蜜柑


 こたつの上に無造作に載せた蔦の籠の中に入ったミカンを食べる元教え子に、私は何となくケチを付けた。

「筋を取るな、筋を」
「えー、美味しくないじゃん」
「栄養はそういうところにあるんだよ」

 点けっ放しのテレビは歌番組だった。特集は五年前だかのブームについてで、大昔に売っていたCDが、過去の売上ランキングに入っていて、私は盛大に舌打ちをする。

「あー、あれ、まさ子ちんが持ってたヤツじゃね?」

 一瞬映ったジャケットはシンプルなデザインだが、訴えかけるものがあって、彼―――紫原も記憶していたらしい。

「ハズレだよね」

 うんうん、と一人うなずいて、紫原は白い筋の完全に取られたミカンの房を口の中に放り込んだ。





 失恋ソング、というやつがある。すごいネーミングセンスだと思うが、そういうものなのだろう。「この冬一番泣ける失恋ソング」と、ポップに書かれていて、私は何故かそのCDをレジに持っていって、買っていた。失恋ソング。
 聴いてみたかった、とか、そういうことではなくて、作曲した人間が、どんな失恋を想定しているのだろう、と思った。私の失恋はこの失恋ソングにカウントされるだろうか、という、変な興味と、多分、失恋ソングを聴く大多数の人間が考える、その失恋ソングによって救われる私、というものを私は考えていた。
 ……結果は散々だった。その失恋ソングが想定している‘失恋’に比べたら、その時の私の‘失恋’は、恐ろしくお粗末だった。
 心が離れていった、とか、あなたがまだ大好きなのに、とか、そういう全部に辟易した。違う、と思った。私の恋は、もっと馬鹿げていて……と、自身の過去の恋を論ったら、泣けて来て困った。その曲が悲しいんじゃない。自分の恋のあまりの惨めさに、泣けてきた。
 そうだというのに、その過去のどうしようもない馬鹿げた恋が、もっと神聖で、重要なものだと思おうとしていた自分がいたことも今になってみると分かる。

「あれ?まさ子ちん、目、はれてるけど」

 失恋でもした?と、その日体育館に一番早く来た紫原は言った。
 日曜だった。止せばいいのにカーオーディオでその曲を聴いて部活に来た私の目は、みっともなくはれていた。

「うるさい」

 OB参加の特殊練習の集合時間までまだ一時間もあるのに、と私は舌打ちした。紫原は、誰より早く体育館に来て練習するのが常だったから、誤算だった気もしたけれど。

「あれあれ?マジで?」
「してない!」

 私は吠えるように失恋というのを否定して、思いっきりボールを彼に向かって投げつけた。紫原はひょいっとそれを受け止めて、困ったようにドリブルの真似事をした。
 ドリブルと呼べそうもないドリブル。トンっと彼の掌と床を行き来するボールを、私は憎らしいような思いで見つめていた。

「お前は若いからいいよな」

 口を衝いて出た言葉は、思った以上にしおらしかった。

「なにそれー?俺は悩みないみたいな言い方じゃん」

 ヘラっと笑って紫原はシュートを撃った。よく覚えている。そのシュートは、綺麗にリングをくぐって、それから彼はやっぱり笑って言った。

「悩みならあるんですけど」





「このミカン美味しいね」

 今年はアタリだ、と彼は言って、リモコンでテレビの電源を切ってしまった。
 段ボール箱に詰め込まれたミカンは、年によって、あるいは箱によって、もっと言えば個体によって味が違う。甘いのから酸っぱいの、大きいのから小さいのまである。甘さと酸味のバランスがいいミカンを選び出すのは難しい。などという、どうでもいいことを私は考えた。
 考えてそれから、そうやって選ぶだけのことがあったのだな、と思った。ハズレの年もあって、当たりの年もあって、当たりハズレに言及できるくらいには、彼と冬を過ごしているのに気が付いた。


『チャンスだなっていう悩みがあるね』
『……は?』
『まさ子ちん失恋したなら、その痛手に付け込んでやろうかな、って』


 全然、そんなこと思っていない、痛手に付け込んでやろうなんていう酷い考えなんてない声音で、あの日彼は言った。ただの教え子だと、卒業生だと思っていたのに。
 私を慰める嘘だろうか、と思った。だけれど、彼は至って真面目な顔で微笑んでいて、私は混乱した。縋っていいのだろうか、と、年下の男に思うなんて、どうしたって可笑しかったのだけれど。


 その日の帰りに、私は箱でミカンを買った。どうしたって食べ切れない量のミカンは、だけれど冬のうちに私の部屋に入り浸る彼によって消費された。
 些細で、他愛もないことだが、その時買ったミカンの箱が忘れられなくて、私の部屋で私と彼が食べるミカンの箱、というか、産地は毎年決まっていた。

「そろそろさ、あれですよ」

 筋の綺麗に取られた房を一つ向けられて、私は口を開ける。ひょいっと投げ入れられたミカンは、成程、甘みも酸味も申し分ない‘美味しい’ミカンだった。

「もうちょい広い部屋に行きたいな、とか思うワケ」

 部屋っていうか、家?と彼は言った。私は驚くでもなくもぐもぐとミカンを咀嚼した。

「ミカンが美味けりゃ、どこでもいいよ」

 ミカンという建前と強がりに、彼は笑った。
 「お前がいるなら、どこでもいいよ」という、口に出さなくても伝わったそれが、ひどくあたたかかった。






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紫荒×ほのぼの