Antilock Brake System


 県内某所の私立校の教室で、荒木雅子は苛々と足を踏み鳴らしていた。
 外はひどい雪だ。彼女が勤める高校とは別の学校だったが、気を遣わせたのか、それとも生徒がいたからなのか、教室は暖かかった。机と椅子が、ずいぶん小さく見える。高校なんてどこもこんなものか、なんて、どうでもいいことを考えながら、雅子は窓に寄りかかって、やっぱり苛々と足を踏み鳴らした。




 冬休み期間の部活終わりに、雅子は自前の四駆でこの私立校に向かった。職員室で電話対応におわれていたらしい同僚に頼まれたからだ。別に、仲が良いとか悪いとかそういう問題ではなく、それは自分の仕事だろうな、と雅子はぼんやりと、だが苛々と思って、すぐに更衣室からコートと手袋を引っ張り出してきた。

『すみません、荒木先生。この雪なんで、気を付けてくださいね。私が行ければ一番いいんですが…』
『今日、日直でしょう?それにうちの部員のことですから。雪は大丈夫。慣れっこです』

 そんなことを言いながら、職員室を出たのが二時間以上前か。本来なら、こんなことをするのはほめられたことではないが、‘非常事態’なのだから仕方ない、と雅子は自分に言い聞かせる。

「もうー、模試終わったんだから解放してよねー…ってあれ?まさ子ちん?」
「この馬鹿者!」

 ガラッと引き戸を開けてやってきた目的の人物を、雅子は開口一番に怒鳴りつけた。

 ―――目的の人物、紫原敦は、本日他校で模試を受けたところである。

「他校での模試の上、遅れるとは何事だ!」

 ―――三時間以上の遅れを伴って、別室で、模試を受けたところである。




「だーかーらー、仕方なかったの。バスがね、動かなくなったんだって」
「馬鹿者!この雪なのだからそれくらい予想しろ」
「だって」
「だってじゃない!それにお前、遅延証明をもらわなかったな?」
「え?」

 慣れないからか、構造のよく分からない私立校の廊下を言い合いながら歩く。職員室には先ほど挨拶したので、あとは昇降口に行くだけだ(雅子のブーツは職員玄関から持っていくことになった。別々の出口から出たら、二人とも迷いそうなのだ)。
 今日の模試は、先々週、陽泉高校一年生が行ったものと同系統の模試だった。一年に何度かあり、その都度の成績のほかに年間の成績推移によって、大学受験の指針を示すこともできる模試であって、重要な模試だったのだが、先々週、というのはウィンターカップの真っ最中であり、紫原は受験することができなかった。そんなところに、この私立校で模試があるとなり、受験料の支払いは年度頭に学費として納められているのだから、との理由で紫原の受験が可能になった。もっと別の理由や深い理由があったと思うが、大会から帰って早々の彼に気を遣ってくれたらしい陽泉の進路指導主事とこの学校の担当教員は多くを言わなかった。
 そうして、寒波が到来する中、本日の試験が行われたわけだが、紫原は雪のため遅くなってしまったバスによって、遅刻すること三時間、である。
 雪国でも、寒波が到来して、馬鹿みたいに雪が降れば、道を走る車の動きは鈍る。畢竟、法定速度を下回る速度しか出せなくなって、全体のスピードがガクンと落ちる。よくある話だが、今年度陽泉に入学したばかりの紫原には、そんなことが分かるはずもなかった。

「遅延証明?」
「当たり前だろう。覚えておけ。センター試験なんかじゃ遅延証明がなきゃ致命傷になることだってあるんだぞ」

 東北、それも日本海側なら、高校受験があるから中学生だって知っていることだ、と雅子は思うのだが、雪と無縁の土地に住んでいる人間には思いつかないことなのだろうか、と思ってから、東京だってどこだって、電車が遅れることくらいあるだろうと思って、雅子はゴッとその長躯の脇腹あたりに肘鉄を入れてやった。

「何すんの!」
「うるさい」
「ひどい。センター試験なんて言うからまさ子ちん先生みたいって思ってちょっと尊敬したのに」
「みたいじゃない!私は教師だ!」

 そんな言い合いも、外に出たら無意味だった。吹き荒ぶ雪、積もった雪。口をあけるのも億劫だ。
 雅子の向かう先が、校門ではなく駐車場だったので、紫原は首をかしげたのだが、いいから来いと言われ、一台の車のエンジンをかけて雅子は言う。

「少し待て。車から雪を落とす」
「え?」
「寮まで乗せてやる。どうせバスも電車も運休だ」

 本来ならこういうことはすべきではない。生徒を乗せて歩くのは事故が起こった時に責任問題になるからやめるように通達が来たのは、もう何年か前の話だ。だが、帰りの電車もバスも運休の非常事態ということで、人数も一人だけだし、彼女が迎えに来た、ということだった。雪を下ろしながらそのことを伝えたら、マフラーに顔をうずめた紫原はこくこくとうなずいた。相当寒いらしい。

「そっちはおろしたら、乗っていろ。暖房ももうすぐ利くし外よりましだろう」

 見かねて助手席側を示したら、紫原は嬉々として乗り込む。暖かそうな車内に、いい御身分だな、なんて嫌味を考えながら、雅子は雪下ろしに奔走した。




 やっと雪を下ろし終わって車に乗り込もうとしたら、助手席側から運転席に紫原の長い腕が伸ばされていた。

「なんだ?」

 車内は、先にエンジンをかけておいたこともあってだいぶ暖かい。早く入りたい、と思っていたら、その手がぐいっと彼女を引っ張った。

「おい!」

 転ぶように運転席に入らされたら、紫原はいつもの締りのない顔で言った。

「だって、この車、座席高すぎ。まさ子ちんじゃ乗るの大変かなと思って」
「……っ」

 その一言に、雅子は不覚にも言葉を失って、その手を払いのけるように運転席についた。


『ずいぶん車高が高い車だね』


 それは揶揄だった。女の子はもっと可愛い車に乗ったらいいのに、という揶揄。雪国だもの、とか、性能が、と言えば、彼はあからさまに顔をしかめた。そういうことじゃないよ、とでも言いたげに。彼だけではなくて、どんな男もそうなのだろうか、と紫原に言われた言葉に雅子は思った。

「でもさあ、この車ちょうかっこいい。クールな感じ。まさ子ちん似合うよ」

 だから、その暗澹とした思考に彼の無邪気な一言が入り込んで、雅子はなんだかほっとした。それから、何を考えているんだ、と思う。男といったって、彼は高校生で、教え子で、年端もいかない子供だ。そんな子供にすら振り回される己が少しだけ悔しかった。

「行くぞ」
「はあい」

 だから、その悔しさを隠すように雅子はその四輪駆動車を発進させた。


「雪道ってすごいね」
「そうか?」

 持参したらしい菓子をぱくつきながら紫原は言う。

「だって、雪の下のコンクリ見えないじゃん」
「見えない方がいい」
「え?まさ子ちん何言ってんの?馬鹿なの?」
「馬鹿はお前だ。圧雪の方が安心してスピードを出せるんだよ。下が見えるってことはシャーベットかブラックアイスバーンだ。ハンドルを取られやすいし、気がつかないで滑ることもあるから、圧雪の方が走りやすい」
「ふうん」

 ぼんやりした返事に、圧雪だのアイスバーンだの、きっと通じてはいないのだろうな、と雅子は思った。別に通じていないから何か言いたい訳ではないけれど。

「冬に食べるシャーベットもいいよね」
「黙れ」

 微妙なところだけ聞き取っていた紫原に、雅子は脱力した。

「今日の部活どうだった?」
「いつも通りだ」

 当たり障りのない会話に、いつも通り、と言いながら、彼がバスケを辞めなかったことに、雅子はぼんやりと思いを馳せる。才能に恵まれてしまった故の苦悩、というものが、ひどく重かった。辞めるなど言語道断、という態度を演じることは容易かったが、その、バスケットという競技そのものに対する苦悩自体が、選手だった彼女には曲がりなりにも理解できてしまったから、彼にどうこう言うことが怖かった。向いているからやっている、という理由は、どうしたって出てくるものだ。天賦の体格と天賦の才があればこその言葉が、だけれど彼女にはどうしようもなく重かった。それは、全日本のプレイヤーだったからこそだと思う。世界には、技術で上回ったって体格一つでつぶされる試合がいくつもあった。

「ちょっ、まさ子ちん前!」

 紫原の叫ぶような声に、雅子は思考を浮上させた。浮上させて、驚きとともにブレーキを踏みこむ。不穏な音が車内に響いて、それからその車は、前方に信号待ちで止まった車の後ろぎりぎりに止まった。

「ちょっと、前はちゃんと見てよね…あと、この車大丈夫?まさ子ちんすごい勢いでブレーキ踏んでたし、変な音したけど?」
ABSだ。問題ない」
「えーびーえす?」

 冷や冷やしながら雅子は言ったが、ABSがなかったら思いっきりスリップしていたか、衝突していたかもしれなかった、という雪道を走る上での恐怖感に、紫原の疑問に答えている余裕はなかった。とっさのことだったが、ABSが作動しているのを察知して、押し返されてもブレーキを踏む力を弱めなかった己の判断も功を奏した。そう思ったら、大きく息を吐いてしまう。

「まさ子ちん大丈夫?」

 さすがに心配そうに紫原が言ったところで信号が青に変わる。雅子はのろのろと車を発進させてそれから応じた。

「大丈夫だ。悪かった」
「別に謝ることないけどさ。俺がいたからいいけど、一人で乗ってるときにぼんやりしないでよ。事故にあってケガなんかしたら笑えないじゃん」

 いつもぼんやりしている男に言われたくない、なんて言おうと思って、だけれどそれは言わなかった。そうしたら、重ねるように彼は言う。

「まあ、俺と乗ってるときならぼんやりしたっていいけどさ」

 こんな機会はもうない方がいいのに、同乗者がいる助手席に、雅子はひどくあたたかな、妙な安心感を得た。

(彼が助手席に乗っていてもこんなふうに安心できなかった)

 ぼんやり思いを馳せた男の顔は、もうはっきりしない。だけれど、ABSが作動したら、彼はどんな反応をしただろう?そんなことを思った。

「またぼんやりしてるー。いいけどさ」

 見透かしたように紫原に言われて、雅子ははっとした。なんだか馬鹿みたいだった。紫原がこの車に乗り込んでから、妙に思い出す事どもに、彼女は苛々とハンドルを強く握った。

「ま、ぼんやりしてるまさ子ちん見られたのは役得かなあ」
「遅れたくせに役得なんて言うんじゃない」
「怒ってるまさ子ちんは毎日見てるから今日はもういいよー」

 不服そうに彼が言ったところで、寮が見えてくる。

「いいか、どうせ体が冷えているだろうからすぐ風呂に入れ。シャワーじゃなくてつかるんだ。それから柔軟して、今日の模試を自己採点。自己採点が終わったらすぐ寝ろ。もう遅い。担任へのプリントの提出は明日でいい」

 てきぱきと指示を出して車を止める。そうしたら紫原はへにゃりと締りのない顔で笑った。

「まさ子ちん、送ってくれてありがと。助かったよ」
「はいはい」

 適当にいなしたら、お菓子のパッケージを押しつけられた。

「お礼」
「馬鹿者。金品供与など言語道断だ」
「何言ってんの?」

 押しつけられたのはチョコレートだった。冬季限定とパッケージに書いてある。
 誰かを乗せて、礼を言われるのなんて、ひどくこそばゆかった。変なふうに思考が飛躍していて、その思考を追いやろうと小さく息をついたら、紫原はやっぱり笑った。

「あんまりため息つくと幸せ逃げるよ。じゃあ、戻るね。お休み」

 お休み、なんて言葉、ずいぶん久しぶりに聞いた気がする、なんて思いながら、寮へと入っていく彼の後姿を彼女はぼんやり眺めた。
 それから、手元に押しつけられた冬季限定のチョコレートを見る。コーヒーでも飲んで、これを食べて、寝よう。そう思ったところで、ABSに似た何かが作動した。

 コーヒーを飲んだら、眠れなくなるからやめなさい―――それは、そんな、陳腐な留め金だった。




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秋田おばこの雅子が好きです。
手痛い失恋をしている雅子が好きです。

2012/12/27 ブログ掲載

2012/5/23