置いた。
それから、今度は横から覗き込むのでなく後ろからその雑誌を奪い取ろうと手を伸ばす。そうしたら、アレックスは割とあっさりとその雑誌を放って、それから、後ろに回った氷室に寄り掛った。
「わっと!どうしたの」
そんな突然の接触も、高校の時分離れたとはいえ今も昔も日常茶飯事であったから、ちょっとだけ驚いたが、氷室は彼女の体を抱き留める。
「ちょっとブルー」
そう言ってアレックスはやわらかで長いブロンドの髪を押しつけるように、甘えるように、寄り掛った氷室の胸元にぐりぐりと頭を押し付ける。
それに彼は、片手で頭を撫でて、それからあやすように彼女の腕を軽く叩いた。
今でもバスケットをやるから、鍛えられた彼女の腕には、しなやかな筋肉が付いてた。胸はあるが、女性特有のやわらかさ、というのとは少し違うかもしれない。撫でる髪から香るのも、氷室が買って使わせているシャンプーだから、確かに甘い香りだが、慣れたものだった。
美人であることは衆目の認めるところだが、女性らしい要素、というのを考えると、そういうのが全くないなどと氷室は全く思わないのだけれど、総合すれば男勝り、なのかもしれなかった。
そういえば、彼女が香水を付けることは今以てない。ずっと昔に勘違いしたあの日以来、ないかもしれないな、と思ったら、これからの未来に思いを馳せて氷室はあの日のことを思い出して笑ってしまう。
「ブルーって何さ。週刊誌に書いてあることにブルーになるようなことなんてないだろ」
例えば日本の俳優が好きだった?
女優に夢を壊された?
答えはノーだと思われた。彼女は確かに大学時代からの日本通であるが(それこそ桃井が週刊誌を送っても、火神が頼まれて慣れない文芸誌を送っても読めてしまうほどには日本語が堪能であるが)、週刊誌に載るような人間に思いを馳せるとは思えなかった。まさかバスケットボールの雑誌でもあるまいし。
「それがあるんだ」
彼女はやっぱり神妙な声で言って、額を氷室の胸板にすりつける。そのせいでくぐもってしまった声で、アレックスは言った。
「週刊誌に本当のことが書いてあったら、さすがに落ち込まね?」
「は?」
本当のことなんてどこにも書かれていないよ、と言い差したが、様子が様子なので氷室は驚きの一言の先そこから言葉を継げない。
ゴシップ記事に本当のことが書いてある、なんて、さすがにこの歳の人間が思うことじゃないだろ、と思ったけれど、どうやらそういうことでもないらしかったから。
「何が書いてあったの」
不思議に思って訊いたら、彼女はうーと唸る。答えたくない、とも取れたし、答えさせるな、とも取れた。なんだか理不尽な感じで、そういえば、こういうやり方を振りかざすのはいつも自分の方だったな、と氷室は遠く思いを馳せる。
彼は、どうしたって我が侭で不機嫌な子供だった。
一番愛する女性が振り返ってくれない、という一点だけで不機嫌になってしまう、どうしたって我が侭な子供だった。
だけれど今は。
だけれどこれからは。
身をもたれかからせる彼女に、甘えられるだけの甲斐性が身についたらしい己、というのを見て、氷室は何となく安堵した。これなら、多分大丈夫だと思ったから。
「ドレス」
「え?」
「ウェディングドレスだよ」
顔を彼の胸に埋めているから、相変わらずくぐもった声でアレックスはぶっきらぼうに言う。ウェディングドレスがどうしたというのだろう?確かこの間―――と思ったところで彼女は続ける。
「結婚前に着ると婚期が遅れるから、やっぱり破局って書いてあった」
「は?」
本日何度目か分からない短い疑問形の声を上げてから、氷室は先程の見出しと大きな写真を思い出す。大物カップルが破局と書かれた見出しの横の写真には、何かのイベントだったのだろうと思われるが女優の方の過去のウェディングドレス姿。さすがにどぎついな、と思ったものだが、それで氷室はだいたいこのこと察した。確か、そういうジンクスがある。結婚前にウェディングドレスを着ると婚期が遅れる、とか。
「アレックス着たからね」
「そうだよ」
不貞腐れたように言われたそれは、氷室が先程思い返していた時のことと一緒だった。日焼け止めの香りが、香水に思われて狼狽したあの時。あの日以来、彼女からシャンプー以外の香りがすることは、やっぱりなかった。
「でもまたなんでそれが本当のことになるわけ?」
それでも納得がいかないのはそこだ。ジンクスは分かる。週刊誌の内容も分かる。だが、それがどう彼女にとって『本当のこと』に繋がるのかだけが分からなった。
だから、特段意識もせずに訊いたら、彼女はやっぱりうーっと唸る。唸ってそれから、そういうのは性に合わないと思い至ったのか、一息に言った。
「婚期遅れただろ」
「え…?」
それでも不思議そうにする氷室の肩を、今まで寄り掛っていたアレックスががばっと掴む。
「だーかーらー!」
「アレックス?」
「お前との結婚!すげー遅くなっただろうが!!」
ずばっと言われて、彼は一瞬きょとんと目を見開く。それから、赤みの差した彼女の頬に、耐え切れずに笑いをこぼした。
「おい、笑うな!真剣な話なんだぞ!」
「ご、ごめん、だって…!」
結婚。そうだ。結婚だ。同棲を始めてからは数年、婚約して半年。ウェディングドレスも調い、式場も、何もかも調って、来週には挙式というこのタイミングですら彼女が騒ぎ立てるのは、だけれど無理のないことなのかもしれなかった。彼女は、氷室の想いを知っていた。ずっとだ。自分に向けられる想いを知っていた。だけれど、知っていたのに振り切ってきた今までを、アレックスはずっと責め続けてきた。
自分では、彼の想いを受け止めきれないと思っていたから、知っていながら知らない振りをした。
師匠と弟子。その関係を自分から崩すことが良いことだとは思えなくて、そうして、心のどこかで、その関係を崩すことが怖かった。壊してしまって、彼の想いを受け入れたら、自分の中でもっと大きなものが壊れてしまう気がしたから。
それをゆっくり融かしたのはほかでもない氷室だ。時には強引に、だけれど、気が付いたらいつもそこにいて、大人と子供、師匠と弟子、という関係を一歩ずつ越えさせたのは彼だった。
「逆だろ」
「なにが」
昔の、血気盛んと言っても差し支えない感情むき出しの彼だったら、そうやって導くのは自分の方だった、と彼女は思う。―――導く先は全く違っていた気もするけれど。それこそ、自分の方を向けないようにするような、そんな導き方だった気もするけれど。
幼いあの日、彼女のウェディングドレス姿を綺麗だと言ったのは嘘じゃない。絶対に嘘ではないと言い切れる。だけれど、あの日のことで遅れたのだと彼女が言うのが、どうにも可笑しくて、氷室は肩を掴む彼女の手をゆっくり取って、それから、頬に手を添えた。
「そうだね。アレックスがあの時上機嫌でドレスなんか着たから、少し遅くなったのかもね」
「タツ…」
呼び差した名前は、やわらかな口付けで遮られた。
「でも、今度のドレスの方がずっと綺麗だから安心していいよ」
離れた唇で彼が言ったので、アレックスは至近距離のその顔を不機嫌そうにふくらませる。キスだって、自分からするのが常だったのに、なんだか最近はそれすら奪われている気がして、流されている気がして、だけれど、それでいいと思えるようになった自分に少し呆れて、アレックスはふいっと彼の腕から逃れると、コーヒーの入ったカップを取った。それは彼のものだった。
「苦い」
「俺のには砂糖もミルクも入ってないからね」
「ぬるい」
自分の分も隣にあるのに、人のものを飲んでおきながらずいぶんな言い様だったけれど、彼は笑って立ち上がった。
「淹れなおすよ」
午後はまだ長いから、と彼は言った。
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小説のインパクトが抜けなくて
2013/08/11