コーヒーに、砂糖を入れる。角砂糖。
 一個、二個、三個。
 カップをくるくるスプーンでかき混ぜる。
 四個、五個、六個。
 スプーンがカップの中で物体にぶつかる。
 七個、八個、九個。
 もう溶けない。だけれど私は、砂糖を入れることをやめない。

 私?
 砂糖を入れることをやめないのは私?
 砂糖を入れることをやめないのは誰?

 私?
 誰?
 彼?


Liar


 カチカチとシャープペンシルから芯を繰り出す。
 机の上には真っ黒なコーヒー。砂糖は入っていない。
 甘ったるいのは嫌い。

 うそ。

 机の上に広がる学年末テストを控えたノートの内容は、どこか殺伐としていた。もっとカラフルで、可愛いノートを作ればいいのに、なんてぼんやりと思う。どうしてそんなことを思ったかは分からない。

 甘ったるいのは嫌い。
 うそ。
 甘いケーキが好き。クッキーが好き。パフェが好き。

「甘ったるいのは嫌い」

 携帯がランプを点滅させたので、口に出して言ったが、それはどうにもばかばかしい内容だった。
 時刻は午前二時。こんな時間にメールをしてくる人間なんて、現状一人しかいない。だから、甘ったるいのは嫌いだと嘯いてみた。
 いっそのこと、着信拒否なりなんなりしてしまえばいいのに、と、メールが届くたびに思うのだけれど、それはまだ実行されずにいる。その理由は分からない。それは、一週間に一通届けば上々のメールだから気にならないのかもしれないし、もっとほかの理由があるのかもしれない。だけれど、その理由は分からない。
 軽く伸びをして、携帯に手を伸ばす。彼からのメールに気がつくと、根を詰めすぎたな、と自分でも思う。だって、こんな時間まで起きているのだから。
 それからぼんやりと、いつもこんな時間にメールを寄越すのに、どうしてかいつも起きている自分に思い至って、私は可笑しな気分になった。タイミングがいいのか、悪いのか、はたまた見透かされているのか。

「どれだって一緒」

 折りたたみ式の携帯を開いて呟く。

『え?何が一緒なん?』
「は…?」

 呟きには、何故か返答があって、私は携帯を取り落としそうになる。その返答は、確かにこの小さな機械仕掛けの箱からあったものだ。

「な…!?」

 恐る恐る確認したら、携帯の画面は通話中のそれになっていた。
 メール主体の女子高生に、家族以外と携帯での通話をする機会はあまりなくて、家族以外との通話は部活や生徒会といった種々の連絡事項が多いから、携帯を開いたらすぐに通話できるようにしているので、これはそう驚くべきことではないのかもしれないが、とっさのことと着信の時刻に、完全にメールの着信だと思っていた自分のうかつさに、冷や汗が流れた。

「日向くんの言う通りだわ」
『他の男の名前出すとか、相変わらずひどっ!』

 箱の向こうで、怪しげな関西弁を操る男は、幼馴染が言う「危ない電話がかかってきた時、切れないから、その機能はやめた方がいい」という忠告に則している気がした。ディスプレイに彼の名前が出たら、確かに電源ボタンを押す自信があった。

(本当に?)

 そう思ってから、私は小さな思考に囚われる。電源ボタンを押す‘自信’があった?本当に?その自信はまやかしではないの?

『あーいーだーさーんーどないしたのー?』
「…うるさいですね」
『ひど。折角出てくれたんに、他の男の方が良いだの、うるさいだの』
「他の男の方が良いなんて言ってないわ。うるさいのは事実ですけど」

 事実を捻じ曲げられたので、一応言っておいたら、箱の向こうの男が楽しそうに笑う息遣いがした。

『それはつまり、ワシの方がええってこと?』
「曲解甚だしいですね…こんな時間に何の用です、今吉さん」

 ほら、その‘自信’は本物?
 ほら、今からだって電源ボタンを押せばいいだけでしょう?

 私の頭の中の冷静な部分が、‘私’をせせら笑う声がした。

『そうそう、こんな時間。お肌に悪いで』

 彼は、私の質問に答えずに笑った。今度は、息遣いだけではなく声に色がついたように、楽しげに笑うのが伝わって、私の緊張は変なふうに解消された。
 ―――そもそもにして、彼の携帯と通話がつながってしまったことに気がついた時に感じた緊張と、背中を流れた冷や汗は、所詮、予期せぬ着信、というだけのものであって、彼自身に対する不信や恐怖から来るものではないのだけれど。
 そう思ってから、電話で話すのなんて初めてだ、ということに気がつく。今まで散々、一方的にメールを受け取ったり、カフェに誘われたりしてきたわけだが、こうやって、間接的な形で会話をするのは初めてのことだった。

「テスト近いんです」
『あー、学年末?』
「そう」

 それなのに私は、気がついたら‘お肌に悪い’時間まで起きている自分の行動の言い訳を、彼にしていた。

「今吉さんは?」
『んー?』

 その言い訳は、なんだかばつが悪くて、私は訊き返す。別に、特段知りたいわけでもない内容だった。

「今吉さんはどうしてこんな時間まで起きているんですか?大学受かったってこの間メールに書いてあったのに」

 視線の先に、机の上の無糖のコーヒーが見えた。黒色のそれは、マグカップの中で冷え切っているはずだ。

『メール、ちゃんと読んでくれてるんな』

 ぽちゃんと間抜けな音がして、冷え切ったコーヒーに角砂糖が落ちた気がした。
 駄目。
 溶けない。
 それは冷たいから。それはもういっぱいだから。
 角砂糖を落としたのが誰なのか、私には判らない。

『相田さん、今暇?』

 勉強しているのだから暇なワケないでしょ、という気持ちが半分、暇だから勉強しているのよ、という気持ちが半分。しかしながら、全くもって相反するこの気持ちを体感する高校生は少なくないのではないか、と私はぼんやり思う。
 それから私は、やっぱり少しも可愛げのないノートに目を落とす。赤ペンで印が付けられ、『テスト出題』と書かれた数式が、思った以上にばかばかしくて、だから私は大きく欠伸をした。

「暇ですよ」
『まあ、試験勉強なんぞやってるいうことは暇やってことやからな』

 機械の向こうの彼も、その相反する感情を知っていて、私はなんだか背筋がむずがゆくなるのを感じた。だが、その後に彼が続けた言葉に、私は言葉を失うことになる。

『暇やったら、相田ジムの前、来られる?』
「…はあ!?」

 一瞬言葉を失って、そうしてそれから、深夜にもかかわらず大声が出た。彼が何を言っているのか理解し難い。
 相田ジム、というのはあれだろう、私が今いる自分の部屋から直線距離で10メートルと離れていない、言ってしまえば我が家の離れみたいな所のことだろう。
 だから私は、椅子から立ち上がって窓のカーテンを開けた。

「そんなところで何やってるの…」

 窓の向こう、ジムの入り口の常夜灯の下に人影を見つけて、私がぽつんと言ったら、箱の向こうの彼は面白そうに笑った。

『お、明り点いとるから多分、と思ったけど、そこ相田さんの部屋なんな』
「眼鏡叩き割ってもいいですか」
『大丈夫、部屋にクマさんがいてはるなんて誰にも言わん』
「……」
『え、冗談やねんけど?ほんまか?あ、言うとくけど見えてへんよ、視力悪いもん』
「男が『もん』とか言わないでください!あなた本当に人が嫌がることばっかり言いますね!」

 叫ぶように言ったら、窓の向こうの彼が肩を揺らすのがわずかに見えた。それは、笑っているようでもあり、呆れているようでもあった。だけれど、どちらだって一緒だと思った。

『来られる?』
「……これで行けないって言ったら、私、だいぶ嫌なやつよね」
『せやなあ』
「そこは否定してください」
『否定したら相田さん来てくれんくなるやろ?』

 可笑しげに彼は言った。また肩が揺れた。今度のそれは、笑っているのだと知れた。

『おいで。休憩しよ』
「……」

 嫌だと言えばいいのに。

 電源ボタンを押して
 カーテンを閉めて
 電気を消して
 ベッドに逃げてしまえばいいのに。

 だけれど、私はそれができない。

 私は?
 彼は?
 誰は?


『自販機でコーヒー買うてあげるから』

 あったかいやつ、と彼が付け足したので、缶コーヒーで釣れるほど安くないわ、と反駁しようとしたのに、唇から落ちた言葉はそれとはまったく違っていた。

「甘くないと嫌よ」

 全く以て、ふざけた言葉に、自分でも拍子抜けした。
 全く以て、ふざけた内容。
 全く以て、ふざけた私。

『じゃあ、うんと甘いやつ買うてあげる』

 もう砂糖が溶けないくらい甘いやつ、と彼は笑って言った。
 だから私は、家族を起こさずにその直線距離10メートルを渡り歩く方法を考える。
 考えて、歩きだして、部屋から出て、階段を下りて、箱の向こうの彼は景気のいいことをその箱に吹き込んでいて、私は生返事を返しながらそろそろと歩いて、面倒だ、と思ったけれど、手違いで不意に始まったその通話は切らなかった。
 その理由は、分からない。
 その意味は、分からない。

 そうしてそれから、口には出さずに心の中で思う。

(甘ったるいのは嫌い)

 そうして私は自分自身に反駁する。

「……うそつきは嫌い」


『「だーれが?」』


 声が二重になって聴こえて、いつもの通り笑う彼が見えた。

「うそつきは嫌い」

 だから私は、もう一度、そう言った。

 甘ったるいのは嫌い。
 うそつきは嫌い。
 うそつきは一体誰?

 一体全体どういうことか。

「甘くないと嫌よ」

 笑って手を振った彼に、私は念を押すようにもう一度そう言った。
 私は、私自身に念を押すようにもう一度言った。

Yes my princess !

 ふざけて彼はそんなことを言った。
 全く以てふざけている。

 ふざけている?
 私が?
 彼が?
 誰が?

 砂糖を入れることをやめないのは、誰?


Liar! Liar! Liar!




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今リコがマイナーだなんて信じない、と虚言を以てして自分を奮い立たせる感じです。嘘です。本当にうそにもほどがある。今リコマイナーですねorz
イメージソング:東京事変「スイートスポット」

2012/2/25 ブログ掲載

2013/5/23