幼稚園の頃、七夕の短冊に書いたのは「およめさんになりたい」だった。
 小学生になったら「もっとバスケが上手くなりたい」。
 中学生の頃から、私はもう七夕の短冊なんて書いたことはなかった。


星の願い事


 私は、付け終わった先月の家計簿を見て、頭を抱えたくなった。大きな出費が二回もあったのだ。事前に分かっていたことだから、予定外ではないし、幸せな出費なのだけれど、こうも重なると少々痛手だった。
 先月、6月に二人の友人が結婚した。一人は高校時代の地元の友人で、もう一人は大学時代の友人。二人に接点はないから、もちろん同じ月に二度結婚式があるのも不思議ではなかったのだが。ついでに、大学時代の友人の方は交通費も馬鹿にならなかったのもある。

「ジューンブライド、か」

 自然と出てきたため息は、どうにも虚しく響いた。
 出費出費と金銭面にばかり目をやるのは、だけれど現実逃避だ。本当に、どちらの結婚式も我がことの様に幸せで、涙があふれてきた。友人が幸せになっていく姿は、いつ見たって幸せなものだった。―――だからだ。だからかえって、その感動が一段落すると、そのような幸せに縁のない自分、というものが鮮明になってしまって、どうにも金銭面に目を向ける、という、友人たちに酷いことを考えてしまっている自分が余計嫌だった。
 先月は6月。空梅雨の今年は日本のジューンブライドもいいものだった。

「いいなあ」

 そう思ったら、本音が口から零れた。出費が痛手なんてウソ。本当は、憧れて憧れるそれを、必死に遠ざけようとしているだけだった。
 7月初め、学期末テスト。期末考査に体育はないから、成績を付けて、そうしたら夏期講習。講習期間は今年も出場を決めたインターハイが重なるから、今月はどうしようもないほど忙しい。忙しいことを言い訳にして、私は一人暮らしの虚しい家計簿をぱたんと閉じた。





「荒木先生、携帯鳴ってましたよ」
「ウソ!私マナーモードにしてませんでした!?」
「珍しいね、荒木先生が置きっ放しなんて」

 放課後、考査のために休止中の部活もなく、日直で校内を巡回した後戻ってきた体育教官室で笑って言ってきたのは、気心の知れた養護教諭の女性の教師だった。それで私は、鳴っている携帯を見つけたのが彼女だったことにほっとする。

「駄目ですよ。荒木先生も年頃の娘さんなんだから、携帯見られちゃ困るでしょう?」

 諭す様に言ってくれた先生に、私は一瞬言葉を失った。

「……見られて、困るものなんてないんです」

 それに彼女は、緩く微笑んで、プリントの束をポンと置く。

「これ、熱中症対策のプリントね。体育の時間に使ってって頼んでたやつ」

 授業もそうだし、夏休みは部活も無理するから、とそれとなく話題を逸らしてくれた大人の対応が、私を救って、そうして私の言葉を余計に幼く見せた。

「じゃあ、私は帰りますね。日直よろしく」
「ありがとうございます」

 小さく言った私の肩を軽く叩いて彼女は笑った。





「なんだ、これは」

 一人になった体育教官室で、私は届いていたメールに首をひねる。
 そうしながら、だけれど私は少しだけ怯えていた。
 そのメールが届いた、という事実を嘘にしようとしていた。
 だけれど、何が書いてあるのか意味が分からない、というのは嘘ではないのだ。


『from:紫原 敦
 件名:non title
 本文:何をお願いする?』


 一時代前のガラパゴス携帯を手に、私はやっぱり首をひねる。ソーシャルネットワークならこういう短文でも意味が通じる場合もありそうだが、生憎と縁がない。
 そうして、だけれど私が一番遠ざけたいのは、その差出人だった。
 差出人の名前はフルネーム。フルネームなのは彼が『部活OB』のフォルダに入っているから。私は公私混同が嫌いで、部員とメールアドレスを交換することをしない。しかしOBは別だ。体育系の部活、かつ運動部は得てしてOB会やOBそのものの影響力が強いものだから。だが、それも一方では建前で、OBになったら、今度こそ部活や競争意識抜きで彼らと話がしたい、というのもあった。
 だけれど、別に資金提供をする訳でもなく、部活に口出しする訳でもなく、更には私の代だから名字くらいすぐ出てくる彼からもらったアドレスのプロフィールを、すぐにフルネームに書き換えて、部活OBのフォルダに移動した私は、どうしたって惨めな女だった。





「メールアドレス交換して」

 いつもの間延びした調子で彼が言ったのは、そんな、卒業式の日にはありがちなセリフだった。
 私は、その一言に絶望と安堵がない交ぜになった、酷い感情でもって応じた。
 私が彼の目を見たら、彼は頭上でヘラっと笑った。いつも通りの笑みだった。

「俺、何だかんだでまさ子ちんのアドレス知らないんだよね」


 それはお前が生徒だったから。
 それはお前が部員だったから。


「酷い女だな、私は」

 呟きに、だけれど彼―――紫原は何も言わなかった。
 在学中に、彼は何度か私に「好きだ」と「愛している」と言ってくれた。
 怖かった。その感情は、多分に憧れを含んでいる、ただの幻想だと思った。
 怖かった。簡単で単純な言葉で全てを拒絶される日が来るのが。
 だから私は「生徒だから」「部員だから」という言葉で彼の言葉を退けてきた。

 ねえ、だけれど私は、今お前が「好きだよ」と言うのを期待していたんだ。
 ねえ、だけれど私は、お前のその真っ直ぐな愛情に救われていたんだよ。

(それなのに、お前は今日に限って言ってくれない)

 わがままでわがままでどうしようもない私は、だから思った。やっぱり、運命なんて嘘だった、と。こんなの嘘っぱちの運命で、やっぱり彼の思いはただの年上への憧れに色が付いただけの感情で、振り返ってみれば驚くほど軽い感情だったのだろう、と。
 全部自分でやったことなのに、それを運命だなんて思っていたのも私で、それがどうしようもなく馬鹿馬鹿しくて、悔しかった。

「構わん」

 私は短く言って携帯を出した。赤外線で彼のアドレスが送られてくる。

「空メ送っといて。登録するから」

 じゃ、とその通信が終ると、彼は本当にあっさりと手を上げて、部活の輪からクラスの方の輪へと移動していった。
 私は、ぼんやりと遠ざかっていくその後ろ姿を眺めて、それから彼のメールアドレスが入りこんだ携帯に目を落とした。彼のアドレスを、私は素早くフルネームに直して、部活OBのフォルダに入れた。そうして、それから空メールを送らなければ、と思った。

「私のせいなのに」

(でも、私がどこかで首を縦に振っていれば、何か変わったの?)

「私が悪いのに」

(でも、私たちは生徒と教師だったでしょう?)

 そんなもの、彼はきっと気にしなかったのに。

 写真でも取るのだろうか、飾り付けられた校門の方に歩いていく彼は、とても背が高くて、どの生徒‘だった’人間に紛れてもすぐに分かった。
 そうして私は、その背中に、全部終わりなんだと覚った。
 そうして私は、空じゃない登録用のメールを彼に送った。


『to:紫原 敦
 件名:non title
 本文: 好きだったよ』


 精一杯強がったメールには、返事がなかった。





 私は、4ヶ月程前の出来事をぼんやりと思い出しながら、そのメールをもう一度読んだ。
 客観的に見ても、主観的に見ても、なんと返事をするのが正解なのか分からない「何をお願いする?」という短い本文が、私には鋭利な刃で、同時に大事な宝物みたいにも思えた。

「はい」

 意識をそれにとらわれていた一瞬、教官室の引き戸をノックする音がして、私は応じる。応じると同時に自分の机に立てかけてあった竹刀の柄に手を掛けた。
 それはもうほとんど条件反射だった。夜。いくら夏の初めでも、もう暗いし、そもそも生徒はテスト期間で一人も残っていない。私は日直で、もう一人の日直は数学の教師で、職員室にいる。今日、点検簿を持っているのは私で、つまり届けるべきものを持っているのは私の方だから、彼がこちらに来ることはないと思われた。

(不審者の可能性もあるな…)

 そう思うのと、手を掛けた柄を握るのと、引き戸が開くのは同時だった。

「……は?」
「今日まさ子ちん日直とか、ナイスタイミング」

 引き戸を開けた彼は、扉よりも少々背が高くて、身を屈めるように部屋に入ってきた。
 ―――体育の教師専用の教官室にわざわざ来る‘生徒’は、背が高い者が多い。それでも、私が知る限り、こんなに窮屈そうに扉をくぐる‘生徒’は、未だに一人きりだった。

「紫原…?」

 呆然と呟いた私に、彼はやっぱりヘラっと笑った。

「久しぶりー。元気だった?」

 彼は笑顔のままで面談用の椅子を引いて適当に座ってこちらを見た。

「なんで……」
「今日と明日オフだったんだよね、なんかまだよく分かんないけど」

 土曜こっちで試合あってさ、と彼は楽しげに言った。言ってそれから、その瞳が私を捉える。そう言われて、私はやっと彼はもうこの学校の生徒なんかじゃなくて、特例的に高校から直接バスケットのプロ入りした、立派な社会人なのだ、と思い至った。

「まさ子ちんはさ、何をお願いする?」

 彼は、メールに書いてあるのと同じことを言って、不意に壁に掛けられたカレンダーを振り返った。つられて私もそちらを見て、私は初めて今日の日付を思い出す。
 7月7日。今日は七夕だった。

「もう、7月なんだな」
「そうだよー。しかも七夕!まさ子ちんは願い事とかないのかなって」

 突然の来訪者に、だけれど自然な形で私は会話をしていた。一日中暑い教室でテスト監督をして、直す暇もなかった化粧は多分崩れている。サマーニットは去年の秋に買った、夏物処分の安物だった。校内でハイヒールなんて履かない。しかも、今に限ってサンダルですらない。サマーニットとスラックスには不釣り合いな運動靴は、日直で動き回るために、放課後履き換えたところだった。
 なんてタイミングが悪いんだろう、と、どこかで思った。
 思ったけれど、どうせ終わったことだからどうだっていいという思いもあった。
 だからやっぱり、このタイミング悪さは当然なんだ、とも思った。

「星に願い事なんてしない」

 強がるように、だけれど自然と言葉は落ちた。そうしたら、彼は私に視線を戻した。
 どこからどう見ても、おしゃれな大人の女なんかじゃない、野暮ったい私に。

「じゃあさ」

 そうだというのに、彼はそんなこと少しも気にしていないように思えた。

「俺に願い事はない?」

 笑って、だけれど真剣な顔つきで言われたその言葉に、私は言葉を失った。
 何を言っているんだろう。何を言われているんだろう。

「あんなメールで終わらせられると思わないでよね」

 ぽつりと、責めるように、それでいてからかうように彼は言った。

「卒業式の時さ、まさ子ちん、『なんで好きって言わないんだ』って顔してた。俺、分かってたよ。でもさ、俺が、まさ子ちんが大人だから憧れてたんじゃなくて、まさ子ちんが、俺が‘生徒’だから躊躇ってたんだよ」
「わた…し…」

 思考が上手く言葉にならない。

「俺、最初からまさ子ちんのこと先生とか大人とかそういうので好きになってねえし。でも、卒業式じゃまだ俺は‘荒木先生’の生徒だったんだよね」

 そうだ。
 あの卒業式の日、遠ざかっていく彼の後姿を見て、彼はもう私の生徒じゃなくなると気が付いた。
 そうして初めて、私は「好きだった」という一言をメールに出来た。

「『好き‘だったよ’』、なんてメールに応えてあげるほど、俺は優しくないよ」

 そう言う癖に、彼の視線はひどく優しかった。そうして、言葉の一つ一つも、何一つ変わらず優しく私に向いていた。
 きらきらと星が光るように、彼は微笑んだ。

「願い事は、なに?」

 なあ、もし星に願っても叶わないことを、お前は叶えてくれるのか?

「まだ、好きでいてもいいか」

 絞り出すような声は、震えていた。
 頬を伝った滴が、ただでさえ崩れた化粧を余計に流していく。

「当たり前。当たり前はあんまり願い事には向かないかなあー」

 彼の武骨な指が、私の頬を伝う滴を掬う。

「来年まで一緒にいてくれるか」
「お安い御用。来年と言わず一生一緒でも俺は一向に構わないけどね」

 笑った彼に、私は精一杯の微笑みを返した。
 きらきらと彼が星を撒く。
 私たちはその散らばった宝石の上にいた。




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来年は、六月の花嫁を彼女だけの星にお願いするだろう。

一日遅れの七夕記念でした。

2014/07/08