虚言を愛す
ヒーターがピーピーとか細い音を上げた。私はこたつの天板に載せた顔をぐるりと廻らせてヒーターを見る。
「灯油…」
赤いランプの点滅は、灯油切れの合図だ。
「面倒…」
言葉少なに言うのは、この土地に生まれ育ったからか。
私は面倒、面倒と呟いて、それからこたつ布団にもぐった。
灯油切れのヒーターは、やっぱりピーピーと音を上げて、今度こそ温風を出す作業を放棄した。
放棄したけれど、停電が起こらない限り電気こたつの内部は安泰である。
そうしたら、干物女、という単語が脳裡を過ぎった。
―――こたつはこの部屋に不釣り合いな調度品だった。
モノトーンの部屋には、飾り気がないからと観葉植物が置かれた。
(だけど―)
『君らしいよ。すっきりしていて』
そう、彼が言ったから、私はパステルカラーのカーテンも、アイボリーの家具も、全部取りやめにした。
こたつなんて言語道断だった。私はお洒落で、垢抜けて、彼の思う通りの女でなければならなかった。
『女の子なんだから』
それなのに彼は、私にそう言った。何度も言った。
もう付き合いきれないわ、と言ったら、強気な君らしいね、と言われた。それで全部終わりだった。
「付き合いきれん」
だから私は、動きを止めたファンヒーターをあの人のように睨めつけて、それからさらにこたつにもぐる。
モノトーンの部屋の中で、彼と別れたその日に買ったこたつだけが異彩を放っていた。
ウソ
嘘八百。
この部屋で一番異彩を放っているのは間違いなく私だ、という確信を頼りに、私は眠りに落ちた。
(この部屋に一番相応しくないのは私だ―)
ピンポンピンポンと間抜けな音が鳴って、私の意識は覚醒へと向かった。
「誰だ、こんな時に」
はしたなくもこたつで寝てから1時間というところか。窓の外を見遣ったら、まだ吹雪は収まっていなかった。日曜の吹雪。こんな日にセールスなんて馬鹿げている。
それから宅配業者のことを考えたけれど、何かを注文した覚えはなかった。
久しぶりに仕事も部活監督もない日曜の午後だというのに、チャイムは鳴りやまなくて、私は苛立ちに任せてこたつから這い出る。そうしたら部屋の中だというのに息が白くなった。
だけれど構わず玄関まで行ったら、目当ての灯油の入ったポリタンクがあって、私の苛立ちが助長された。
だから私は、チェーンで細く開いたドアの向こうに一息に言った。
「新聞なら間に合ってる。テレビは基本的に観ない。飯の種にも困っていない」
「痛い!まさ子ちんのバカ!急に開けないでよ!」
「……は?」
チェーンで開いた分のドアに、盛大に頭をぶつけたらしい大男に、私は一瞬声を失って、それから彼がかつての教え子だということに気がついた。―かつてと言っても、彼が卒業したのは一年前のことだが。
「紫…原…?」
「さーむーいー。早く入れてよ」
へにゃりと、かつてと変わらず笑った彼に、私は思考が追いつかず、だけれどのろのろとチェーンを外す。そうしたら、大型犬みたいな彼は遠慮もなしに玄関に滑り込んで、ドアを閉めた。
「あれ?寒い。外と変わらないじゃん」
あれーと繰り返しながら部屋へと入っていく紫原を、私は漫然とながめなから、そういえば、ヒーターの灯油が切れたんだったと、やっぱりぼんやり思った。
「まさ子ちん、何やってんの!?ヒーター止まってるじゃん!風邪引くよ!」
びしっとヒーターを指差して言った後で、私が何か言う前に、彼はヒーターの灯油タンクを取り出し、玄関に逆戻りする。
「おい…!」
「大丈夫ー。高校ん時、部室のヒーターに何回も詰めたからやり方くらい分かるよ。まさ子ちんは相変わらずだね。きびきびしてるワリにこーいうこと嫌いなんだからさぁ」
彼がそう言ったら、たぷたぷと灯油がタンクに移し替えられる音がして、私は何を言ったらいいのか分からなくて、だけれど寒いから、こたつに戻った。
戻ってそれから、彼に声を掛ける。
「なんでこんなところに来た」
「んー?まさ子ちんからの年賀状に住所書いてあったからさー。冬休み暇だしー?」
通り一遍に住所が書いてあったら来るものなのか?と思っていたら、彼は続けた。
「ここ、案外学校から近いんだね。懐かしいや」
「当たり前だろう。勤めているんだから」
そういうお前は、と続けようとしたところで、彼がこちらに戻ってくる。
ガシャンとタンクを戻されたヒーターは、今度こそ正常に作動した。
「寒いー」
そう言ってこたつにもぐった紫原をしげしげと眺めて、私はこの"騒動"の核心を言った。
「何しに来た」
シンプル過ぎて頭が痛くなりそうだが、彼と私の関係は、卒業生と教師である。その関係で出された年賀状を頼りに、彼がわざわざここに来る必然性はなかった。
「んー?まさ子ちん元気かなーと思って」
「馬鹿者。わざわざ来たりしたら見咎められるかもしれないだろう。電話なり手紙なり」
「見咎める相手いるの?」
「な!当たり前のことを言うな!生徒を部屋に上げたなんてそれだけで」
「俺、もうまさ子ちんの生徒じゃないもん」
それとも、と彼は笑った。凶暴な笑みだった。
「見咎めるって、学校関係以外?」
からかうような言葉と、威嚇するような顔に、私は嘆息する。どうしてそんな息がもれたのかは分からなかった。解りたくなかった。
「いない、そんなの」
「だよねー」
「な、な、なんだ!」
ついっと彼の長い腕が伸ばされて、無骨な指が頬を撫でたので、私が叫ぶように言ったら、紫原は今度こそいつも通り笑って言った。
「カレシいるなら頬っぺたにねっころがった跡つけたりしないよね」
カレシ、という言葉に、私は狼狽する代わりに心が凪いでいくのを感じて、自分でも驚いた。
そうしてそれから、この部屋には、もっと狼狽えて、もっと初な反応が出来る女の子が似合うのだと思って息をつく。
「用はそれだけか」
突き放すような口調で言ったけれど、頬に触れる彼の手を払いのけない私はなんなのだろう。
頭の中の妙に冷静な部分が私を笑った。
生徒相手に何をしている、と冷静な部分に笑われたから、私は彼の大きな手を頬から引きはがそうとこたつから手を出す。そうしたら、頬を撫でていた彼の手が、機敏な動きで私の手を捉えて引っ張った。
「なんだ!」
前屈みになった私はさすがに驚いて声を上げる。そうしたら、前屈みになった分近づいた彼が笑った。
(あ…これ…)
あの距離だ、と思う。
そう思ったら、案の定彼の顔がより近づいた。
キスの距離だ、と思った時には、もうあたたかくやわらかなものが唇に落ちて、私は言葉を失った。
「用、といえばこれくらいかな」
至近距離で彼は言った。私はまだ言葉を見つけられなかった。
「俺はもうまさ子ちんの生徒じゃない」
もう一度彼はそう言った。
生徒だった頃だって、私を『監督』とも『先生』とも呼ばなかったくせに、と心のどこかで悪態をつく。だけれど、呼ばなかった彼の声を、知っているのに知らない振りをし続けたのは、彼が『生徒』だったからか。それとも―
(私が"この部屋の"女だったから?)
「俺さ、かなーり粘ったよね」
彼の、言葉とは裏腹な優しい声音に、ぽたりと滴が落ちた。
「まさ子ちんに初めて好きって言ったのが2年前」
お前は生徒だから、と私が言ったのも2年前。
こたつを買ったのは3年前で、そのこたつが、2年前の彼の言葉を無邪気に喜ぶことを阻んだ。
その、長いようで短い歳月が、私の涙腺をひどく緩ませる。
「馬鹿者。どうしてまだ好きだなんて言える。三十女なんか相手にするな」
「まさ子ちんがさ」
私に構わず彼は言った。
「まさ子ちんが、誰かを忘れられないでいるの、知ってたよ」
「何言って…」
「そこに、毎日みたいに付け込んだ俺は悪いヤツだね」
「何言ってるんだ!お前の気持ちを知っていたのに、嬉しかったのに踏みにじった私は―っ!」
彼の指が私の唇を優しくなぞる。
「悪いヤツは俺だから、まさ子ちんは悪くないよ」
言葉が出ない。
その代わりのように、ヒーターがピーピー鳴った。緑のランプが点滅。換気をしなくては。
確かに、この、私を閉じ込めるあべこべな部屋は、少々暖まりすぎた。
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紫荒は何というか、未来なのですよね。黒バスのカップルほとんどに未来と言っていてすみません。
2013/2/25 ブログ掲載
2013/5/23